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最終章
彷徨う少年
しおりを挟む吉田障子はトボトボと一人、夜の校舎を歩いていた。
見慣れているはずの校舎はしかし時間帯が違うというだけで、別世界かと思えるほどに、寂しく陰鬱な様相へと姿が変わってしまっていた。それが何故かと問われれば、どうにも学校という施設には窓が多過ぎる為だろうと、障子は俯きがちに廊下に並んだ暗い窓を見上げた。日中であれば陽光に照らされた広い世界が見渡せる。が、夜ともなると、窓に映し出されるのは誰もいない校舎とそこを歩く自分の姿ばかりである。いや、星々の瞬きはうっすらと目に入った。だが、それが広い世界の本当の姿だとはとても思えなかった。校舎という狭い空間が窓という薄い鏡によって明らかとなり、さらには当たり前にあると思われた広い世界が記憶に移ろう映像となって、そんな光と影を比較してしまい、別世界の様相を無意識に思い浮かべてしまうのだろうと、そんな事を考えていた。
いや、夜の校舎は広かった。
それを障子は肌で感じていた。
目で耳で鼻で感じ取っていた。
舌を出すと夜の空気を舐めてみる。いつもと何か違っていたりするのだろうか。
チロチロと舌を泳がせてみる。そのまま夜の校舎を歩いてみる。
障子はおもむろに窓を見上げると、ペロリとその冷たい鏡に舌を押し当ててみた。もしかすると何か違うのかもしれない、と、ペロペロ。大きな飴を舐めるように──甘くないな、とそれだけは分かった。
「いや、何やってんだお前……?」
呆れ返ったような声が耳に入る。
障子は窓から顔を離すと、暗闇から姿を現した髪の長い男を見つめた。男は耳に複数のピアスを下げており、細身で童顔なその容姿の割に、随分と厳つい格好をしている。男のすぐ隣では何やら古臭い髪型をしたスタイルの良い女生徒がキョトンとした表情で首を傾げていた。障子は、何処かで会った事がある気がする、と二人の顔を横目に眺めたまま、またチロリと窓ガラスに向かって舌を伸ばした。
「おいおいおい! だから何やってんだって!」
「飴」
「ああ?」
「甘くなかった」
早瀬竜司は額に手を当てた。そうして障子の肩を掴むと少し乱暴に窓から引き離す。障子はされるがままであり、そのまま倒れそうになると、竜司はまた乱暴にグイッと彼の体を支えてやった。
「たく、手間かけさせんじゃねーぞ」
「まぁ可愛らしい」
鈴木英子はそう微笑むと、腰を折り曲げ、下から障子の顔を覗き込んだ。障子は心ここに在らずといった表情で、英子の指先が彼の前髪をそっと横に撫でると、やっと少しだけ視線を下に動かした。
「どなたの妹さんかしら」
「コイツは男だぜ」
竜司はやれやれとため息をついた。「あらまぁ」と英子は大袈裟に目を大きくする。
「しかしまぁ、お前ってマジで入れ替わってやがったんだな」
教室に入った竜司はすぐ側の机に障子を座らせた。さもなくば倒れてしまいそうだったからだ。英子は鼻歌まじりに白いチョークを一つ手に取ると、黒板の真ん中に、猫とも狸とも首の短いキリンともつかない奇妙な動物の絵を描き始めた。
障子は何も喋らなかった。ただ口を半開きに夜の窓に浮かんだ月を眺めるばかりである。竜司もまた、特に同性に対しては、別に気を使うようなタイプでもなかったので、気怠げに大きく欠伸をすると、軽い寝息を立て始めた。カツカツと楽しげなチョークの音が子守唄である。
暫くして「ん?」と目を覚ました竜司はキョロキョロと辺りを見渡した。何やら視線を感じた気がしたのだ。障子は相変わらず窓を見上げるばかりで──チロチロと赤い舌を動かしながら──その場を動いておらず、お絵描きに飽きたらしい英子は教壇の前で編み物を始めていた。気のせいか、とそう腕を組み、視線を前に戻した竜司はギョッと飛び上がった。開け放たれた扉の向こうに誰か立っていたのだ。それは闇に溶け込んだ黒い影のようだった。一瞬、見間違いではないかと目を擦った竜司は再びジッと影を凝視した。輪郭などは古ぼけた写真が如き鈴木英子とも比較出来ないほどに曖昧である。ただその分、眩いばかりの両目の光が鮮明だった。
竜司は眉を顰めると、ゆっくりと立ち上がった。
「おい」
声を低くする。敵意がないだろうことはすぐに分かった。が、およそ人でない何かであろうことも察していた。
扉の前に近付いた竜司は、依然として立ち竦んだままの影をギロリと睨み下ろした。そしてすぐに表情を変えると、訝しげに首を傾げた。
「お前、どうした?」
扉の前に立っていたのはおかっぱ頭の小柄な少女だった。クリクリと目が大きく、柔らかそうな頬には愛嬌がある。ただ、普通の少女でないことはすぐに分かった。それは少女の全身が真っ黒に煤けていたからである。焼け焦げた制服などは今まさに火事の現場から逃げ出してきたばかりのような悲惨な有様であり、これは遠目に影と見間違えても仕方がない、と竜司は頭を掻き、そうしておもむろに自身の服の裾を引っ張り上げた。少女の頬の煤をスリスリと拭ってやる。
「あら珍しいお客さん」
気が付けば英子が隣に立っていた。
「妹か?」
竜司は尋ねた。すると「昔の私よぅ」と訳の分からない答えが返ってくる。竜司は肩をすくめると、ゴシゴシと、少女の頬を拭う手に力を込めた。どうにも煤は落ちそうになかった。
「ねぇ皆さん、コーヒーでもお飲みにならない?」
不意に英子は微笑んだ。
竜司はすぐに断ろうと口を開くも、チロチロと赤い舌を出した障子をチラリと視界の端に入れ、コクリと頷いてみせた。
コーヒーでもぶっかけてやれば多少は目を覚ますかもしれない──と、そんな事を考えたのだ。もしくは何か甘いものはないだろうかと。
竜司は一向に煤の落ちる気配のない少女の頭をヨシヨシと撫でてやると「牛乳もあるよな?」と一応尋ねてみた。
大炎が迫っていた。
榴弾の雨が次々と炸裂していった。
それでも夜の校舎は不思議と静寂を保っていた。
凄まじい爆音と爆風の合間に訪れる静けさは、さながら目覚めの朝に照らされる日差しのようで、ともすると魂を焦がそうと迫り来る灼熱の刃の方が、夢の中の光景のように曖昧だった。
睦月花子の肩を光の槍が貫いた。呻き声を上げた彼女は思わず足を止めてしまう。骨の髄まで焼き焦がされるような激痛だった。ダッと真横の教室に飛び込んだ花子はすぐ手前の机を引っ掴むと、それを轟々と爆炎の上がる背後の廊下に向かって投げ飛ばした。一直線の廊下では逃げる事さえ困難だった。
吉田真智子の怨念は止まない。
今さら机を放り投げた程度で、怨霊の繰り出す榴弾と大炎の嵐の前には無力に等しかった。
それでも花子は無意味と思われるような行動を続けた。何かある──とその本能で察していたのだ。稀に直撃を免れる攻撃や、火焔の合間に訪れる沈黙が奇妙だった。そして何よりも気になったのが変わらぬ夜の様相である。どれほど凄まじい破壊を繰り返そうとも、校舎は悠然として夜の静寂を保ち続けており、完全に崩壊したと思われた廊下も、戻ってみればいつも通りの陰気な佇まいに変わりはなかった。爆炎それ自体が夢の中の出来事ではあるまいかと時折疑ってしまうくらいだった。
だが、それはあくまでも校舎においての話である。幾度となく怨念の嵐に呑まれた花子の体は着実に死に近づいていた。
放り投げた机の一つが光の槍をすり抜けた。まるで光の槍など初めから無かったかのように。教室の手前で激しい爆煙が巻き上がる。その隙に花子は教室を飛び出した。やはり何か仕掛けがある、とこれまでの光景を思い出しながら階段を一気に駆け降り、一階の廊下を左に曲がる。広く、そして何処よりも逃げ道の多い旧校舎の大広間こそが、今の危機的状況に最も適した場所であるといえた。
花子はすでに幾度となく訪れていた大広間に飛び込むと、壁際にあるステージに駆け上がった。旧校舎の大広間は演劇部の部室となっており、ステージの裏側には衣装や小道具の詰まった段ボール箱がびっしりと、木目の焦げた壁際に並べられていた。まさにそのステージ裏の壁こそが彼女がここを訪れた一番の目的であった。
拳を握り固めた花子は軽い動作で壁に穴を開けた。そうしてそのまま壁を手前に引き剥がしてしまう。壁の向こう側はかつての防空壕と繋がっているようで、そこからこの夜の校舎を抜け出す事が可能となっていた。
花子は前回の夜の校舎で出会った木崎隆明という名の陰気な少年を思い出した。いったい彼は今何処で何をやっているのだろうか。
大広間の南側の出入り口が爆炎に吹き飛ばされる。花子は肩の力を抜くと、メラメラと灼熱に燃え上がった扉に視線を落とした。ステージの裏側では暗く底の見えない大穴がぽっかりと口を開いている。当然、そこから逃げ出すつもりなど毛頭ない。外に逃げ出すふりをすれば吉田真智子が慌てて姿を見せるだろうと、そうして近付いてきた彼女を逆に穴の中に落としてやろうと、そんなこと考えた上で大広間を訪れたのだった。
「いーつまで鬼ごっこを続けるつもりかしら? そろそろ決着を付けようじゃないの!」
逃げる側のセリフではあるまい。
花子は思わず吹き出しそうになった。
ただ、煽れるのであれば何でもいいと、意味もなく舌を出してみせる。
轟々とした灼熱は止まない。バチバチと木々が弾け、黒い煙がゆらゆらと大広間を覆い尽くしていく。
吉田真智子は中々姿を現さなかった。花子は怪訝そうに眉を顰めると、ステージを降り、そうして焼けた扉の向こうを覗き込んだ。
「あっ!」
花子は慌てて床を蹴った。飛ぶようにして大広間の北側の階段を駆け上がっていく。そうして狭い扉を突き破ると、旧校舎の二階に転がり込んだ。同時に、大広間が消滅する。それは校舎がブラックホールに呑み込まれていくような形容し難い光景だった。床が、壁が、天井が、円形に捩れ、そうして空間の中心に向かって潰されていってしまった。
この攻撃だけはどうしようもない。花子は舌打ちをした。どうせ校舎を一周してくる頃には何もかもが元通りに戻っているのだろう。が、だからといって、もはや大広間を訪れようという気にはならなかった。自分が外に逃げ出そうとも彼女は一切気にしないのだと、今の攻撃で理解したのだ。ならばもう逃げるふりをする意味もないと、絶対にこの場でボコボコに叩きのめしてやると、花子は額に青黒い血管を浮かべた。
爆風が花子の短い髪を揺らした。赤い炎と黒い煙が静かな夜に鮮やかな彩りを添えた。
崩壊した大広間からではない。本校舎と繋がった暗い廊下の向こう側からである。ゆらりゆらりと痩せた女の影が見え始めると、花子はゴキリと首の骨を鳴らし、そうして不敵な笑みを浮かべた。
「上等だっつーの! この……!」
「こっちじゃ──」
突然、体が横に引っ張られる。
人のものとは思えない凄まじい力だった。
あえて引かれるがままに、素早く体勢を立て直した花子は、自身の右腕に巻き付いた赤い糸を見た。何だこれは、と眉を顰める。
「付いて来い」
そこは三階へと続く階段の前だった。その踊り場に背の高い老婆が立っていた。目付きが鷹のように鋭い。乾き乱れた白髪をしっかりと後ろで結んでいる。決して曖昧を許さぬような凛然とした表情である。おおらかで頭の弱い孫娘とは大違いだと、花子は踊り場に立った姫宮詩乃を見上げながら、肩をすくめた。老婆の両眼は空の薄い青に澄み切っていた。
「姫宮玲華のお婆ちゃんじゃない。こんなとこで何やってんのよ」
「こっちじゃ」
そう掠れた声を落とすと、スタスタと階段を上がっていってしまう。「ちょっと!」と慌てて声を返すも、すでに老婆の影は見えない。花子は憤慨したように腰に手を当てた。そうしてチラリと背後を振り返ると「もう!」と足を踏み鳴らし、老婆を追って階段を駆け上がっていった。
「こっちじゃ」
上から声が聞こえてくる。どうにも老婆は四階にいるようである。五段飛ばしで四階まで飛び上がった花子はあっと目を見開き、体の動きを止めてしまった。周囲の空気が変化していたのだ。それはこの夜の校舎においては当たり前の出来事だとも言えたが、それでも全く見覚えのない光景が突如として目の前に現れると、それはまさに寝起きのような、夢と現実の境目が分からなくなってしまうのだった。
老婆はすぐ目の前に立っていた。「来い」とまた一言だけ声を落とし、見覚えのない木造の校舎を進んでいってしまう。その枯れた肩を引き寄せてやろうかとも考えたが、相手は後輩の親族であり、さらには老齢の女性でもあったことから、乱暴な行為は控えようと、仕方なく老婆の後に付いていってやった。
「てか、旧校舎の四階って本校舎と繋がってたっけ?」
何となく浮かび上がった疑問を口にしてみる。
老婆は空色の瞳で前を見据えたまま、乾いた唇のみを小さく動かした。
「繋がってはおらん」
「じゃあ」
「ここは戦前じゃ。今でこそ旧校舎と呼ばれておるが、戦前は本校舎じゃった」
「へぇ」
花子は興味深げに教室の中を覗き込んだ。横並びの長い机と四角い椅子。何やら可愛らしく、寂しく、ほんのりと懐かしい思いのする光景である。
「こっちじゃ」
老婆は急ぎ足だった。戦前の校舎などには目もくれない。ギシギシと音の鳴る階段を滑るようにして降りていく。その後に続くと、見慣れたリノリウムの廊下が目に入った。口惜しそうに後ろを振り返った花子は、ズンズンと階段を降りていく老婆にやっと追い付くと、少し苛立ったような声を出した。
「ちょっと待ちなさいっての! いったい何処に行こうってのよ!」
「のぅお主、身体の方は無事なのか」
一階に降りると、老婆は立ち止まった。相変わらず険しい表情で、青い瞳は前に向けられたままである。「大丈夫だけど?」と花子は首を傾げた。所々、焼け爛れたような傷や酷い打撲の跡が見られたが、前回、前々回のような欠損はなく、五体満足である。
「そうか」
老婆は空色の瞳をゆっくりと横に動かしていった。
どうにも花子の問いに答えるつもりはないらしい。
「ようやった」
話の通じなさで言えば孫娘と同等か或いはそれ以上。
やはり血は繋がっているな、と、花子は再び肩をすくめた。
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