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最終章
宇宙の外側
しおりを挟む「俺は四人目の俺を知らない」
それは彼らしい淡々とした声色だった。
いいや、木崎隆明という男を全く知らぬ者であろうとも、そのどんよりと暗く腫れぼったい目や、いかにも退屈げな表情、どちらかといえば大柄な体躯を前に倒し、木枯らしでも避けるかのように視線を落とした姿を見れば、なるほど彼は人生そのものに絶望し、まったく世界はくだらぬと、何もかもに飽き飽きした世捨て人のていで感情のこもらぬ口調が定着してしまっているのだな、と納得しようものだったが、逆に彼をよく知るものからすると、どうにも彼らしからぬ、何処か不自然な調子に、若干の違和感を覚えてしまうのだった。まるで無理矢理そう装っているかのような──。
“苦獰天”の総長である野洲孝之助などは、彼の話の凄まじさにただ圧倒されるばかりでなく、さらに努めて淡々とした口調を維持しようとする木崎隆明の態度に、その話の信憑性が、霊妙性が、次々と上乗せされていくような、どうにも敵わない気持ちにさせられていた。
「吉田くん、本当に何も覚えていないんだね」
その声に問い詰めるような刺々しさはない。木崎は優しげに微笑んでいた。それは言ってみれば堅物の老人が孫に見せる笑顔のような、想像の範囲内で起こり得る事象の一つではあったが、彼のその無意識にコーヒーを求める手の動きはといえば、平静を装おうとする彼の声色と合わせて安易ならざる雰囲気を備えていた。
吉田障子は顔を上げなかった。ひどい苦しみに喘いでいるようであり、今にも夜の影に押しつぶされてしまいそうなくらいに背中を丸めてしまっている。思わず悲哀を覚えてしまうほどに哀れな姿であった。
「おい少年、大丈夫か?」
流石に見ていられなくなった孝之助がそう声をかけた。早瀬竜司もまた何処か気まずそうに足を揺すっている。
「お前、どうした?」
「なぁ吉田くん」
「うるさい!」
暗い影がスッと縦に切り裂かれた。
それは少年の怒りの声だった。
障子のよく通る声に、一瞬、夜の世界が動きを止めた。
「知らないってば! 何も知らない!」
木崎は驚いたように言葉を止めた。野洲孝之助と早瀬竜司も呆気に取られたように障子を見つめている。
「何も覚えてないって言ってるのに! 何でそんなこと……そ、そんな、そんなの関係ないじゃん! 誰も……ぼ、僕だって、呼ばれたくて呼ばれてたわけじゃないのに!」
「それでいい」
そう彼らしからぬ朗らかな声を上げた木崎は、体を前に倒し、両肘を膝の上に乗せ、頭を下げた。
「すまなかった」
そうして消えゆく自身の手のひらを見つめる。そのまま木崎が黙り込んでしまうと、嫌に寒々とした重苦しい沈黙が夜の教室を包み込んでいった。
「なぁキザキ、コイツも王子って呼ばれてたらしいけど、まさかお前の代役だったってのか?」
竜司は訳が分からないと言った様子で頭を掻いた。彼の側のコーヒーカップからは未だ白い湯気が夜闇に揺らいでいる。
「吉田くんは違う」
「ああ? なら何でコイツに訳わかんねぇ質問しやがった?」
「同じあだ名を持つ者として興味が湧いた。それだけの話だ」
「少年が王子と呼ばれているのであれば、キザキさん、貴方の代役だと考えるのが妥当ではあろう。現に年代も一致している」
孝之助はそう言って、背中を丸めた少年を見下ろした。月明かりに浮かんだ埃が静止して見える。まるで障子の周囲だけ時間が止まっているかのようである。
「いいや、違う。吉田くんの一つ上に、王子というあだ名を持つ女生徒がすでに存在している」
「それは、つまり王子が二人いると?」
「五人目の俺の代役は三原麗奈という少女だろう。それは彼女の親友である大野木紗夜という女生徒が五人目のヤナギの霊であることからも推測できる。だから吉田くんの場合は……まぁ、偶然だろう」
孝之助はジッと状況を考え込むように眉間に指を当てた。青い月の光は、廊下側に立つ彼の元までは届いておらず、それでもその純白の特攻服が彼の存在を際立たせている。
「偶然かよ」
竜司はため息に近い声を出した。そんな彼の視線は背中を丸めた少年に向けられたままである。
障子は縮込めていた肩を少しだけ柔らかくした。鼓動も徐々に静まってきており、ゆっくりと息を吐き、そうしてじっとりと湿った背中の汗を感じられるまでに落ち着きを取り戻していた。
考えてみれば可笑しな話だった。
戦中の幽霊だのと、女生徒の生まれ変わりだのと、あまりにも非現実的な話である。実際に体験している不可思議もまた夢と考えるのが妥当ではないか。ましてやただただ不快なだけであった王子というあだ名に、時代を跨ぐほど凄まじい因縁が込められていたなどと、馬鹿馬鹿し過ぎて薄ら笑いすら浮かべられない──。
障子はそう「へっ」と薄ら笑いを浮かべた。
いいや、そもそもが、王子というあだ名を持つ女生徒が一つ上に存在しているのである。それは何も、この学校にまつわる忌まわしき因果の全てがその女生徒に繋がるという話ではなく、王子などという何とも子供染みたあだ名が特別なものではないと──例えば羨望だったり、或いは皮肉の込められた嘲笑だったり、友達同士でふざけて呼び合うこともあれば、単に名前が似ているからと呼ばれることもあるだろう──そんな、言ってみれば何処にでもありふれた普通のあだ名であると、障子は、王子というあだ名が可愛らしくすら思えてきた。演劇部の部長であり、一つ上の先輩でもある、美人で人気者の三原麗奈という女生徒もまた王子と呼ばれている。障子の初恋の相手の、三原千夏の姉である、彼女もまた──。
じゃあ、吉田くんが王子ね──。
ドッとまた心臓が暴れ出しそうになった。
障子はギュッと手を握り締めると、俯いた。
「キザキさん、もしや貴方、自分の生まれ変わりに見当が付いているのでは……?」
孝之助は眉間から指を離すと、窓辺に座る陰気な男を睨んだ。
「いいや」
「ヤナギの霊などと仰々しく呼ばれてはいるが、結局のところ生身の体を持つ人間ではないか。代役がいるというのであれば、それに近しい者の中に貴方の生まれ変わりがいるはずだろう」
「その可能性も考えた」
「見つからなかったと?」
木崎は静かに首を振った。
ゆっくりと、頬を撫でる冷たい風を避けるかのように、微かに。
「俺は生まれ変わるごとにその性格を大きく変えていった」
空のカップを掴んだ木崎は深い吐息と共に肩を落とした。
「田村しょう子はまさに物語に出てくる王子のように、前向きで、活動的で、世話焼きで、春風駘蕩とした人だった。俺はその頃の俺を覚えているが、まるで子供の頃の記憶のように、鮮やかなばかりの記憶の中身は判然としない」
青い月明かりに熱はなかった。
涼しい夏の夜の教室である。
障子はひんやりとした机に腕を付き、また陰気な男の話にそっと耳を傾けた。
「松本一郎は果てない後悔と罪悪感に囚われた男だった。その頃の俺はひどい焦燥感に駆られ、抑え切れない激情に苛まれ、二人目のヤナギの霊である鈴木英子に対してどうしようもない負い目を感じていた」
「それは何故です?」
「理由は色々とある。性別が変わっていた。悲惨な戦争の後だった。何よりも、一人目の俺である田村しょう子がまだ生きていた」
「田村しょう子が生きていただと!」
「俺たちはただ記憶を紡がれているだけなんだ。当然、そういう事も起こり得る。ただ、だからこそ、俺は彼女に負い目を感じてしまった。自分という存在を否定した。徹底的に拒絶した。生まれ変わりを無邪気に信じる彼女に本当の話を伝えることなど不可能だった。田村しょう子だった頃の俺の最後の記憶は、空襲にバラバラとなった彼女の真っ赤な顔だ」
「まさか二人目の貴方も生きて……?」
「松本一郎は死んだ。十八歳となった鈴木英子がこの夜の何処かに姿を消してしまうと、俺はひっそりと、誰にも知らせぬままに自らの命を絶った」
孝之助はゴクリと唾を飲み込み、そのまま沈黙してしまった。
「そして三人目だ。俺は全てを諦めた。現実は何処までも残酷だと、平等で美しい世界など所詮は夢物語だと、全てを諦め、傍観者に徹しようとした。三人目の生まれ変わりである彼女を静かに見守ろうと、彼女の信じる物語にただ微笑むだけの影のような存在であろうと、視線を下げ続けた。それだけが俺の望みだった。……が、やはり現実はそう甘くなかった」
唐突に、木崎は空のカップを床に叩き付けた。白い破片が月明かりの下に弾け散る。
孝之助と竜司は唖然として口を丸くした。障子もまた驚きのあまり背筋を伸ばしてしまう。それほどまでに凄まじい音だった。夜の静寂が陰気な男の激情に震えた。
「小野寺文久は生まれながらの王だった。あの男は戦争と同じ厄災だった。この夜も日を追うごとに異質さを増していった。ヤナギの精神がその成長を止めることはなかった」
「その……もしや、小野寺文久の存在をどうにかしようと、四人目の貴方は姿を隠したのでは……?」
「俺も初めはそう思った。で、あるとするならば、何か手伝えることがあるかもしれないと、俺は四人目の俺を探した。だが、見つからなかった。俺は俺の全てを持って四人目の俺を捜索した。それでも出会えなかった。やがて王子の代役とされた白崎英治が行方不明となると、俺は四人目の俺を諦めた。生まれ変わった俺は影に隠れた影よりも薄い存在となっていた。僅かな痕跡すらも見当たらない。いいや、思うに、何もかもが中途半端だった俺とは違い、四人目の俺はやっと本当の意味での悟りを開けたんだ。全てを諦めたつもりになって、傍観者を気取りながらも、それでも彼女を見捨てられず、この夜から目を背けられず、四人目の俺を探そうなどという愚かな行為に人生の大半を費やし、最後まで小野寺文久の存在をどうする事も出来ないまま、こうして負け犬となって消えていくことしか出来ない俺とは違って、四人目の俺は初めから全てを捨て去ることができた。この夜も、アイツも、彼女も、そして俺の存在も──四人目の俺にとっては大宇宙を漂う小さな小さな星の中の、ほんの一瞬の流れの一つに過ぎないんだ。そう、四人目の俺はやっと悟れたんだ。やっとこの果てない苦悩から逃れる夢が叶ったんだ。だから俺も四人目の俺を諦めようと思った。それは何も軽蔑したからとか、恐れたからという理由ではなく、俺は単純に四人目の俺が凄いやつだと思って、だから俺程度ではどうしようも出来ないだろうと、俺は見えない俺の背中に手を振った。だから俺は──」
「諦め切れてねぇじゃねぇか」
竜司は「チッ」と舌打ちをし、ペッと唾を吐いた。
そんな彼の言葉に、木崎はふっと肩の力を抜くと、口惜しそうに割れたコーヒカップを見下ろした。
「ああ、そうだな……。俺は本当に何もかもが中途半端な奴だ」
「それの何処が悪ぃんだよ? 捨て去るなんて聞こえはカッコいいかも知んねぇが、結局それってただ逃げてるだけじゃねぇか。俺はお前みてぇに諦めの悪ぃ野郎の方がよっぽどマシだと思うぜ」
「そうか。ありがとう」
「褒めてねぇよ死ねや!」
ガンッと椅子が蹴り上げられる。ビクリと障子の肩が跳ね上がる。
木崎は微笑み、そうして話を続けた。
「実際のところ四人目の俺については想像の範囲内でしかない。逃げたのではなく、まだ何かをやろうとしている可能性もあるし、もうすでにこの世にいない可能性だってありえる」
「五人目についてはどう考えてるんです?」
孝之助がそう口を挟んだ。何気ない、軽い口調であった。だが、木崎の表情が再び固くなると、孝之助は何か失言をしてしまったのではないかと、慌てて自身の言葉を思い返した。
「五人目の俺は……そうだな。分からない、という言葉でしか表せない」
「それはどういう?」
「つまり……分からない」
それは先ほどまでの何かを躊躇うような、淡々とした、それでいて重々しい、彼らしい口調であった。
「四人目の俺は言ってみれば宇宙だ。その深淵を覗くことは難しいが、それでもこうして空を見上げれば、様々な想像を膨らませることが出来る」
木崎は夜空を見上げた。手を伸ばせば届きそうな距離で数え切れない星々がキラキラと瞬いている。
「だが、五人目の俺は違う。五人目は宇宙の外側──いったいそこに何があるのか想像も付かないし、もはや考える気にすらならない」
「だが、貴方は探した」
「ああ」
木崎は視線を下ろした。背中を丸めた障子と目が合うと、反射的に微笑もうと唇を動かす。だが、頬は強張ったままであり、何とも中途半端な、気味の悪い表情となってしまった。
「実のところ、五人目の見当は付いている」
「何ですって……?」
孝之助は驚いて、組んでいた腕を解いた。
「四人目の影すらも掴めなかったというのに、いったいどうやって五人目を見つけられたというんです?」
「だから不可解なんだ。俺にも意味が分からない」
「それで……いったいその五人目とやらは誰なんですか?」
「分からない」
「今まさに見当が付いていると言ったばかりでしょうが!」
「あくまでも、状況的に怪しい者がいるといった程度の話であり、その者が五人目の俺だという確証はない」
重々しい口調である。
一言一言、慎重に言葉を紡いでいるような、そんな印象だった。
「あまりにも怪しかった。存在そのものが不可思議だった。だから俺はその者を観察した。徹底的に調べ上げようとした。だが、その者の中に、外に、いったい何処にも、俺という人間の痕跡は一切見られなかった。ただ状況的に怪しいというのみで、全くと言っていいほどに、俺とは異なる人間であった」
「そういうフリしてんだろ?」
「いいや、アレは違う。アレは演技などといった類のものではない。根本から異なる人間であるとしか説明がつかない。だが、状況的に考えて、あの者以外に俺の生まれ変わりはあり得ない」
木崎の口調がまた激しくなっていった。それは怒りや悲しみといった人間的複雑な感情からの乱れではなく、最も根源的な、恐怖による震えであった。
「分からない。分からない。いったいアレが何を考えているのか。いったいアレが何を求めているのか。いったいアレが何をしようとしているのか。いったいアレは何なのか。分からない。俺には何も分からない。アレは悪魔か。それとも神か。この話をしたお前たちにいったいどんな危害が及ぶのか。それとも何も及ばないのか。全く想像が付かない。五人目の俺は宇宙の外側にある。だから俺はこの話をお前たちにするべきか否か悩んだ」
「つ、つまり、触らぬ神に祟りなしと……?」
「そういうことだ」
青い花を片手に月を見上げていた。
思えば幸福な最後など誰も望んではいなかった──。
大野木紗夜は澄み切った星空に手を振り、甘い花の香りに微笑んだ。それが本物の花でないと分かっていたからだ。たとえ物言わぬ花であろうとも終わりなど決して求めていない。たとえ悠然と輝く月であろうとも終わりなど決して求めていない。
誰も彼もが永遠の安息を求めていた。
ただ、それが叶わぬ夢であるがゆえに、人は愛を欲した。愛するがゆえに永遠を求めるなどと、てんで可笑しな話であった。そう、まるで子供の夢のような──。
紗夜は哀しんだ。
根本から間違っていたのだろうか。
やっと彼女は諦めたように泣いた。
そうして青い花に願いを込めた。
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