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最終章
ずっと。
しおりを挟むまだ、ほんのりと寒い朝だった。
五月の澄み切った空から伸びる光が朝霜の晴れた学校の窓を透かしていた。そんな陽射しに校舎は皮をめくった栗のような艶やかな色を帯びていた。
顔のない人形が廊下に並べられている。
赤子ほどの大きさのそれらは、校舎のあちこちに、不恰好に、乱雑に、そっと寝かされていた。
戦中の校舎である。
夢の中のように静かな朝である。
そんな静寂の校舎に、ゆらりと揺れる黒い影が迫っていた。
暗い夜の底から、澄み切った空の青に向かって、黒い影が這い上がってきた。
「私が仕掛けたの」
三原麗奈はそう言って、柔らかく微笑んだ。
空色の瞳が朝日に薄らいでいる。亜麻色の髪が静寂に流れている。
その色と合わせて、麗奈の瞳は、真冬の空を思わせるほどに冷え切っていた。
「私を恨ませたの。私を殺したいほど憎ませたの。吉田真智子は精神ばかりが肥大した化け物だから。未知への恐怖を忘れ、既知への苦悩ばかりを抱え込んだ人外だから。だからこそ後先考えず憎悪の対象である私の元にやってくる。ほんと、馬鹿で哀れな女」
睦月花子の目付きが鋭くなる。
やはり私の敵はコイツだと、花子の額に無数の青筋が走った。怒りを一切隠さず、麗奈の整った横顔をギロリと睨み付けた。
「うわぁ、部長さん、こわーい。てか、キモーい。そういえば部長さんも人外だったよねー」
麗奈は広げた手を口の前に、仰々しく体を前に倒すと、花子の黒い瞳をジッと見据えた。突然の風に驚いた少女のように可憐な表情である。が、その瞳の色は潰れたゴキブリを観察する子供のように冷たい。麗奈もまた、隣に立つ花子のことを、敵としか認識していないようだった。ようは優先順位である。全ての事が済んだ後、また新たな舞台の構成を考えねばならないと、張り切っている様子であった。そうして、睦月花子をその舞台の主役に立ててやろうと目論んでいるような、麗奈はそんな表情をしていた。
「来たぞ」
掠れた声が落ちる。鷹が如き老婆の瞳は見開かれたままである。
姫宮詩乃は二人の少女のいざこざに全く関心がないようだった。
「こっちよ」
麗奈はそう呟くと、空色の視線を斜め下に動かしていった。ローズピンクに煌めく唇が小さく横に広げられる。
「お馬鹿なお化けさん」
そう冷酷に微笑みながら、麗奈はそのほっそりとした足を、二歩、前に進めた。
すると、太陽が少しだけ昇る。顔のない人形の一体を横切る。空色に瞳がさらに薄く澄み切っていく。
「ほら、おいでって」
さらに一歩、前に進む。
太陽がまた少し動く。雲行きがほんのりと怪しくなっていく。
花子はチラリと窓の外を見つめると、訝しげに眉を顰めた。
「そうそう、舞台に上がって」
三歩、つっと体を前に出した。
太陽が昇る。それに合わせるように暗い雲が空を覆っていく。校舎が黒い影に覆われていく。夜の静寂が終わっていく。
「早く早く、開演のブザーが鳴っちゃうよ」
半歩、進む。
太陽が消える。黒い雲に空が覆われる。漆黒の影がゆらゆらと揺れる。痩せた女の影が現れる──。
そうして開演のブザーが鳴り響いた。
「はい、捕まえた」
ニッコリと笑った。それは愚か者を嘲笑するような笑みであった。その空色の視線の先には痩せた女の影があった。
今、三原麗奈の瞳と、吉田真智子の瞳が、木造の廊下において向かい合う形で、一つに重なり合った。
けたたましいブザーの音が二人の影を揺り動かす。
「何? 何なのよ? この音は?」
花子は首を横に倒した。窓を揺らすほどの凄まじい音が一向に止まなかったのだ。それは何処か聞き覚えのあるサイレンだった。
真智子もまた唖然とした表情で外から響いてくる音に耳を澄ませていた。痩せた女の瞳にはもはや麗奈の姿など映っていない。真智子は目を見開いたまま、窓の向こうの曇り空に、痩せた体を震わせていた。
「ちょっとモブウサギ! このクソうるさい音はいったい何なのよ! なーんか聞いたことある気がすんだけど?」
「空襲警報だよ、お馬鹿さん」
「はあん?」
「ようこそ、戦中の舞台へ」
麗奈はそう言って、そっと、焼け焦げた左の頬に薬指を当てた。
それは色褪せた一枚の写真だった。
五人の生徒たちが「天文部」と書かれた黒板の前に並んでいた。
前列の二人の女生徒は少し前屈みに膝に手を当てている。後列の三人の男子生徒は背筋を真っ直ぐ伸ばしている。
小野寺文久はその写真を静かに見下ろしていた。
「あの根暗野郎が」
王の視線が僅かずつ動いていった。
前列左側の女生徒は凛と涼しげな目鼻立ちをしており、長い黒髪が艶やかであった。右側の女生徒もまた整った顔立ちをしており、柔らかそうな髪がふわりと浮かび上がっていた。今や老齢の域に達した姫宮詩乃と二人目のヤナギの霊である鈴木英子の在りし日の姿である。
文久の視線が後列に移った。今さら二人の女生徒には興味を覚えなかった。
後列左の男子生徒は背が高かった。堀の深い顔立ちには若くも知性に溢れており、霞み褪せた写真からでも分かるほどに黒い瞳が爛々と瞬いている。文久は少しだけ口元に皺を寄せた。感慨を抱いたのだ。王がこの五人の中で唯一関心を寄せざるを得なかったのは、戸田和夫という男、ただ一人のみであった。が、それも今さらである、と文久は視線を真横に動かした。
後列中央の男子生徒はまさに平凡そのものといった男だった。特に背が高いというわけでも、体格に優れているというわけでも、顔が整っているというわけでもない。生真面目な性格こそが取り柄だとでも云いたげな目をしており、そこに何処か誠実そうな表情が備えられている。周囲と足並みを揃え、円満を好み、軋轢を拒み、定められた社会のルートを外れる事なく 良く言えば安らかな、悪く言えばつまらない最期を迎える、そんな雰囲気を全身から醸し出している。そんな彼がこの後、惨めで、滑稽で、波乱に満ちた、数奇な人生を歩まされる事になろうとは、この写真の中にいる彼本人とてまさか夢にも思っていないだろう。八田弘の存在もまた文久にとっては面白く、多少興味深かった。
そうして文久は気怠げに、ゆったりと、後列右端の男子生徒の顔を見据えていった。それは小柄な体躯に引き締まった体付きをしたヤンチャそうな少年だった。浅黒い肌、少し中央に寄った目鼻、髪は短く刈り込まれてあり、そして少年は何処か余裕のなさそうな表情をしていた。気の短い性格なのであろう。正面で腰を折り曲げた鈴木英子をあからさまに気にするように、他の二人の男子生徒よりも前に、引き締まった身体を彼女に向けて寄せている様子が窺える。彼はいわゆる二人目のヤナギの霊に見初められた男子生徒であった。で、あるならば二人目の王子とでも形容できようか。それ以外に呼びようのない、ある意味で平凡な男よりもつまらない、文久がこれまでに一切の興味を覚えなかった──松本一郎はそんな男だった。
「いったい何しやがった」
色褪せた写真が、ふわり、と床に向かって揺れ落ちていく。
そうして、溜まった埃が舞い上がると、文久は視線を上げた。
やはり、どうにも──どうしても、松本一郎という男には関心を抱けなかった。二人目のヤナギの霊である鈴木英子も同様である。若かりし頃の王を悩ませた戸田和夫も、巫女である姫宮詩乃も、そして八田弘も、もはや王の視界には入っていなかった。
「相変わらず、クソ気色悪ぃ野郎だぜ」
文久はそう呟き、口元に皺を寄せた。
王の関心は今や、この精神と時間の産物──この世の奇跡とでも呼べるであろう記憶の終焉、そして、根暗で無口で無表情で気色の悪かった、最後まで思い通りに動かすことの出来なかった、そんな親友が決して誰にも明かす事の無かったであろう謎のみであった。
「まぁいい」
確かめようと思えば、或いは、確かめられたかもしれない。
先ほど鈴木英子と言葉を交わせたように、或いは、ただ思いさえすれば、決して思い通りにならなかった木崎隆明という親友とではなく、謎の端に隠れ潜んでいるであろう松本一郎という少年と出会い、そうして何らかの方法で問い詰められたかもしれない。だが、それは王の望むところではなかった。この傲慢な王には初めから願いなどはなかった。あるのは真に目的のみであり、そんな王が望むものはといえば、ほんの稀に現れる異様な存在くらいのものであった。王の進む道から望む異様な光景や、道の端に潜む異様な影、そんな異様との接触が王の唯一の楽しみだった。
小野寺文久は存外、感慨深い男であった。
王は、親友が残したであろう謎を、終わりを迎える物語の余韻として楽しんでいた。
ゆらりと傲慢な影が揺れる。
床に落ちた写真を意識せず踏み付けた文久は、その左の瞳のみを澄み切った空色に煌めかせると、視線を斜め下に落とした。そうして王の口元にまた皺が寄る。校舎の様子が何やらおかしかったのだ。まるでヤナギの記憶の半分が黒く塗り潰されてしまったかのような──青い光が夜の端にまで届かなかった。
いったいこれはどういうわけか。
ただただ、異様である。
それがまた王にとっては面白可笑しかった。
動かない左腕はそのままに、クック、と喉を鳴らした文久は、やがて消えゆく記憶を踏み締めながら、夜の校舎を歩き出した。
「こっち──」
山本千代子はそう微笑み、吉田障子の腕を引っ張った。声ではなく、優しいばかりの力で、障子を導いていった。
夜の校舎は移ろう時間の流れにさまざまと様相を変えていった。それでも千代子の下手くそな笑みだけは変わることがなかった。
障子もまた入り乱れる記憶の中で、その思考を、性格を、性別を、さまざまと惑わせていった。それでも繋いだ手だけは離さなかった。目の前の少女の背中を追い、決して足は止めず、やがて古ぼけていく校舎から目を背けなかった。
とにかく、とにかく、とにかく、あの人に会わないと──。
気が付けばギシギシと軋む木造の廊下を走っている。西日の赤い線に二人の影がぼんやりと焦がされている。
あの人なら、何か知っているかもしれない──。
渡り廊下を過ぎると、懐かしい匂いが障子の頬を撫でた。
体育館を訪れると、懐かしい光景が障子の産毛を震わせた。
そうして障子は立ち止まった。木の凹凸に荒い広間を、戦中の学校の講堂を、呆然とした様子で見渡した。
あの人なら──。
「こっち──」
千代子に強く腕を引かれる。
だが、障子は動けなかった。誰もいない広間の舞台を見上げたまま、高鳴って止まない心臓の鼓動に、ただ、彼は困惑させられていた。
あの人って誰だっけ──。
何かがおかしい。
そう思った。
奇妙な違和感が全身を渦巻いて止まなかった。
講堂の出入り口に立ち尽くし、見覚えのある舞台に目を見開き、浅い呼吸を続ける。
鼓動が止まなかった。記憶が定まらなかった。そして、手の温もりが消えなかった。
視線が徐々に下がっていった。障子は、繋がれた手の先の、黒く煤けた女生徒の瞳を見つめた。
「出口──」
千代子はそう強く腕を引き、また、ニッコリと口を大きく横に広げた。下手くそな笑みである。何処までも優しげな瞳である。
「な、夏子ちゃん……?」
無意識の内にそう呟き、障子はゆっくりと、目を見開いていった。
「あ、あ……」
違和感が胸の内で膨れ上がっていく。鼓動が胸の内で早まっていく。
「あ、そ……そうだ……。な、夏子ちゃんだ……。あ……あ、ああ、そ、そうだ……そうだった……ああ、夏子ちゃんだった……!」
千代子はふるふると首を横に振った。ニッコリと微笑み、黒く煤けた手を伸ばすと、頬を青ざめさせた障子の頭をよしよしと撫でた。
「行こ──」
千代子の丸い瞳はキラキラと瞬いていた。それは何処までも純粋なプロキオンの白光だった。
「夏子ちゃん……!」
障子はありったけの声で叫んだ。涙に濡れた瞳で千代子の瞳の奥を覗き込んだ。
よく通る少年の声が古ぼけた体育館を木霊する。
「ごめんねっ……! 夏子ちゃん、ごめんねっ……!」
二人は入れ替わったままだった。
およそ七十年の間。
ずっと。
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