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最終章
旧天文部以前
しおりを挟む姫宮玲華はわあっと大きく口を開いた。
彼女の長い黒髪が夜闇にさらりと流れる。
「だってぇ、王子の様子が何かずっと変だったんだもん!」
四階の階段前にはどろりとした赤い液体が円状に飛び散っていた。その中心に無惨にも粉々の残骸となった注射器が横たわっている。一見しただけではよく分からない状況である。鴨川新九郎以下六人の若者たちは一様に眉を顰めていた。
玲華はわんわんと声を上げて泣いた。そんな彼女の隣では膝を丸めた吉田障子がシクシクと涙を流している。新九郎は、隣で腕を組んでいた田中太郎と視線を交わすと、ポリポリと頭を掻いた。
「いや、そんなに泣かなくてもよ……」
「ならあたしが悪いみたいに言わないでよ!」
「ちょっと落ち着けって、誰も責めてなんかねぇからさ」
「じゃあどうして怒鳴ったの!」
「別に怒鳴ってなんかねーって」
「もーいやあ!」
情緒不安定である。
一体どうしたものかと、新九郎と太郎はまた顔を見合わせてしまった。長身の二人の間に立つ小田信長はオロオロと手をこまねくばかり。この中で唯一彼女との関わりがなかった野洲孝之助はかなり苛立っている様子で、純白の特攻服をユサユサと揺らしていた。
生徒会書記の徳山吾郎と“火龍炎”の参謀である長谷部幸平はといえば、どうにもこの場の状況にはさほど興味がないようで、廊下の窓辺に寄り掛かりながら何やら深刻そうに言葉を交わしていた。
「障子くん、大丈夫?」
宮田風花はシクシクと泣き止まない障子の様子を心配していた。彼の側にしゃがみ込むとそっと背中を撫で始める。そんな彼女に対して障子はイヤイヤと体を揺すってみせた。単純に恥ずかしかったからである。
やがて、一向にヒステリーの止まない玲華に対して我慢の限界を迎えた孝之助は、カッと般若のように口を歪ませると、低い怒鳴り声をあげた。
「一体いつまで幼児のように泣き喚くつもりだ!」
障子の顔がビクリと上がる。そんな彼を庇うように腰を上げた風花は、孝之助をギロリと睨み上げた。ただ孝之助は二人を見ていない。彼の侮蔑の視線はワンワンと大の字になって泣き喚く玲華に向けられているのである。
「高校生にもなってワンワンと、貴様、恥ずかしいとは思わんのか! この愚か者め!」
「なんですってー!」
途端に玲華の表情が怒りに変わる。
情緒が不安定なのである。
それまで泣き喚いたはずの彼女がガバッと立ち上がりキッと肩を怒らせると、流石の孝之助もしばし呆気に取られてしまった。だが、すぐに調子を取り戻すと、口喧しい上司のような表情で、怒れる玲華の長い黒髪をクワッと睨み下ろした。
「やはり泣き真似だったようだな。この愚図め」
「マジ泣きだったもん! つーか誰よ、君!」
「俺が誰かなど今は関係ない。幼児のように泣き喚き続けた貴様の態度の話をしているんだ。いったいどれほどの迷惑が掛かったか……しかもそれが演技であったなどと……! 泣けばそれで全て済むと思っているような愚か者が俺は大嫌いなんだ!」
「もー怒った! そもそも勝手にやって来たのは君たちの方じゃん! あたしはただ王子の治療をしようとしてただけなんだからね!」
「治療だと?」
孝之助は足元に視線を落とした。粉々に砕けた注射器と針が目に入る。
よもや薬物に手を染めていたのではあるまいか──。
瞬間、そう考えた孝之助はさらにキツく目を吊り上げた。バサバサと無風の校舎で純白の特攻服が靡き始める。
「貴様あ! この注射器、いったい何処から仕入れたものだ!」
「君には何も教えてあげない!」
「ドラックだけはこの“苦獰天”の総長である俺が絶対に許さんぞ!」
「あーもう野洲くん、いいじゃねぇか何だってよ」
「ほら玲華ちゃんも、そろそろ落ち着けって」
見かねた新九郎と太郎が二人の間に割って入る。さもなくば取っ組み合いに突入しそうな雰囲気だった。
次第に嵐のような怒鳴り合いが静まっていくと、二人の声に怯えに怯えていた障子はやっと体の力を抜いた。そんな彼に向かって風花が優しげに微笑む。廊下に飛び散っていた赤い液体はいつの間にか消え失せており、砕け散った注射器の破片は乾き、濁った光沢を放っていた。
夜の校舎にシンと冷えた空気が戻ると、新九郎と太郎は三たび顔を見合わせた。
「で、どうすんだ?」
元々が特に当てがあったわけでもないのである。彼らはただ廊下を歩き回っていただけだった。こうして迷える障子と玲華の二人を発見し、歩き回るという行為を一旦中断してしまうと、どうにももう動く気にはならなくなってしまった。進み続ければやがて出口が見つかるというわけでもない。また誰かに会えるという保証もない。動くという行為に極めて否定的だった徳山吾郎の話では、その目的であるともいえる睦月花子その人がそもそも動き回っているであろう為に、その場を動かぬ事こそが彼女と再会する最短の道であると力説していた。確かにその通りでは、と新九郎と太郎は、吾郎の意見を考慮し始めている。すでに半日近く狭い校舎の中を歩き回っており、精神的にも肉体的にも彼らは疲れ切っていた。
「取り敢えず、どっかで休まねぇか?」
新九郎はそう言うと、太い首の筋肉を伸ばすように肩を回した。太郎は否定とも肯定とも取れないような曖昧な仕草をする。休んだら最後、そのまま永遠と動けなくなってしまうような気がしたのだ。
「では、理科室はどうかね」
それは徳山吾郎の提案だった。
先ほどまで窓辺で長谷部幸平と話し合っていた彼はいつの間にか注射器の残骸を見下ろす位置に立っており、黒縁メガネのレンズを暗闇に光らせていた。
「理科室って校舎の端っこじゃねぇか。そこだと部長と出会える可能性も低くなるし、誰かに追い詰められた時に逃げ場がねぇだろ」
「いや、ヤナギの霊に関して言えば、どのみちエンカウントした時点でアウトなんだ。むしろ校舎の端の方が警戒する方向が一ヶ所で済むし、理科室なら或いは武器になり得そうな物も多い。休むにはちょうどいいかも知れないぜ」
太郎の肯定的な反応に対して、新九郎は「そうかぁ?」軽く肩を落とした。すると、依然として窓の外を眺めていた幸平が彼らの話に加わる。
「別に防衛を意識した話じゃないんだよ」
「じゃあ何で理科室なんだ?」
「いや、ちょっとね……。ちょっとだけ気になることがあってさ」
幸平はそう言葉を濁すと、チラリと吾郎を振り返った。
「今幸平くんが話してくれた通りだ。少し調べたいことがあるのさ」
吾郎はキザったらしくメガネの縁に中指を当てた。
「君たちは学園七不思議を知っているかね?」
「いや、興味ねぇし」
「実は先ほどまで幸平くんと学園七不思議について話し合っていたんだが……」
「お前ら、真剣な顔してそんな無駄話してたのか?」
田中太郎は呆れ返ったように口を丸くした。
「無駄なもんかね。大変有意義な話し合いだったよ」
「学園七不思議ってアレだろ? ほら、コックリさんとか、トイレの花子さんとか……。いったい何処に有意義な話し合いになる要素があるってんだよ」
「この学校においての学園七不思議はそんなテンプレ的な類のものではなくてね、言ってみればヤナギの霊に関わる噂話のようなものなんだ」
「ヤナギの霊ねぇ」
太郎と新九郎は互いに首を捻ってみせる。それがどうした、といった顔付きである。
「それで、そのヤナギの霊の七不思議とやらに、お前らはいったいどんな有意性を見い出せたんだ?」
「学園七不思議自体には今のところ何の有意性も見出せていない。そもそもが子供のお遊びに過ぎない話だからね。東校舎連続怪奇音現象並びに生徒集団発狂現象だの、旧天文部集団失踪事件および神隠しの旧校舎事件だの、鳴り止まぬ哀しみの旋律と絶叫する女のノクターンだのと、それらは名称こそ仰々しいが、ただ実際にあった事件や噂話を面白おかしく脚色しているに過ぎないんだ」
「まさかお前、そのクソアホみてぇな長い名称全部覚えてんじゃねーだろうな……?」
太郎は気味が悪いといった目付きで、ゾッと背中の毛を逆立たせた。いつかの睦月花子の無駄話を思い出したのだ。
「当然、覚えているが?」
吾郎はムッと眉を顰めると腕を組んだ。
「おいおい、マジで無駄話じゃねーか」
「一つ言っておくがね、太郎くん、七不思議の名称も内容もこの際どうだっていいのだよ」
「じゃあ何だってんだよ」
「気になったのは相違点及び類似点なんだ」
「一般的な七不思議と比較してか?」
「いいや違う。歴史が変わる前の世界と比較してだ」
吾郎はそう言うと、ゆっくりと視線を斜め上に動かしていった。暗い夜の校舎が視界を流れていく。いったい今彼らの立つこの地点がいつの時点なのか、確かめようとするも定かではない。学校の夜はいつの時代も変わりなく陰鬱だった。
「学園七不思議と云われているからには当然七つの噂話がある。僕はその七つの噂話を、幸平くんの知るこの世界においての七つの噂話と照らし合わせてみた。すると少しだけ面白い事実が判明した」
「おい幸平、まさかお前も学園七不思議を全部覚えてんのか?」
鴨川新九郎は唖然とした表情で幸平の顔を見下ろした。暴走族の参謀である幸平は少しだけ居心地悪そうに「いや、有名な話だからね」と肩をすくめてみせた。
「まぁ聞きたまえよ新九郎くん、君もまぁ随分と、前の世界とは様変わりをしてしまったようだね」
「そうか?」
「うほんっ。で、話を戻すが、前の世界においての学園七不思議とこの世界においての学園七不思議は、そのほとんどが名称も内容も変わってしまっていたんだよ。これは別に驚くべき事というわけでもなく、いやはやこれほど変わってしまった世界なんだ、自然の摂理であると言えなくもない」
「で、何が気になんだ」
太郎はイライラと腕を組んだ。取り敢えず早く次の行動に移りたかったのだ。
「だから相違点及び類似点だと言っているだろうに。七つある怪談のうち二つが前の世界と類似していたんだ」
「へぇ、で?」
「類似していたのは、旧校舎裏のシダレヤナギを彷徨う戦前の女生徒の怨霊と、放課後の平和と愛の天使像と赤い涙と血の池の謎だった。そしてその天使像があるのが学校の西側、つまりは理科室の裏側だ。だから少しだけ調べてみたいと、理科室で休むことを提案したわけだよ」
「いや、ちょっと待てよ……その、幸平くんだったか? そもそもアンタはこの徳山とかいう胡散臭い野郎の話す歴史が変わる以前とやらを本気で信じてんのか?」
「誰が胡散臭い野郎だね」
吾郎は腰に手を当てた。そうしておもむろにメガネを外すと指紋に汚れたレンズを拭き始める。
太郎は何かを考え込むように唇を撫でた。今の吾郎の話に多少の興味が湧いたのだ。額に包帯を巻いたマッシュルームヘアの優男を神妙な表情で見下ろしている。
「まぁ完全に信じたわけじゃないけど……」
長身の太郎を見返した幸平は、包帯の具合を気にするように額に指を当てた。
「ほら、可能性の一つとしてだよ。現にこうして説明の付かない怪異に巻き込まれてしまっているわけだし」
「何でアンタは学園七不思議とやらを覚えてるんだ?」
「有名な話だからさ。君達の云うところのこっちの世界ではね」
「ほら田中くん、前に話しただろう。こっちの世界ではまだオカルトブームが廃れていないのだ」
吾郎がそう口を挟んだ。姫宮玲華と野洲孝之助がまた言い合いを始めたようで、ひどく気怠げな表情をした新九郎とオドオドと腰を低くした小田信長が間に立って、二人を宥めている。
太郎はジッと四階の階段を見下ろした。三階へと繋がるそこはまるで底なしの沼のように濃い影に沈んでいる。果たして理科室に向かうという判断は本当に正しいのだろうか。そんな事を彼は考えてしまった。目的が定まると逆に躊躇してしまうのである。田中太郎は天邪鬼だった。
「理科室に行ったら何か分かんのかよ?」
「さて、どうかね。たとえ何かが分かったところで僕たちの助けになるとは思えないが……。それでも、このまま何もしないよりはマシなんじゃないだろうか」
吾郎のその言葉に太郎はコクリと頷いた。新九郎を振り返ると、そろそろ行こうぜ、と手で合図を送る。野洲孝之助を後ろから羽交締めにしていた新九郎は「おう!」とほっとしたように親指を立ててみせた。
宮田風花の手を借りつつ、姫宮玲華の手を振り払いながら、吉田障子がやっと立ち上がると、新九郎を先頭に彼らは階段を降り始めた。
「で、その学園七不思議の相違点と類似点なんだが、何か法則性はあったのか?」
「いいや、特に法則性は見出せなかった。が、相違点と類似点が生まれた理由は何となく想像が付いた」
「どうしてだ?」
「恐らくは年代だよ。旧天文部の八田弘さんだったか、彼を生かしてしまったことで、こうして歴史が大きく変わってしまったわけだろう? つまりそれによって幾つかの七不思議も内容と名称が変わってしまったのさ」
「そうか! つまり類似した二つの七不思議は旧天文部が失踪する前に作られたものだったのか!」
「そういう事だ。旧天文部失踪事件はこの世界の七不思議には加えられていなかったよ。まぁ、代わりに一年D組の悲劇という別の怪奇事件が加えられていたわけだが……」
校舎の一階に辿り着くと、太郎は警戒したように周囲を見渡した。別段に異様な気配は感じられず、四階同様、シンと空気が静まり返っている。新九郎などは特に立ち止まることもなくすでに理科室に向かって進んでしまっていた。新九郎、玲華、そして野洲孝之助の影が理科室の中に消えると、太郎たちは慌てて彼らの後を追った。
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