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最終章
王子の記憶
しおりを挟むじゃあ、障子くんが「王子」ね──。
それであたしは──。
「それであたしは……」
吉田障子はボソリと声を出した。無意識のうちにである。
四階の暗い廊下の片隅だった。膝を抱えたまま呟かれた言葉はすぐに夜の校舎の闇に呑まれてしまった。
じゃあ、障子くんが「王子」ね──。
確かにあの時、三原千夏はそう言った。障子はその時の事をハッキリと覚えていた。
色褪せない記憶である。
開け放たれた窓に、白いカーテン、小学校の教室は初夏の風に涼しかった。まだ幼かった頃の彼女の笑顔が、まさに彼の目の前でその屈託ない純真さを見せつけてくるかのように、青々と色鮮やかだった。だが、どうしてもその後の言葉が思い出せない。彼女はいったい何と続けたのであろうか。
「それであたしは……。それであたしは……」
障子は頭を抱えた。
脳裏に浮かび上がるのは真夏の太陽のような彼女の笑顔ばかり。まだ幼いはずの千夏の声はされども現在の彼女の優美で妖艶な──障子の感覚で──声に勝手に変換されてしまい、周囲にいたはずの同級生たちの姿は白い煙を纏っているかのように曖昧で、いったいその幼い笑顔の前後に何があったのか、その記憶を拾い上げることが出来なかった。
「じゃあ、障子くんが……」
そもそもが古い記憶である。今や高校生である彼へと成長していく途中で、さまざまな思春期の葛藤の中で、幼い頃の美しい思い出の一つとして脚色を加えられていっていないとも限らない。果たして彼女は本当に、彼が王子であるなどと、そんな言葉を呟いたのだろうか。思えばこの、今現在の彼を取り巻く不幸と不穏の連鎖の始まりとも言える朝の教室で、千夏自身がハッキリとそれを否定しているのである。障子が「王子」であるなどと、それを言ったのは君自身だよ、と、千夏は屈託のない笑みを浮かべていた。つまりは障子の記憶違いである可能性の方が高いのだった。
「それであたしは……」
だが、障子にはどうしてもそれが記憶違いであるとは思えなかった。いったい何故今さらになって、こんな不穏な状況下で、そんな事を思い悩んでしまうのか、彼は自身の心情を全く理解出来ないでいた。やるべきことは他にあるだろうと、時折、心の中で自分を叱りつける。「こらっ!」と無意識に声を吐き出す。それでも気になってしょうがなかった。考えずにはいられなかった。
いったい彼女はどうして「王子」というあだ名を自分に与えたのだろう──。
障子は苦悩していた。
「じゃあ、障子くんが……」
ボソリとまた声を溢した。
彼の吐息が夜の底に沈んでいく。
「……ん?」
障子ははっと顔を上げた。
何やら左腕に違和感を感じたのだ。
どうにも涼しく、そして冷たい。
視線を横に動かした障子は、彼の左腕の袖を捲り上げる姫宮玲華の真剣な表情を見た。紅い唇が夜闇にきらりと煌めいている。凛とした仕草である。そんな彼女の右手に先の鋭く尖ったおどろおどろしい注射針を目撃した障子は「ぎゃあ」と草むらのカエルよろしく真上に飛び上がった。
「な、な……」
「今楽にしてあげるからね」
「うわああん!」
障子は大きく腕を振った。玲華の言葉、その挙動が恐ろしかったというのもあるが、何よりも月明かりに怪しく光る注射針が怖かった。
「こら王子! じっとしてなさい!」
「いやだあ! な、なんで……うわっ、どっから持ってきたのそれぇ!」
ジタバタと必死の抵抗を示す。だが、どうにも運動部であった玲華の方が万年帰宅部の障子よりも力が強いようで、あれよあれよという間に、マウントを取られる形で上から押さえつけられてしまった。
「大丈夫だよ。王子は大丈夫だからね。うん、これできっとすぐに良くなるよ」
銀色の針がギラリと光を放つ。玲華の長い黒髪がふわりと障子の頬にかかる。
紅い唇が近かった。ほっそりと柔らかな彼女の肢体は火照っており、肉体の重なり合う部分が焼けるように熱かった。夜の校舎全体が花に覆われてしまったような、そんな強い香りが障子の体を包み込んだ。だが、彼の瞳に映るものは大蛇の牙の如く先の尖った注射針ばかりである。
とにかく早く何とかしてこのキチガイの魔の手から逃げなければ──。
先端恐怖症気味の障子は圧倒的な死の恐怖にパニックを起こしていた。
「いやいやいやいやだあ! いやだってばあ! 痛い痛い! やめてぇ!」
「動かないで! 針が折れちゃうから!」
針の先端が柔らかな二の腕の肉に迫る。障子は顔を真っ赤にして腕をバタつかせた。だが、信じられないことに細身の玲華の方が力が強いのである──障子も痩せた猫のように細身であったが──。さらには上から押さえ付けられている為に抵抗が難しく、僅かばかりの体力が削られていってしまうと、障子の動きも次第に鈍くなっていった。
「よーし! じゃあ王子、ちょっとだけチクッとするから、我慢してね?」
玲華はそう言って、軽く微笑んだ。そうして表情をキリリと引き締めると、注射針を斜めに構える。そんな小悪魔に対して、障子にはもはや「ひっぐ……ひっぐ……」と泣いてやる事しか出来なかった。
「おい! こんな時に何やってんだ!」
校舎を震わすような低い怒鳴り声が轟いた。
それは男の声だった。
突然、二人の背後に声が響き渡ったのだ。
玲華は驚いて「きゃあ」と背筋を伸ばしてしまった。それに合わさるように、息も絶え絶えの障子が半狂乱に腕を振ると、玲華の手から注射器が飛び上がった。鋭い針がクルクルと夜の校舎を舞う。そうして廊下に打ち付けられると、注射器は無惨にも粉々に砕けてしまった。
複数人からなるどよめきが玲華と障子の背後で上がった。
「いや……、マジで何やってたんだお前ら?」
鴨川新九郎は足元で砕けた注射針と、階段の隅で折り重なった二人を交互に見つめると、困惑したように広い肩を下げた。
「陰気な学校だぜ」
早瀬竜司は窓の向こうに目を細めた。
夜の校舎の一階は“苦獰天”のリーダー格である彼の他に、全身がうっすらと透けている鈴木英子の影があるのみで、静かだった。むしろ外の方が僅かばかりの月光にうっすらと明るいくらいである。ただその分、旧校舎裏を覆うようにして長い枝を揺らすシダレヤナギの影が不気味だった。竜司はポケットに手を突っ込んだまま軽く舌打ちをした。
「暗いでしょう?」
英子は立ち止まると、竜司を振り返った。
「ヤナギの木がね、どうしても太陽を遮ってしまうの」
「とっとと切り倒せよ」
竜司は吐き捨てるようにそう言った。そうして胸の内に嫌な苦しさを覚えた。
「乱暴なのはいけないわ」
「うるせぇよ」
「あのヤナギの木はね、絶対に切ってはいけないのよ」
「なんなら俺が切ってやろうか?」
「ダメよお」
「チッ、何もしねぇ奴はただの馬鹿だぜ」
いったい何故そんな突き放すような言葉を吐いてしまうのか。
竜司は自身の言動に困惑していた。
彼は異性に対しては常に紳士的な男だった。拳で語り合うことの可能な同性ならまだしも、か弱い女性に対しての威圧的な態度など、彼の最も嫌う行為の一つだった。
いや、一人だけ──。
竜司はとっさに母親の顔を思い浮かべた。それは彼がこの世でただ一人、ついぞまともに接する事の出来なかった女性であった。
「うぜぇ、うぜぇ」
彼は慌てて頭を振った。思い出したくもない遥か昔の記憶だったのだ。
「あのヤナギの木にはね、お化けが出るの──」
竜司の心の葛藤など何処吹く風に英子は話を続けた。
「戦争よりも前の事よ。ずっとずっーと昔の事。あたしに生まれ変わる前のあたしが生まれるよりも前のお話。昔々、ここはとても偉いお侍さんのお屋敷だったの」
シダレヤナギの枝葉がざわりと揺らめく。長く黒い影が一階の校舎を陰鬱に染め上げる。
そんな枝葉の影を踏み締めるように、一歩足を前に出した竜司は、彼の隣に立つ黒いセーラ服の女生徒をそっと見つめた。
彼女の横顔は長い時の移ろいに色褪せた写真のように、その輪郭がぼんやりと曖昧だった。今にも夜の闇に薄れていってしまいそうな、振り返ればいなくなってしまいそうな、彼女を纏う空気はどんよりと儚げだった。その儚さが、竜司に、もう会うことの出来ない母親の顔を思い出させた。それが彼の感情を揺さぶり、竜司はただイライラと、足元を揺らめくヤナギの影を踏み締め続けた。
「お侍さんにはね、とても可愛らしい娘さんが居たの。それはもう仲睦まじい家族で、娘さんはお侍さんのご自慢だったそうよ。でも幸せは長くは続かず、娘さんは流行り病に取り憑かれてしまって、そうしてそのまま目を覚まさなかったそうなの。娘さんを失ったお侍さんは悲しみのあまり頭がおかしくなったと云われているわ。哀しいお話し。それほど娘さんの事を愛していたのでしょうね。裏の屋敷でお亡くなりになった娘さんはそのまま裏庭のシダレヤナギの側に埋葬されたというのだけれど、毎夜毎夜、お侍さんは勤めを終えると、そのヤナギの木に話しかけるようになったらしいの。まるでヤナギの木が娘さん本人であるかのようにね」
英子はそう言って、窓の外に視線を送った。
「アレがそのヤナギの木よ」
竜司はケッと下顎を突き出した。
「くだらねぇ話だぜ」
「いいえ、とてもロマンチックなお話よう」
「何でロマンチックなんだよ。哀しい話じゃなかったのか?」
そう突っ込み、思わず笑いそうになった竜司は慌てて表情を引き締めた。どうしてだか、彼女に心を許すのが気恥ずかしかった。
「あのヤナギの木にはね、お化けが出ると言われているの。長く美しい髪をした娘さんのお化けよ」
英子は話を続けた。
「夕刻の辺り、暗い夜の訪れ、長い黒髪を風に流した娘さんのお化けが出るって、昔の子供たちは誰もあのヤナギの木に近付かなかったわ。戦争よりも前のお話よ。今の子供たちはそのお話を知らないようだけれど、それでも皆んな何かを感じているのかしらね、やっぱりあのヤナギの木は避けられているようだわ」
「さっきからいったい誰の話してんだ」
「でもあたしはね、それは違うと思うの」
「はあ?」
「お侍さんの娘さんが化けて出るわけではないの。あのヤナギの木こそがお侍さんの娘さんなのよ」
薄い唇が横に広がった。彼女は、ポカンと首を傾げた竜司に微笑み、そうして暗い夜の校庭に佇むシダレヤナギの巨木に微笑んだ。ヤナギの木は長く滑らかな黒い枝をゆらゆらと夜闇に流している。
「あのヤナギの木はね、お侍さんの娘さんが生まれた日に植えられたものだそうよ。つまりお屋敷の裏庭で、娘さんと共に成長していったわけなの。娘さんは哀れにもお亡くなりになってしまったけれど、あのヤナギの木はこうして今も、ずっと、成長を続けている。それはきっと娘さんがヤナギの木に生まれ変わったからなのよ。お侍さんもその事を知っていたから、毎夜毎夜、楽しそうにヤナギの木とおしゃべりしていたんだわ。ほら、見て。あの長い枝なんかは、娘さんの長い黒髪のようでしょう?」
「怖い話じゃねぇか」
竜司は思わず笑ってしまい、何処か照れ臭そうに首元に手を当てた。
「ロマンチックなお話よう!」
英子はそう、ほんの少しだけムスリと頬を膨らませると、またニッコリと優しげに微笑んだ。
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