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最終章
不確かな過去
しおりを挟む吉田真智子は悲鳴をあげた。
両手で頭を押さえ、乱れた髪が廊下に擦れるほど腰を折り曲げ、震えの止まらない足ばかりをノタノタと前に進めていった。
陰鬱な夜に痩せた女の悲痛な叫びが響き渡る。
それに応える者はなく、痩せた女は様々に重なり、溶け合い、入り乱れた記憶の檻の底で、ただ一人ぼっちだった。
とにかく、とにかく、とにかく、夏子ちゃんに会わないと、しょう子ちゃんを探さないと──。
真智子はまた絶叫した。思い出したくもない記憶の汚泥に触れてしまったのだ。廊下に膝を付いた女はその場で背中を丸めてしまう。
「障子……」
やがて、やつれ細った顔を上げると、真智子は乱れた髪の隙間から、夜の校舎の先を見つめた。
そうして、今あるこの時間こそが最も大切な瞬間なのだと、自分に言い聞かせた。
「ああ、障子……」
ゆらり、ゆらりと痩せた女の影が揺れる。
今ある世界。現実。最も新しい記憶。
最愛の息子の笑顔を思い出した真智子は、同時に、最愛の息子を汚した女の冷たい瞳を思い出した。
「絶対に許さない──」
重なり合った記憶が溶け合っていく。
真智子はまた両手で頭を押さえると、腰を折り曲げたままヌッと立ち上がり、乱れた髪で廊下を撫でるようにして、ゆらゆらと歩き出した。
「また王子がどっかに行っちゃったあ!」
姫宮玲華はそう涙目に、わあっと大きく口を開いた。そうしてわんわんとまた泣き出してしまうのだった。
田中太郎と徳山吾郎は目を見合わせると「はぁ」と大きくため息を付いた。そんな二人のすぐ側では、“火龍炎”の参謀である長谷部幸平がブツブツと廊下の窓に浮かんだ月に話し掛けている。
「なぁもうさ、吉田くんの事は一旦置いといて、戦中の校舎とやらに行ってまわねぇか? どうせ過去を変えちまうんだし、一緒の事だろ」
そう唱えたのは暴走集団“火龍炎”の総長、鴨川新九郎である。赤と黒の特攻服を身に纏った彼の堂々たる態度は、その立派な体躯と合わせて、まさにリーダーそのものであった。彼とは一応敵対関係にある野洲孝之助は不満げな表情であり、超自然現象研究部一年の小田信長などはもうそのカリスマ性に「先輩かっこいい!」と目を輝かせるばかりだった。
「どうしてそんな事言うの!」
姫宮玲華は両手を握り締めた。キッと目を細めている。どうにもこの状況において、またも行方不明となってしまった吉田障子の身を本気で心配している者は、姫宮玲華と生徒会書記の宮田風花の二人だけのようだった。そのためか、玲華は憤りが抑え切れず「もういい!」と一人何処かに走り出そうとしてしまう。そんな彼女を宮田風花が必死になって宥めていた。
「玲華様、玲華様、どうか冷静に、皆と行動を共にしましょう。やみくもに探し回るのは得策ではありません。大丈夫です、私が付いていますから」
「何だねその気持ち悪い喋り方は……?」
「うっさい! このゴミムシメガネ!」
風花の八重歯までもがイッーと剥き出しになる。「君もメガネではないか……」と吾郎は黒縁メガネのブリッジに人差し指を当てた。
「てかさ、そういえば玲華ちゃんって、この校舎全体を見渡せるんじゃなかったのか?」
そう、田中太郎が首を傾げる。
「よく見えないんだもん……。なんか……青い光が、眩しくって……。ひっぐ……よく見えないんだもん……」
「青い光?」
「あと……グスンっ、あ、あと……なんかよく分かんない……。よく……分かんないけど、なんか校舎が変……なんだもん……」
「つまりは探せないってことか?」
「あだじのぜいにしないでよお! ばかぁ!」
「いや、別に誰も玲華ちゃんが悪いとは……」
「ひっぐ……! 王子ぃ……!」
どうにも未だ情緒が不安定なようである。
太郎はやれやれと頭を掻くと、新九郎を振り返り、コクリと顎を前に倒した。
「どこに居るかも分かんねぇ吉田くんは、取り敢えず後回しだな」
「おうよ! チャチャッと戦争見物にでも行って、次いでに皆んなを助けてやろうぜ!」
新九郎もまた力強く頷き返すと、グッと親指を上に立ててみせた。
すると何故だか太郎の方が「いや……」と及び腰となるのだった。
「どうしたよ?」
「その辺はよ、過去改変が怖いから……まぁ、なんか適当に……」
「過去を変えに戦中に行くって話じゃなかったのか?」
「ほら、程度の話だよ」
「程度って、そりゃあ田中くん、まさか命を選別するって意味じゃねぇよな」
途端に新九郎の表情が険しくなる。暴走族の総長らしい鬼のような目付きである。
そんな親友の瞳から太郎は目を逸らさなかった。ただ彼はひどく苦しげな表情で首を横に振ってみせた。
「新九郎、分かるだろ? 八田弘たった一人の命であれ程の変化だぞ?」
「だから何だよ。世界がどう変わっちまおうと、多くの人を救えるってんならそれでいいじゃねぇか」
「普通ならな。普通なら救うって言葉は単純明快で、何より気持ちが良いもんだろうさ」
「何だと?」
「だけど、今回ばかりは普通じゃねぇ。七十年近くも前の、それも大戦中の話だ。何百万という人たちが戦争で死んでいってんだ。戦後だって同じさ。俺たちが生まれてくるまでに、老衰、病死、事故死、はたまた殺人、自殺──もう数えらんねぇくらいに人は死んでいってる。これはもはや自然の摂理なんだよ」
「ごちゃごちゃとうるせぇな! 目の前に救える命があったら救うのは当然のことだろうが!」
「目の前じゃねぇ、戦争は過去の話だ。それを変えるというのは自然の摂理に逆らうのと同じ行為なんだよ」
「だからどうした? 過去だろうと何だろうと人は人だろ!」
新九郎は肩を怒らせると、般若の如く眉を顰め、親友の顔をギロリと睨み付けた。
太郎もまた険しい目つきで、そんな親友の怒りを真正面から受け止め、決して目を逸さなかった。
「ああ、人は人さ」
「なら!」
「人は死ぬ。そうしてまた新たに生まれてくる。過去を変えるってことはだな、新九郎、本来死ぬ運命だった人の一生を変えるだけじゃなく、本来生まれてくるはずだった人の一生までもを変えちまうことになるかもしれねぇ。俺もお前も、部長も信長くんも、生徒会のメンバーも、玲華ちゃんや吉田くんだって、皆んなが皆んな生まれてこなくなっちまうかもしれねぇ。それを分かった上で、自然の摂理に逆らってまで、お前は過去を変えてぇのか?」
「それは……」
「もしもそれで身近な人がいなくなっちまったら、もしも親友の人生そのものを無かったことになんてしちまったら、そんなのとても耐えらんねぇだろ。なぁ新九郎、お前だって同じだろ? お前みたいな優しい奴が、そんな罪悪感に本当に耐えられんのかよ?」
太郎の口調はそれまで聞いたことがなかったほどに重々しく、何よりも真剣だった。
新九郎はそれでも言い返そうと言葉を探すも、次第にしょんぼりと肩を落としていき、そうして眉を下げてしまうのだった。
「たぶん、耐えらんねぇ……」
「それが普通さ。それに耐えられる奴なんざ頭の狂ったバケモンだけだぜ」
フッと太郎の表情が柔らかくなる。新九郎は目頭に溜まった涙をゴシゴシと拭うと、表情は険しいままに、太い首を横に倒した。
「過去の人を救うってのはそこまでヤバい事なのか?」
「何度も言うようだが、約五十年前の、八田弘一人であれだけの変化だ。それが七十年前の、それも数百人規模の過去改変なんざ、正直想像もしたくねぇ……」
太郎はゴクリと唾を飲み込んだ。二人の話を聞いていた吾郎もまた頬を青褪めさせている。すると、それまで傍観を決め込んでいた野洲孝之助が純白の特攻服をバサリと月光の下にはためかせた。
「その男の言うことは一部正しいだろう。が、こんなところを何時迄もほっつき歩いてたところで埒があかん。とにかく行けるところまで行ってみようではないか」
「いや、だから……」
「一つだけ言っておこう。先ほどから数百人規模の命を救うだのどうだのと取らぬ狸の皮算用に勤しんでいるようだが、いいか? そんなことは絶対に不可能だ! この戯わけ共め。貴様らは戦争を舐め過ぎだ」
吾郎と太郎は思わず顔を見合わせる。
新九郎は再び肩を怒らせると、孝之助の方へと向き直り、厚い胸板を大きく膨らませた。
「そんなもんやってみねぇと分かんねぇだろうが!」
「おい鴨川新九郎、そもそもお前は何をどうするつもりなのだ」
「ああ?」
「まさか傘でもさして焼夷弾の雨を防ごうと云うのではあるまいな」
「はあ……?」
「いや、まさか。空襲が起こるよりも前に戻って、教員や生徒たちを安全な場所に避難させればよろしいでしょう?」
吾郎がそう口を挟んだ。
「もちろん、先ほど田中くんが話されたように、あまりに大規模な過去改変は今いる現代への大きな懸念となってくるわけですが……」
「では聞かせてもらうが、その安全な場所とは因みに何処を指す。戦中のこの街に安全な場所があったなどと、お前は本当にそう思っているのか」
「いえ、ほら、例えば防空壕があるでしょう……?」
「防空壕ならばこの学校にもあったという話だろう。なのに何故、これほどの死者が出た」
「それは……。逃げ遅れたからでは……?」
「米軍の焼夷弾は落下時にザーザーという小石の雨が屋根に降り注ぐような不気味な音がしたという。それはおそらく空襲の目的それ自体が単に日本人の恐怖心を煽るためであったからだろう。そもそも空襲の際には警戒を促すサイレンが街に鳴り響いていたはずだ。つまり俺が言いたいのは、数人程度ならまだしも、大人のいるこの学校で数百人規模が人々が逃げ遅れたというのは考え難いという話だ」
「ですが実際に、この学校で数百人規模の人たちが死んでいるのですよ? それはやはり逃げ遅れたからと考えるのが妥当ではありませんか?」
「だから何処に逃げ遅れたというのだ」
「だから防空壕に……」
「防空壕ならこの学校にも備えられていた筈だと先ほどから言っているだろう」
「ええっと、それは、つまり……」
吾郎の頬からサッと血の気が引いた。孝之助の言わんとしていることをやっと理解したのだ。
「彼らは防空壕の中で死んだ、と……?」
「恐らくな。そう考えるのが妥当であろうし、そういう事例は多数存在する。この学校の生徒や教員たちはまさに防空壕の中で焼け死んだのだ。或いは、いいや、窒息死か」
吾郎は言葉を失ってしまった。取り敢えず、もう何度目か、太郎と視線を合わせてみる。バトンタッチといった所だろう。口を半開きにした太郎は今にも泣き出しそうな表情で「あー」と首を傾げながら、吾郎から受け取ったバトンの握り具合を確かめた。
「なら空襲が起こるよりかなり前の時点に戻って、生徒たちをこの学校自体から避難させちまうってのはどうだ?」
「かなり前とはどのくらい前を指す」
「それは……一時間前とか?」
「お前はたったの一時間で、見知らぬ、奇妙な服装をした、奇妙な喋り方をする俺たちの奇妙な説得を、現代とは比べ物にならぬほど厳格だった時代の生徒と教員たちが納得してくれると本気で思っているのか?」
「ならもう一週間前とかよ」
「一週間も何処に滞在するつもりだ。この戯けめ、時代背景を考えろ。そもそも一時間もあれば、軍服を着た兵隊たちが俺たちを捕らえに学校に訪れるだろう」
太郎もまた押し黙ってしまった。すると沈黙が訪れる。玲華の泣き声ばかりが、メソメソと、夜の校舎の雰囲気をさらに陰鬱なものへと変えていってしまった。
しばらく太い腕を組んでいた新九郎は、やがて面倒臭そうに頭を掻くと、ひどく間の抜けたため息を吐き出した。
「ならもうよ、取り敢えず行っちまおうぜ。ここでいくら考えてたって埒が明かねぇだろ」
「だから初めからそう言っているだろう! この戯わけ共め! やっと理解したというのならば、この俺について来い!」
颯爽と純白の特攻服を靡かせる。漢らしい背中である。
だが、すぐに立ち止まってしまった。孝之助は厳格な表情を崩さぬままに、チラリと後ろを振り返ると、やや言い難そうに声を低くした。
「因みにその戦中へはどうやって行くんだ?」
シンとまた校舎に静寂が訪れる。
太郎と吾郎の視線が合わさる。
そんなこと分かる筈もない。
やがて皆の視線が、何時迄も泣き止まない乙女の、その長い黒髪の方へと引き寄せられていった。
「ひっぐ……ひっぐ……。あ、あっぢ……」
玲華の細い人差し指の先が旧校舎の方へと向けられる。ただ、いくら見渡せども、視線の先には暗い夜の様相が広がるばかりである。
「あっぢ……!」
玲華はそう叫ぶと、唐突に立ち上がった。
そうして玲華が歩き出すと、彼女を先頭に、夜に迷い込んだメンバーたちはおどおどと、また勇敢な態度で、戦中の校舎へと進み始めた。
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