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最終章
鬼ごっこ
しおりを挟む小野寺文久は感慨深そうに口元に皺を寄せた。
思えば俺という男は生まれながらにして王であったと──。
闇夜に浮かんだ髑髏を見上げると、白銀の銃口を月光に煌めかせた。
「テメェが死にやがれ」
傲岸不遜。唯我独尊。不撓不屈。眉目秀麗。精明強幹。
蛇のように抜け目ない男であった。
虎のように獰猛な男であった。
猿のように明敏な男であった。
が、そのどれもが王には不要なものであった。
小野寺文久は生まれながらの王にして、それに満足出来るような人間ではなかった。
「このクソ野郎が」
発砲音が夜の校舎を木霊する。
天井を彩るチョークの粉が細かく震える。
やけに引き金が重かった。その冷たさばかりが気になった。出血のせいか、痛みのせいか、視界がぼやける。肝心の男の姿が目の前にない。文久は「チッ」と舌を打った。ちょうど真横に居た清水狂介の蹴りを受けるのと同時のことである。それは道端の小石を弾くような軽い蹴りだった。だが、腹を貫かれた文久にとっては息が止まるほどの衝撃であった。
「この銃でお前をあの世に送れるのか」
ほぉ、と頷くような声色である。気が付けば白銀の銃身が手から離れている。気が付けば白銀の銃口を額に向けられている。純銀の銃弾である。撃ち抜かれれば魂を砕かれる。それでも文久はその本能で冷静さを失わなかった。
「やっぱりな……」
そう、うっすらと微笑んだ。
まるでこの時を待ち望んでいたかのようである。
その傲慢なる王の表情が翳ることはなかった。
「では王よ、さらばだ」
「“動くな”」
時が止まった──そう錯覚してしまうほどに、それは突然の出来事だった。
狂介は驚きのあまり視野を狭くした。
いったい何が起こったのか。
指の一つすらも動かせない。
ただ拳銃を前に向けたまま、依然として不敵に笑う王を前に、狂介は無防備に立ち竦んでしまった。原因は分からない──いいや、おそらくは声だろう。嘆きとも呟きとも叫びとも囁きともつかぬ文久の「動くな」という声を耳にした途端、体の自由が奪われたのだ。それは想定だにもしていなかった未知の力であった。
惜しいな。狂介はそう思った。だが、こうなっては仕方がないと、別に焦りは覚えなかった。当然ながら敗北も想定のうちである。であるならば最後に考えられるだけ考えておこう。そう諦めたように、狂介は深い思考の中へと、自身の意識を落としていった。
文久の右手が動いた。懐から黒い拳銃を取り出すと、それを斜めに下ろす。そうしてひと呼吸の後、銃口を狂介の額に向けようとする。随分とゆっくりした動作だった。
と、突然、王の口から血が溢れ出した。さらに鼻から、目から、耳から──。どろりと歪んだ血であった。夜闇に暴れる炎のような。ただ、白いチョークの道には煌びやかな赤であった。
「クソ……が……」
文久は呻いた。
ひどく苦しげな声色である。
浅い呼吸には赤い霞が混じっている。
何か代償のある力だったのか──狂介は思考を再開した。
それでも文久は変わらず傲慢な表情だった。
「これが……俺だ……」
互いに銃口を向け合う。だが、狂介は依然として体を動かすことができず、完全に無防備な状態である。
文久の人差し指が引き金に掛かる。狂介は観念したように体の力を抜いた。
僅かな静寂。狂介はその時を待った。だが、中々銃声は鳴り響かなかった。
文久はペッと血を吐き出した。銃口を下げると口元に皺を寄せる。それは側から見れば相手を小馬鹿にするようなイヤらしい笑みであった。
「今度はテメェが鬼だ」
これには流石の狂介も呆気に取られた。
気が付けば体が動かせる。さらに無防備な的が視線の先にある。ならば、と拳銃を構えてみる。フラフラと体を引き摺る小野寺文久の背中を狙って──。
狂介はすぐに腕を下げた。ポケットからチョークを取り出した彼は、それを右腕の髑髏に当てると、白い道に赤い糸を伸ばしていく王に向かって淡々と声を張った。
「十秒待ってやろう」
銃声が轟いた。烈火が如き怒りの咆哮である。振り返った文久が、フラつく足を引き摺りながら、黒色の拳銃──スミス&ウェッソンM29の銃弾を撃ち放ったのだ。だが、とてもではないが狙いを定められるような体勢ではなかった。重症を負った身であり、たとえ完全に向かい合った状態でも、結果は同じであろう。
それでも狂介は「九」と声を張りながら、転がるようにして、隣の空き教室に飛び込んだ。十秒待つと宣言したからである。狂介は、この傲慢なる王と、もう少しだけ言葉を交わしておきたかった。
「八」
体に付いたチョークの粉を軽く払う。狂介は「七」と唱えながら、そっと廊下の様子を伺った。思いの外遠くへと王の影が離れていた。
「六」
ベレッタM92Fの握り具合を確かめた。当然、銃を撃った経験などはない。ただ、その白銀の拳銃は、大衆に広く知られているような形をしており、使い勝手は良さそうに思えた。
「五」
マガジンを外してみる。だが、残弾数は分からない。
「四」
黒板に銃口を向ける。空き教室は青いチョークに彩られている。
「三」
取り敢えず撃ってみた。その衝撃と音に肩が震えた。
「二」
血の跡が点々と廊下に赤い糸を伸ばしていた。
「一」
狂介は立ち上がると、そっと校舎の様子を伺った。
それは絶叫だった。
痩せた女の影が夜の校舎を走っていた。
今や吉田真智子の憎しみの対象は美しく冷酷な顔をした少女ではない。活発な少年のように不敵な表情をした睦月花子その人──。
いいや、違う。
その痩せた影を薄らせながらも真智子にはまだ思考するだけの心が残っていた。いわゆる巫女である三原麗奈は他者と肉体を入れ替えることが出来るのである。そう、まさに彼女の愛する息子の体が奪われた時のように──。そう、まさに彼女が親友の体を奪った時のように──。
いいや、違う。違う。違う。
「違う」
真智子は絶叫した。
今は苦悩する時ではないのである。まさにその巫女が、超人的な肉体を持つ睦月花子の体を奪い、そうして外へと逃げ出そうとしていた。そうなればまた息子の体が奪われてしまう。そうなればもはや為す術はない。そうなる前に方を付けなくてはならない。
とにかく、とにかく、とにかく──。
どんよりと暗い影が夜の校舎に広がっていった。
無限と思えるような時間が過ぎ去っていった。
が、それも束の間の時。真智子はすぐに校舎の端の教室にたどり着いた。そこは教室というよりは物置のようであり、窓辺の木箱や無造作に積まれた不用品が薄く舞った埃の中に沈んでいた。そんな月明かりの下に小柄な少女の影があった。
「貴方──」
ゆらりと痩せた女の影が揺れる。
凄まじい怨念に表情が崩れていく。
睦月花子は忍び寄る彼女の存在に気がついていない様子だった。何やら気怠げで、のそのそと、低い棚の奥を漁っている。片目を失った隻腕の少女だった。全身に重度の火傷を負っていた。立っていられること自体が奇跡であった。真智子はまた微かな違和感を覚えた。だが、そもそもが理解の範疇を超えた少女なのである。もはや考える間も惜しかった。それは母親としての本能か。女としての感情か。
「許さない──」
メラメラと髪を逆立てた真智子は、そんな凄まじい怒声と共に、睦月花子に向かって痩せた腕を伸ばした。
「やっーと私の方を向いてくれたってわけ?」
それは不敵な少女の声だった。
その声に反応することは出来ず、真智子はただただ重いばかりの衝撃の受け、視界を暗転させた。体の自由が利かなくなると、悲鳴すらも上げられぬままに、痩せ細った手足をバタつかせた。
「もー逃がさないわよ」
「あっ……がっ……」
首を絞められている──。
やっと、そこまで理解した真智子は、見えない神に縋る聖女のように両手を前に出した。そうして皮膚の焦げた花子の腕をギュッと掴む。小指と薬指の半分欠けた細腕である。もはや満身創痍であるはずの少女の右腕である。
「さぁ、観念なさい」
花子の額には青黒い血管が無数に浮かび上がっていた。
それは何を持ってしても抗えない鬼の力だった。
「なっ……な、なん……で……」
「そういう舞台だからだよ」
よく通る少女の声が乾いた夜の教室に響いた。
真智子は唖然として目を見開くと、モヤがかった視界の端に、三原麗奈の残忍な笑みを捉えた。
「ハッピーエンドってつまんないじゃん。悪人が悪人にやられる喜劇の方が皮肉が効いてて最高でしょ」
「まさか私が悪人だって言いたいの?」
クスクスという笑い声を耳にする。
いいや、それは幻聴か──。
薄れゆく意識の中で、宙に浮かんだ足を必死にバタつかせながら、真智子は悲鳴とも呻きとも怒声とも付かぬ声を漏らした。それでも懸命に目の前の少女を睨み下ろしていた。
「あっ……あ、あなた……! あ、なたが……三……原麗奈……でしょ……!」
「なわけないでしょーが。こんなクソモブウサギと入れ替わるくらいならバンザイ突撃かましてやるわ」
真智子はゾッと背筋を凍り付かせた。薄れゆく意識の中である。
つまり全ては演技だったのだ。三原麗奈という少女は、怒れる怨霊を前に、そのか弱い体で、痛みと苦しみを既に覚えさせられているにも関わらず、完全に無防備な状態で、反撃の不可能な状況で、ただ体が入れ替わっているという演技をこなすのみで、真智子を完璧に欺いてしまった。その行動を支配してしまった。
「あ、あ、あなた……」
恐ろしいと思った。
意識の誘導。憎悪の対象の変換。
三原麗奈から睦月花子へと対象を入れ替えてしまったことで、逆に花子に捕えられてしまった。
「ね、部長さん、簡単な役だったでしょ」
「適当に距離取れっつったり、アンタのことを下の名前で呼べっつったり、いったい何処が簡単な役なのよ」
「すごく簡単な役だと思いますけど?」
許さない──。
ゴオッと真智子の全身が赤い炎に包まれる。
凄まじい地鳴りと共に校舎が震え始める。
「貴方──」
そう赤い血の混じった泡を吹いた真智子は、暗い夜の底に両足を浮かばせたまま、鬼の細腕に捕えられたまま、呼吸を止めさせられたまま、鼓動を暴れさせたまま、そっと左腕を横に伸ばした。空色の光に向かって暗い影を伸ばしていった。
「この悪魔──」
麗奈の表情が微かに翳った。そんな彼女の頬に痩せ細った真智子の手が触れる。すると赤い火花が飛び散る。それでも麗奈は決してその場を動かなかった。
「悪魔で結構」
そう呟いた。
空色の瞳から涙が零れ落ちる。
やっと堪え切れなくなったのか、麗奈の喉が小刻みに震え始める。
「小さな世界を守るためなら悪魔にだって何だってなってやる」
真智子の痩せ細った手をグッと握り返すと、その瞳をさらに薄く、清流のように透明に、青々と澄み切らせていった。
「たく……」
ふぅっと花子はため息をついた。
そうして、何やらやり切れぬ様子で軽く首の骨を鳴らすと、二人を引き離すように右腕に力を込めた。
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