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最終章
不確かな未来
しおりを挟む顔のない人形が並んでいた。等間隔に、無造作に、一列に。壁際に置かれていた。
木造の校舎である。
そんな月の光芒に仄暗い校舎は中々に壮観だった。
「そう、そんな感じ」
三原麗奈は一体の人形をずっと腕に抱えていた。
山田春雄に向かって指示を出すばかりで、自分は人形を並べる素振りすら見せない。それどころか、並べられていく人形を足蹴にするような態度で、明後日の方向に空色に瞳を漂わせるばかりだった。先ほどから心ここに在らずといった様子である。
春雄は不格好ながらも自らの手で丹精込めて縫い合わせた人形たちに少なからぬ愛情を覚えていた。その為、麗奈の態度にはひたすらに不満げである。だが、それを口に出す事はない。彼は、花を摘みに行くと云ったっきり何処に行ったかも定かではない製作仲間の無事を祈りながら、顔のない人形たちを優しげに寝かせていった。
夜の校舎の様相は一変していた。滑らかで無機質だったリノリウムの廊下は、今や凹凸のある味わい深い木造の廊下へと変わってしまっており、学校の構造自体が現代のものとは思えなくなっている。校舎全体が寂れ、乾き、忘れ去られてしまったような、そんな古ぼけた印象だった。
「ここは廃校か?」
春雄はそう問い掛けると、埃に溢れていそうな暗い教室を覗き込んだ。だが、麗奈は何も答えてくれない。ため息をついた春雄は人形を並べる作業に戻った。
やがて校舎の一階が人形に埋め尽くされる。
一番端の教室の教壇に縫い目の不格好な人形を寝かせた春雄は、ふぅと額の汗を拭う仕草をした。結局、何をさせられているかは分からず仕舞いだった。それでも廃れた夜の学校に僅かながも温かな花添えが出来たぞ、と、春雄は満足げだった。
「じゃあ次は二階ね」
笑顔が固まる。
いったい何の冗談かと春雄は眉を顰めた。
「二階?」
「階段の一段目から上。その後は三階、四階。あと体育館と渡り廊下と倉庫も」
「いや、足りないが」
春雄は首を横に倒した。その言葉の通り、もはや人形は数えられるほどしか残されていなかった。
「なら縫わないと」
「布が無いだろ?」
「倉庫にあるよ」
「そんなの……いや待て、この学校全体なんて流石に無理だ」
「無くなったら制服か体操服を切って使えばいいじゃん。ほら、あの変態が集めてたやつ。てゆーか時代を跨げば布なんてほぼ無限にあるわけだし」
春雄は闇の底に突き落とされたような深い絶望感を覚えた。フラフラと視線を床に落としてしまう。もう逃げ出してしまおうか。そんな事を思うと、空き教室の扉を横目に見つめた。
そんな春雄の気持ちを察してか、麗奈は空色に薄まった瞳を彼の視線に合わせた。
「逃げ場なんてないから」
ドキリと肩を跳ね上げる。射すくめるような視線だった。負けてなるものかと、春雄は大きく胸を張った。
「別に、逃げようだなんて!」
「君に残された選択肢は二つだけ」
「だから、俺は……」
「生きるか。死ぬか」
麗奈は胸に抱いていた人形を撫でた。
「もし生きたいのなら戦って。死にたいのなら待てばいい。逃げるのは何もしないのと同じだからね」
どうにもお気に入りのようである。人形を撫でるその仕草は何処にでもいる普通の少女のようだった。ただ、彼女の瞳の色、立ち振る舞い、頰の傷、声の冷たさ、醸し出される雰囲気に圧倒されてしまう。春雄はまた俯くと、ひどくしょげたような声を出した。
「戦えと言われれば戦うさ。戦い自体が嫌いなわけじゃないんだ。ただ……いや、何だこれは? 人形を作って並べてるだけじゃないか? 意味が分からないんだよ、この作業の!」
「これは罠だよ」
麗奈はそう言って、胸に抱いていた人形をポイッと床に放り投げた。別に気に入っていたわけではないようである。春雄は少しだけ悲しくなった。
「いやいや、これの何処が罠なんだ。そもそも、いったい何の為に……」
「君は拳銃を相手に丸腰で挑みたいの」
「まさかお前、あのおっさんと戦うつもりなのか?」
春雄は体を強張らせた。ここに来る前に、ヤナギの木の下で戦った肩の広い男のことを思い出したのだ。あの時は無我夢中だった。が、改めてみると非常に恐ろしい。春雄は尻込みするように長い両腕を前に出した。
「無理だろ。そもそもあのおっさんが人形好きとは思えない」
「君はいったい何の話をしてるのかな」
「人形が罠だって言ったのはお前だろ!」
「言ったけど、君の云うおっさんと戦うつもりなんてないから」
春雄はほっと胸を撫で下ろした。だが、すぐにまた背筋を硬直させる。
「そのおっさんなんかよりも、もっと、もーっとヤバーい怨霊が君の相手だゾ」
「おん……りょうだと?」
「そ」
「怨霊が拳銃を持ってるのか?」
「怨霊にそんなもの必要ないけど、或いはそのお友達がね。因みに怨霊は拳銃なんかよりもヤバいものを持ってるから」
麗奈の口元に冷たい笑みが浮かび上がる。
そんな彼女から視線を逸らした春雄は何かを考え込むように腕を組んだ。
怪談の類が苦手な春雄であった。だが、麗奈が口に出した「怨霊が相手」という話を怖いとは思わなかった。それは彼女の本性を知っていたからであり、一度ならず二度三度、彼女に──もしくは彼であったと言うべきか──酷い目に遭わされていた春雄は、彼女の言葉に当然の如く裏があるだろう事を察していた。怨霊というのは恐らく何かの比喩であり、拳銃と罠という単語にも他に意味するものがあるのだろうと。まさかそれがそのままの意味であろうなどとは露ほどにも考えなかった。
「お前は……そうだ、お前はいったい何なんだ?」
春雄は思ったままの言葉を口に出した。そもそもがあり得ない事だと思ったのだ。
たとえ彼女にあの恐ろしい少年との繋がりがあったとして──よもや体自体を入れ替えていたなどと、あまりにも非現実的な話であった。その場の雰囲気と、まさに彼が直面している異常と、彼女の醸し出す空気から、いったんは彼女がまさにあの恐ろしい少年であったという話を信じ込んでいた春雄だったが、こうして手を止め、じっくりと考えてみると、何やら馬鹿らしい思いがしてきた。
彼女と少年が全くの他人であるというのならば、或いはもう従う理由もないだろう。
春雄はそう肩の力を抜くと、目鼻立ちの整った彼女の顔を見下ろした。
「なぁ、お前さ」
「もういいって」
そんな春雄の心の動きを見抜いたように、麗奈は少し苛立った声を出した。
「分からさせてあげる──」
空色の瞳がスッと細められる。
すると春雄も目を細めてしまう。
突然の事だった。世が明け、空が澄み渡ったかの如く、空色の光が輝きが増したのだ。いや、さらに透明に近い青色に薄まったというべきか。とかくそれは現実の色ではないかのようで、その中に消え掛かった煙のような黒い影を見た春雄は「あっ」と小さな声を漏らした。水に溶け込んでいく濁りのように薄い影だった。それこそが本当の自分であると、咄嗟にそう思ったのだ。ほんの刹那の時の出来事である。動体視力の優れた春雄だったからこそ気付けた僅かばかりの変化だった。
「これで理解した?」
そう問われると、空色の光を見上げたまま、ゆっくりと首を横に倒してしまった。「あっ」と口は開け放たれたままである。
何か変だと思った。だが、いったい何が変なのか、中々気付けなかった。思考の反射に関していえば一般人よりも劣っているようである。
「おい、聞こえねぇのか」
それまでとは打って変わって乱暴な口調である。
どうにも妙だった。
呆然と、ただジッと目の前の相手を見上げていた彼女は、それがやっと見慣れた自分の姿であると理解すると、思わず「あはっ」と喉を震わせ、そうしてソロリと、やがてひどく焦ったように、女となった自分の体に視線を落とした。
「何で……? 何で……?」
「理解したかって聞いてんだよ」
ドスの聞いた声が落ちる。長身の山田春雄は、呼吸すらもままならぬほどに動揺し切った三原麗奈の胸ぐらを掴むと、力任せに眼前に引き寄せた。麗奈の顔が恐怖と焦りと混乱に真っ青となる。そして、それと同じように、春雄もまた死人のように頬を青白くしていた。
「理解したか?」
「ひっ……ひっ……」
「答えろや!」
「し、しました! しました!」
空色の光が強くなる。
薄い影が混ざり合う。
その中に、うっすらと赤い糸が見えた気がした。
気が付けば春雄は先ほどまでと同じように夜の教室を眺めていた。視線を下ろすと、ひどく青い顔をした麗奈が胸元の乱れを直している。春雄が恐る恐る首を傾げると、麗奈はまた空色の瞳を薄め、ギロリと彼の顔を睨み上げた。
「分かったんだよね?」
「は、はい!」
ふん、と麗奈の瞳の光が弱まる。
春雄は、ドッド、と鳴り響く心臓を押さえると、いつも通りの自分の体を見下ろし、そうしてほうっと息を吐き出した。
「……あー、それでどうして人形なんだ」
暫くして、乱れた鼓動が徐々に収まってくると、春雄はやっと肩の力を抜いた。取り敢えずの疑問を口にしてみる。もはや彼女には絶対に逆らわないと決めての事だった。
「ねぇ、君って何歳だっけ」
麗奈はアッシュブラウンの髪を耳にかけた。「二十だが……」と春雄が答えると「マジでギリギリじゃん」とため息に近い声が漏れる。未だに麗奈の顔は死人のように青白く、どうにもあまり体調が優れない様子だった。
「あの、それでどうして人形……」
「説明すると長くなるから、ここが第二次世界大戦中の校舎だってことだけは教えておいてあげるよ」
「はあ?」
予想もしなかった答えに、春雄は素っ頓狂な声をあげた。それもその筈で、ここの出身ではない彼は未だにこの校舎の不思議自体をほとんど知らないのである。そんな彼にこれまでの全てを一から説明するのはあまりにも面倒くさいと、そう思った麗奈は左の頬に薬指を当てながら、ヒラヒラと空いた手のひらを夜に泳がせてみせた。
「ほら、もういいでしょ。せっせだよ、せっせ」
「待てって……いや、はあ? 何だよ世界大戦って? そもそもさっきのアレは一体何だったんだ?」
「せっせ」
麗奈の声色が冷たくなる。人形を一体拾い上げた彼女は、そのお腹の部分に、ブスリと縫い針を突き刺した。僅かばかりの赤みが彼女の頬に戻り始めている。
「い、いや、だからまだ色々と意味が分かんなくって……」
「怨霊と戦う為の罠だってさっき私言ったよね? ね? もしかして聞こえてなかったのかな?」
「聞こえてました」
「それで意味が分かんないって云うんならもうそれは君のせいなんじゃない?」
「そうかもしれません」
ブスリ、ブスリ、と意味もなく針を突き刺しまくる。もう止めてくれぇ、と春雄は祈るように目を瞑った。
「そもそも君さ、罠の意味分かってる? 罠って目標が現れてから準備するものなのかな? 罠ですから飛び込んでくださいってお願いすれば目標は飛び込みに来てくれるのかな? そんな訳ないよね? 目標が現れる前に準備しなきゃ何の意味もないよね? ねぇどうなのかな? かな?」
「その通りです」
「じゃあ急ごうよ」
「はい」
「ほら、せっせ」
春雄はスッと軽くステップを踏むと、家庭科室に向かって、せっせ、とジョギングを始めた。
「せっせ!」と冷たい怒鳴り声が背後に響く。
春雄は家庭科室に向かって全力で駆け出した。
理科室を後にした鴨川新九郎たちは旧校舎に向かって歩みを進めていた。
姫宮玲華曰く、過去──それも戦中にまで遡るには、過去と物理的に繋がった地点、つまり旧校舎からでなければならないという。
真偽のほどは定かではなかったが、恐らくはこの夜の校舎に一番詳しいであろう彼女の言葉であり、更には空襲による悲劇それ自体をなかったことにしようという突飛した秘策の提案者でもあったことから、皆何処か不安を覚えつつも、彼女に道案内を任せたのであった。ただ、彼女の発案をそのまま取り入れようというつもりは毛頭なく、戦闘機を撃ち落とすなどという寝言は夢のままに、野洲孝之助が口論の際に言葉にした「生徒と教師を避難させればいい」という意見を第一の候補として、彼らは未だ話し合いの最中にあった。
「だからバタフライエフェクトをどうするかって話だよ」
田中太郎は少し熱を帯びたように、昂然とした表情でガシガシと頭を掻いた。徳山吾郎もまた腕を組み、不安げな表情で頷いている。
過去改変による未来の変貌ぶりをすでに経験していた彼らは、空襲による犠牲を無かったことにするなどという凄まじ過ぎる改変がもたらすであろう変化に、怯えに怯えていた。およそ五十年前の、それもたった一人の男の命であれほどの変化である。それよりも更に数十年前の、数百人規模の人の命を救うなどと、もはやそれが及ぼす影響すらも想像がつかなかった。もしも彼らの知る現代が消滅し、それこそ魑魅魍魎の闊歩する異世界へと変わってしまったら──と、太郎と吾郎はゾッと背筋を凍り付かせていた。
「まぁ蝶の羽ばたき程度ではすまないだろうけど……。てかさ、そんなエスエフチックな事、本当に起こり得るのかな?」
長谷部幸平は何処か懐疑的に首を傾げてみせた。一々と夜の校舎を興味深げに見渡す行為はとうに止めてしまっている。代わりに深刻そうな表情で、白い包帯の巻かれた頭を働かせている。そんな幸平は今や一種の混乱状態に陥っていた。あまりにも思考の範囲が広過ぎたのだ。培った知識や経験などここでは一切役に立たない。混乱の最中にあった彼は時折、というか頻繁に、妙なことを口走った。
「いやね、別に何も起こらないと言いたいわけではないんだよ」
幸平はそう続けた。
太郎と吾郎はさらに表情を暗くすると、何やら気まずそうに、明後日の方向に視線を動かしていった。
「ただね、人命救助による過去改変が既定の事実であったとして、それが君の云うところの未来の変化に繋がるか否かって所にどうしても疑問を覚えてしまうんだ。いわば、神のみぞ知るって話で、それはつまり、生と死、この世の理、生命の誕生から消滅に至るまで、その全てが予め定められている運命であるとしてさ、すると、この今僕たちが置かれている現状も、取り組もうとしている行為も、働かせている思考も、乱されている感情さえも、神の名の下に規定された事実であるとの仮定が成されてしまうわけでね、それらは決して変えることの出来ない真実であると、否応無し、神のサイコロの目に従うが如く、運命の導きによって現実に表されてしまうわけなんだよ。そうなってくると、幾ら僕たちが苦悩を重ねて現実の苦痛を取り除こうと嘆き、もがき、妄想し、計算し、実行に移そうとも、それによって得られる結果はあくまでも神の予定調和であって、そもそもが苦痛も足掻きも決して抗えない宿命であって、たとえそれが幾分か自らの思い描いた計画に伴った結果であるように思えたとしても、その実それは……」
「あー、まぁ……とにかくアレだ。なるべく未来に影響を及ぼさねぇ方法を考えねぇとな」
太郎はそう言葉を濁すと、視線を足元に落とした。するとジロリと真下から彼の顔を覗き込んでいた幸平と目が合ってしまう。太郎はバッと顔を上げると、ブツブツと迫り来る幸平の言葉から逃れるように、校舎の暗闇に視線を泳がせていった。
「くだらん。そんなもの考えるだけ無駄だ」
そう吐き捨てたのは野洲孝之助だった。
「未来が不確かなのは当たり前の事だ。それが過去からの現在であろうともな。結局のところやってみなければ何も分からんのだ。ならば黙って突き進め。男ならば女々しく未来の事など考えるな。この戯け共め」
「いや、俺たちが生まれてこなくなる可能性だってあるんだぜ?」
「その時はその時だ」
「いやいやいや」
「お前は外に出れば死ぬ可能性があると、家に引き篭もるような軟弱者なのか?」
にべもない。
太郎は肩をすくめると、やれやれと吾郎と視線を交わした。
鴨川新九郎と姫宮玲華がズンズンと夜の奥に向かって突き進んでいく。そんな二人のすぐ後ろで、宮田風花と小田信長が恐々と背中を丸くしている。少し距離が開いたと、ブツブツと様子のおかしな長谷部幸平の手を引いた太郎は、小走りに前に駆け寄っていった。
「いや、ちょっと待て」
ふと、辺りを見渡す。どうにも一人足りない気がしたのだ。
太郎は焦ったように声を張り上げた。
「吉田くんは何処だ?」
その言葉に先頭にいた玲華が立ち止まる。彼女は慌てて「王子!」と後ろを振り返った。だが、すでに少年の影は夜の闇に消えてしまった後だった。
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