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最終章
感情の呪縛
しおりを挟む銃声が重なり合う。
白銀の拳銃が弾き飛ぶ。
王の放った銃弾は千代子の頭を大きく外れ、天井に黒い穴を開けた。
家庭科室は日暮れの赤い斜陽に包まれたままである。
小野寺文久は「はっ」と口元に皺を寄せた。荻野新平の狙いは王の右手に構えられた拳銃それ自体であった。その判断は正しいと、文久は銃弾の衝撃に痺れた手を振りながら、少年の姿をした男の元に素早く視線を動かしていった。
「小野寺文久」
少年の声のみが耳に届いた。新平の影は既に茜色の日差しの中だった。
とてもではないが目で追える速さではなかった。それでも文久は広い肩を尊大に聳えさせたまま、その場を僅かにも動こうとしなかった。多少の興味を抱いたのだ。ほぼ無敵ともいえる王に対して、いったい荻野新平は次に何を始めようというのか。それは物語の次のペーシを捲るような感覚で、文久はただ、この状況を楽しんでいた。
「前から疑問だった」
斜め後ろからの声である。
文久は口元に皺を寄せたまま、まるで初めから握り締めていたかのようにスミス&ウェッソンM29の黒い引き金に指を当てながら、尊大な態度で、背後に居るであろう獰猛な男を振り返った。そうして王は「クソ野郎が」と、さも嬉しそうな声を上げるのだった。
「コイツは本物か?」
銃声が鳴り響くのと同時の声である。
新平の右手に構えられていたのは、先ほど彼自身が弾き飛ばした白銀の拳銃であった。
つまりそれは王の拳銃、つまりそれは純銀の銃弾、つまりそれは怨霊を切り裂く聖剣──。
新平は寸分の狂いなく、刹那の速度で、文久の額の中心に、白銀の銃弾を撃ち込んだ。
「完璧だ──」
が、王は不動だった。
確かに捕らえた筈の銃弾が貫いたのは王の左腕だった。
新平はフッと体を前に揺らすと、左手で腰のホルスターからナイフを引き抜き、影を置き去りにするような速度で、王の間合いの内側に右足を踏み込んだ。そのまま腰を捻るようにして、逆手に握ったナイフの先端を文久の首に突き刺す。今度は至近距離から王の心臓を狙って白銀の銃弾を撃ち込んだ。
「流石だな」
だが、やはり文久の表情は変わらない。傲慢な王そのものである。
茜色の光が強くなった。夕焼けがまさに燃えるような赤に染まっていく。
家庭科室から火の手が上がった。
新平は咄嗟に身を翻すと、ナイフと拳銃は両手に下げたまま、赤い陽の届かない廊下に転がり出た。そうして焼けた皮膚の痛みなど物ともせず、今まさに飛び出たばかりの家庭科室に向かって銃口を構えた。コンマ数秒にも満たない。刹那の出来事である。だが、すでに廊下は陰鬱な闇の中にあった。赤く燃え上がっていた筈の家庭科室もまた、シンと冷え切った暗い夜に静まり返っていた。
「褒美だ。左腕はくれてやる──」
そんな声のみが新平の耳に届いた。
ナイフを素早く腰のホルスターに仕舞った新平は、ジッと周囲に耳を澄ませると、白銀の拳銃を斜め下に構えたまま、スッと立ち上がった。
山本千代子は後ろを振り返った。
先ほどの獣のような少年の身を案じたのだ。
暗い廊下の向こう側を不安げに見つめる。二人の少年と、影の薄い女生徒を抱え込んだ白い布が、千代子の周囲を漂っている。
家庭科室に現れたあの肩の広い男と同様に、少年もまた慣れた手付きで拳銃を操り、誰をも凌駕するほど勇猛かつ迅速かつ冷静に、傲慢な男と渡り合っていた。
それは千代子たちを逃すためだったのだろうか。それともただ成り行きでそうなっただけなのだろうか。男と少年は知り合いだったのだろうか。男と同様に、あの少年もまた傲慢な残虐性を内に秘めていたのだろうか。
そんな過程など、千代子にとってはどうでもよかった。ただ千代子は不安に思った。少年の心の内など知る由もない。それを探ってやろうという意思もない。千代子は純粋に、ただ、少年の行動──それはいわば、鋭い牙を剥き出しに唸る野犬を前に震えるばかりだった千代子たちを救いに現れた、王子のような──それ自体を思い返していた。このままあの少年を傲慢な男の前に見捨てていい筈などない。千代子は、三つの吐息を白い布で抱え込んだまま、いつかの時のように、苦悩していた。
「おい……!」
千代子の視線が斜め上に泳いでいく。すると、ミイラの如く白い布に巻かれた早瀬竜司の懸命にもがく姿が視界に入る。
「離せって……!」
千代子はコクリと顎を前に倒した。
竜司を廊下に下ろすと、鈴木英子、そして吉田障子の体をそっと離してやる。冷たい廊下に両膝を付いた障子は呆然とした様子だった。そんな少年の頭をヨシヨシと撫でてやった。そうしてまた暗い廊下の向こう側を見つめると、家庭科室のある方へと、千代子は歩き始めた。
「おい、待てよ!」
竜司は声を荒げた。ボロボロの体を引き摺りながら、何とか立ち上がってみせる。
「俺が行く。お前はコイツらを連れてどっかに隠れてろ」
「ダメよぉ!」
そう叫んだのは英子だった。フラフラと倒れるようにして数歩進むと、竜司の腕にしがみ付いた。
「危ないわ。一緒に逃げましょう」
「逃げ場なんざねぇよ。……俺が何とかするから、お前らはとにかく隠れてろ。大丈夫だ、俺の仲間は勇敢な奴ばっかだし、それにバケモンみてぇな女も付いてる。アイツらはぜってぇにお前らのことを見捨てねぇから、だから何処かに隠れてるんだ」
竜司はそう言って、廊下に膝を付いたまま肩を震わせていた吉田障子の瞳を、チラリと見つめた。そうして目が合うと、力強く頷いてみせる。障子もまたコクリと小さく頷き返した。それは反射的な行動のようであった。それでも竜司は何やら嬉しそうに、その勇敢な笑みを彼に見せつけてやるのだった。「後は任せたぜ」と拳を前に突き出す。障子は、今度は自分の意思で、また顎を前に倒した。
「嫌よ! 物騒なことは嫌いよ! お願いだからケンカはよして……!」
「ケンカじゃねぇよ。あの野郎は完全に頭のイカれた殺人鬼だ」
「そんな人とこれ以上関わってはいけないわ。だから、ねぇ、何処かでコーヒーでも淹れて、大人しくしていません?」
「そんな暇あるか! つーか、コーヒーなんざ飲んでたら匂いでバレちまうだろうが!」
「コーヒーさえ飲んでいればね、安全なの。悪いものは全部離れていってしまうのよ」
「いったい何処の迷信だよ……。相変わらずだな、お前」
竜司はやれやれと肩を落とした。強張っていた頬が少しだけ柔らかくなる。
英子もまた僅かに体の緊張を解くと、耳に掛かった髪にそっと指を当てた。
「だってあたし、聞いたもの。コーヒーの香りは魔除けになるって、あたし、聞いたもの」
「おいおい、コーヒーが好きだったわけじゃないのかよ」
「コーヒーはお好きよ。味も香りも大好き。ねぇ、ほら、コーヒーの香りって何処か爽やかで目が覚めるでしょ? アレって悪いお化けが離れていくからだそうなの」
「蚊取り線香かっての」
「悪いお化けは人を悪い眠りに誘うのよ。だからコーヒーさえ飲んでいれば安心ってわけ」
「そうか? さっきはコーヒーの香りで逆に寝ちまいそうだったけどよ」
「本当のお話よぉ」
英子はふわりと柔らかく微笑んだ。
「悪いお化けはコーヒーを嫌うの──」
「テメェが悪いお化けじゃねぇか」
傲慢な王の声が夜の空気を震わせる。
白銀の銃口が月光を反射させる。
咄嗟に身を翻した竜司は「逃げろ!」と野犬の唸りのような怒号を轟かせた。
山本千代子は素早く白い布を夜に舞わせた。そうして戸惑ったようにヨタヨタと視線を溺れさせてしまった。
夜の帳から現れた小野寺文久はまさに亡霊が如き存在だった。そんな彼に対して、もはや白い布など水に濡れた紙切れ程度にも役に立たないだろうことは、千代子にも分かりきっていた。三人を連れて逃げ切るなど到底叶わないだろう。王に飛び掛からんばかりの竜司を救うことは既に難しく、そして何故だか、すぐ側にいた英子には白い布を拒まれてしまった。そのために千代子はいよいよと混乱した。英子はどうやってか左手で空気を波状に震わせながら、彼女に向かってふわりと宙を舞った白い布をあらぬ方向へと靡き逸らしていた。そうして首を横に振ってみせる。それは一体どういう意味であろうか。
千代子は戸惑いの中で、オロオロとその視線の中心に吉田障子の痩せた背中を捉えると、咄嗟に彼の腕を両手で掴み、強く引っ張って立ち上がらせた。
「行こ──」
千代子はそう言って、にっこりと微笑んだ。下手くそな笑みであった。唇ばかりが大きく横に広げられた、そのために白い歯が夜闇に浮かび上がった、そんな不気味な笑みだった。
障子もまた戸惑ったような、ひどく焦ったような表情を浮かべた。そうして黒い女生徒に引かれるままに、夜の校舎を走り出した。
「テメェ、ぶっ殺してやる!」
竜司は飢えた獣が如き凄まじい怒号を上げた。だが、そんな彼の意識は、背後の二人の女生徒と一人の少年に向けられているのだった。
三人を逃す時間を稼がなけばならない──。
それまで死ぬことは許されない──。
竜司はそう冷静に怒り、小野寺文久に向かって飛び掛からんばかりの姿勢を見せながらも、腰を低くしたままその場を動かなかった。
「来いや!」
竜司は怒鳴った。拳を大きく振り上げて見せる。が、動かない。いいや、動けない。どう動こうとも敵わぬ相手であるという現実が既に骨の髄にまで刻み込まれていた。
文久もまた動かなかった。白銀の拳銃を前に構えたまま、王は何かを思案するように、ジッと目を細めていた。
「おい、ビビってんのか!」
竜司は怒りの感情をコントロールしていた。同時に、どうにも抑えることの叶わない、とある感情の湧き上がりに動揺していた。
不動の山の如く肩を聳えさせていた文久の視線が斜め上に動く。
竜司はビクリと肩を跳ねさせると、無意識の内に、一歩後ろに足を下げた。
「クソ……。何だってんだ……」
それは恐怖だった。
竜司は初めて覚えた恐怖の感情に舌を乾かし、どうにも収まらない全身の震えに戸惑っていた。
「おい」
文久の重々しい声が夜の静寂が押し潰す。
竜司は怒鳴り返そうとするも、乾き切った舌を動かせず、声が出せなかった。せめて何とか睨み返してやろうと視線を持ち上げてみせる。文久の視線は竜司の元にではなく、斜め横に逸れた、廊下の窓際に向けられていた。
「お前だ、鈴木英子」
竜司は驚いて後ろを振り返った。すると窓辺の月明かりの下で細い肩を震わせる影の薄い女生徒の姿が目に入った。
「おい、早く逃げろ!」
そんな竜司の叫びに、英子はただ首を横に振るのみであった。
「お前は本当に木崎隆明という男の存在を知らないんだな」
「し……し、知りません、わ……」
そう声を震わせながら、英子は必死に、それ以外の動きを忘れてしまったかのように、首を横に振り続けた。
「なら、どうやってこの夜を知った」
「夜……?」
「この校舎の存在だよ」
「し、知りません……」
「ああ、ウゼェ女だぜ! じゃあテメェは誰からコーヒーの淹れ方を教わった!」
文久はそう低く怒鳴ると、銃口の先を、英子の額に向けた。
英子は恐怖のあまり肩を丸め、両手を胸の前にギュッと握り締め、それでもその場は動かず、その弱々しい視線を早瀬竜司に向けたまま、決して瞳は閉じなかった。
「一郎さん……です……」
そんな小さな声が落ちる。
文久は首を傾げた。
「誰だ、ソイツは?」
「お、王子です……」
文久は眉を顰めた。そうしてまたジッと目を細める。完全なる静寂が夜の校舎を呑み込むと、徐々に目を見開いていった文久は興味深そうに右手を顎の前に引いた。拳銃は握り締めたままである。王は左腕を一切動かさなかった。
「松本一郎か」
「は、はい……」
「クック、そうかよ」
そう思わず笑ってしまった。
松本一郎は、いわゆる文久たちの一つ上の世代である、八田弘、鈴木英子と同じ旧天文部の部員であった。そういえばそんな名を何時ぞやに耳にしたことがあったな、と、文久は、決して交わることのなかった運命の一瞬の交差を、何やら可笑しく思った。
「逃げろ!」
竜司は未だ恐怖の呪縛に囚われたままであった。ただ、別の感情が、そんな恐怖を凌駕していった。それは怒りではない。いったい何の感情かは分からない。とにかく竜司はあらん限りの声を上げると、一瞬、英子の瞳を振り返り、そうして傲慢な王の腰に飛び掛かった。
王の視線が僅かに動く。
銃口が少し下げられる。
残虐な銃声が夜に轟く。
鈍い衝撃が少年の胸を貫いた。竜司は唖然として目を見開くと、拳を握り締めたまま、静かに視線を下ろしていった。
「チッ……」
そうして少年は小さく舌打ちをした。
赤黒い影をその瞳に捉えたのだ。
白銀の銃弾が撃ち抜いたのは竜司の胸元だった。
「クソッ……」
少年の体が前に倒れていった。そんな少年の隣を傲慢な王の影が悠然と横切っていった。
英子の弱々しい叫び声が夜の校舎に響き渡る。
すると、無意識のうちに、竜司の足が大きく一歩前に踏み出された。
胸に穴を開けられながらも、何とかその場に踏み止まったのだ。
痛みは感じなかった。ただ、どうにも熱かった。
指は動かせた。ただ、どうにも握り締められなかった。
鼓動は感じられた。ただ、どうにも呼吸が難しかった。
純粋な物質を前に、魂は肉体と同様に、簡単に壊されてしまう──。
それでも竜司はいつものように獰猛に振り返ると、女生徒の元に歩み寄っていく傲慢な王の、その広い背中をギロリと睨んだ。もはや恐怖はない。それは怒りであり、また、別の感情でもある。ペッと喉に込み上げてくる血を吐き出した竜司は、少しずつ冷たくなっていく体を気合いで燃え上がらせ、そうして飢えた獣の如く王の背中に飛び掛かった。
「ああ?」
文久は少しだけ驚いた顔をした。
少年の拳が彼の背中に届いたのだ。ハエが止まった程度の、気付くことさえ難しいほどの、小さな拳だった。
「……はっ」
それでも文久は視線を動かした。胸に穴を開けた少年を振り返ると、その瞳を尊大に見下ろしてやる。
竜司もまた文久を睨み上げていた。そんな少年の額に王の指が当てられる。すると少年の体はいとも容易く、背中から、廊下に倒れてしまうのだった。
「テメェは人だな」
文久はそう言って、口元に皺を寄せた。不気味な王の笑みである。感慨を抱いた男の表情である。
そのまま夜の向こう側に視線を動かすと、もはや英子には一瞥もくれず、文久は静かに歩き去っていった。
「……っ」
竜司は微かに頭を動かした。だが、もはや起き上がれず、凍えるような寒さに、皮膚の下を震わせることしか出来なかった。
竜司は目を瞑った。すると、英子の声が遠くなっていく。
竜司は目を開いた。すると、英子の顔が目の前に現れた。
もはや視界は不鮮明だった。だが、何故だか英子の表情は、それまでよりもハッキリと、竜司の瞳に映し出されるのだった。
竜司は母の顔を思い出した。そうして、そこに英子の顔を重ね合わせた。
微笑もうとするも、血が溢れ出てくるばかりである。
やがて少年の意識は、ゆっくりと、暗く深い闇の底に沈んでいった。
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