王子の苦悩

忍野木しか

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最終章

コックリさん

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 十円玉は動かない。
 だが、姫宮玲華は諦めない。
 玲華は大きく息を吸い込むと、目を瞑り、また「コックリさんコックリさん」と指先の十円玉に意識を集中した。
「王子に一番初めに王子ってあだ名を付けた人は誰ですか?」
 不動である。
 気まずい沈黙が訪れた。
 障子はため息をつくのさえ億劫に感じた。
 陽の落ちた教室は全体が青黒い影に呑まれていく最中のようだった。ともすると自分自身もぐにゃりと形を変え、暗い影の底に沈んでいってしまいそうな、そんな不安感に苛まれるほどに、青く暗い教室は陰鬱な雰囲気に包まれていた。
 障子は顔を上げた。玲華の横顔を見つめると、もう止めないか、とやんわり伝えようとする。だが、吐き出そうとした息は喉の奥で詰まってしまい、言葉がうまく出て来なかった。
「コックリさんコックリさん──」
 玲華の表情は真剣だった。それが何処か凛々しく見え、瞳はキラキラと夜空を瞬く星のようで、暗がりに唇を紅くさせた彼女の横顔はどうしようもないくらいに美しかった。
 障子はドッと鼓動を高鳴らせると、ひどい焦燥感を覚えると共に、言い知れぬ不安感から胸が苦しくなった。
 彼女がその性格にも関わらず異性を引き寄せるくらいに容姿が整っていることは分かり切っていた筈だった。それなのに、まるで初めて異性に見惚れた初心な少年であるかの如く──その通り、初心な少年であったが──彼女の横顔から一瞬、目が離せなくなったという事実に、障子はじっとりと嫌な汗を感じた。それはいわゆる吊り橋効果だろうか。それとも感謝の気持ちが変容した想いだろうか。多少なりとも親友としての信頼感を覚え始めていた玲華に対して、ほんの僅かでも異性としての不純な視線を向けてしまったことに、障子は、それがまるで重大な裏切りであるかのようなひどい罪悪感を覚えてしまった。特に深い意味はない、思春期の少年の狼狽である。
「もー、なんで動かないの!」
 玲華はわあっと口を大きくした。二人の指は十円玉の上で重ねられたままである。
 障子は何と言ってやることも出来ず、玲華の真隣で、カチリと固まっていた。少しでも体を動かせばそのまま青黒い影に沈んでいってしまいそうな、もしくはまた彼女を異性として意識してしまいそうな、そんな緊張感から心を制御するのに精一杯だった。
「コックリさん! ねぇコックリさん! 障子クンに王子ってあだ名を付けたのは誰なの!」
 玲華の吐息が頬にかかる。十円玉が焼けるように熱い。
 障子は思わず悲鳴を上げそうになった。人差し指が十円玉から離れなかったのだ。
 机に向かって全身が引っ張られているかのようだった。重ねられた指先が動かせないばかりか立ち上がることさえ出来ない。五感ばかりがいやに鋭く澄まされている。
 障子はギュッと目を瞑ると、とにかく無心になろうと、呼吸に意識を集中した。全集中。玲華に関するすべての情報を捨て去る呼吸。ごちゃごちゅとした妄想が頭の中を流れていく。ここを出たら何して遊ぼう──から、人生って何だろう──まで。やがて、小さく曖昧な妄想から淘汰されていくと、頭の中の映像が、声が、想像が、統一されていった。
 コックリさんコックリさんって──。
 障子は必死になってその想像を膨らませていった。
 僕に王子ってあだ名を付けた人は──。
 障子はかつての記憶を呼び起こし、玲華に対する邪な思いを薄れさせ、そうしてほおっと息を吐いた。自分は何も彼女の横顔に心の底から惚れてしまったわけではないのだ。と、初心な少年にありがちな自己否定である。その思いに誤りはないと、障子は、初恋の相手である三原千夏の無邪気な笑顔を思い出していた。
「あー!」
 眩いばかりの声が耳元で弾ける。障子はビクリと肩を跳ね上げた。
「王子見て見て! ほら、動いてるー!」
 何事だと、片目を開けてみる。
 玲華のはしゃぎっぷりは今にも踊り出しそうなくらいだった。人差し指を十円玉の上に、キャッキャとうるさい。障子は煩わしそうに片目を閉じたまま、机に広げられた紙に視線を落とした。
 確かに、ゆっくりとではあるが、十円玉は元あった鳥居のマークから斜め下に動いているようだった。だが、それがどうしたと、障子は鼻で息を吐いてしまう。どうせ堪え性のない彼女が自分の意思で十円玉を動かしているのだろう。そんな風に考えられるほどに障子は冷静となっていた。やはり先ほどの思いは勘違いだったようだと、彼は肩をすくめた。
「ねぇ姫宮さん、もう……」
「ほらほら王子! “は”……じゃないや、“み”だって、“み”!」
 玲華のはしゃぐ通り、十円玉は「み」の文字と重なり、沈黙するように動きを止めてしまった。障子は一瞬、疑わしげに玲華の横顔を見据え、そうしてゾッと背筋を凍り付かせた。その事実を玲華が知っている筈なかったのだ。肩をぴょんぴょんと踊らせる玲華は楽しげに目を光らせるばかりで、とてもではないが、指に力を入れているようには見えなかった。そもそも既に知られているのであれば、ここまでの果てしない遠回りもなかっただろう。まさか本当に、十円玉が勝手に──否、見えざる何かに動かされ、誰も知り得ない秘密を伝えようとしているのか、と障子は青ざめてしまった。
「今度は、“は”だって! ほら、“は”に止まったよ、王子!」
 もはや偶然はあり得ない。
 障子の呼吸が止まる。
「“みは”だね! “みは”! 犯人は“みは”何とかさんに決まりだよ!」
「うわっ……わ、あっ……」
「あっ、また動いてくー! “みはま”? “や”? それとも“ら”かな? ねぇ王子ぃー!」
「うわあああああん!」
 障子は動揺のあまり絶叫すると、大きく体を捻った。そのままバランスを崩し、隣にいた玲華を巻き込んで倒れてしまう。「ごめん」と声を震わせながら、体勢も立て直さぬままに、障子は何度も何度も右手を振った。十円玉がまだ指先に熱く張り付いてるような、そんな感触が消えなかった。
「きゃあああああ!」
 今度は玲華の悲鳴が上がった。障子は驚いて右手を止めると、慌てて周囲を見渡した。陽の落ちた教室はいつまでも青黒く陰鬱なままである。玲華の悲鳴が中々止まないという以外に、先ほどまでと特に変わった所はない。ただ、玲華の取り乱し方は尋常ではなく、コックリさんの用紙をクシャクシャと床に振り払った彼女は浅瀬で溺れる子猫のような調子でワタワタと起き上がると、ガバッと障子の頬を両手で押さえ付け、ジイィっと目を覗き込んだ。怖い、と障子は蛇に睨まれたカエルになってしまう。
「王子、大丈夫? あたしの目を見て答えて?」
「あ……の……」
「早く答えて!」
「だ、大丈夫です!」
 玲華はほっと胸を撫で下ろした。だが、まだ表情は強張ったままであり、障子は春先のカエルよろしく動けないでいた。
「王子ぃ!」
 わあっと玲華が抱き付いてくる。
「良かったぁ、取り憑かれたわけじゃなかったんだね……。でも、まだ油断は出来ないから。早くここから逃げないと!」
 もはやされるがままである。
 まさか本当に十円玉に秘密をバラされそうになるとは──。いや、別に王子というあだ名を誰が付けたかなど、今さらだとは思った。が、それでもやはり思春期の少年としては秘密のままにしておきたかった。
 教室を飛び出た二人は暗い廊下を駆け抜けていった。階段を駆け上がり、駆け上がり、そうして二段飛ばしに四階まで上がると、障子の方の体力が持たず、階段脇の暗がりにガクリとへたり込んでしまう。
「コックリさんの気配は無しだね」
 玲華はそう言って、階段下をキッと睨んだ。
 障子は息を切らしながら、何言ってんだコイツ、と肩を落とした。
「もー、王子ってば、コックリさんをあんな風に終わらせちゃダメなんだぞ」
 肩をペタペタ、頭をなでなで、障子の具合をいそいそと確かめた玲華は「めっ!」と彼の頬に人差し指を当てた。ルビーのように赤い唇を尖らせている。すぐに頬を緩めた玲華は、にっ、と微笑んでみせた。
 またも思春期の動揺を覚えた障子は、しつこく頬を突いてくる玲華の指を振り払いながら、呼吸を整えるフリを続けた。


 手の甲にチョークの粉が降りた。
 清水狂介は雪の結晶よりも細かいその粒子を眺めていた。
 二年E組はまさにそんな粒子の集まった白銀の世界と成りつつあった。
 銀嶺に阻まれた移りを、静寂に閉ざされた終焉を、彼は創造していた。
 手の甲に息を吹き掛ける。白い粉が夜を舞う。
 狂介はまだ閉じられていないカーテンの向こうに目をやった。月のない闇に浮かんだ星々が鮮明である。続いて彼は教室を見渡した。白銀の世界と呼ぶには不十分である。未熟で半端。初雪の白というよりは雪解けの茶色だろうか。土の混じった雪溜まりのように、ごちゃごちゃと見苦しかった。
 狂介は腕を上げた。永遠と思えるような時がまた動き始める。未だ完成には程遠い。
 それは常軌を逸した制作だった。
 いっそ意識を飛ばしてしまおうか──。
 時折、そんなことを考えてしまうくらいに、彼は苦悩を覚えていた。
「二階は──見てきたのか」
 粒子の雪が降り積もっていく。時間がゆっくりと流れていく。
 狂介は壁を見上げたまま、そう一言、呟いた。
 すると、廊下で影が動いた。小さな影だ。小柄な少女の瞳だ。おかっぱ頭がさらりと揺れた。
 山本千代子は白銀に染まっていく教室を見つめながら、コクリと顎を前に倒した。
「構わないか」
 抑揚のない声だった。
 千代子は小さく首を傾げてしまった。
 それが疑問であるか強調であるかは悩まなかった。ただ、質問の内容が分からない。いったい何に対して同意を求められたのか。千代子は頭を倒したままひたすらに次の声を待った。
「これはいわば“時”の連作。存在の統一だ」
 どれほどの時間が過ぎ去った後、狂介は再び平坦な声を出した。千代子は変わらずそこに佇み、目線は斜めのまま、狂介の右腕に描かれた髑髏を見上げた。
「一年A組は終わらぬ時の流れ。タイトルは“永遠の校舎”。制作期間は一年と八日」
 千代子はまたコクリと頷いた。「“永遠の校舎”」と小さな声が落ちる。
「一年B組は動かぬ時の痛み。“無限の世界”。制作期間は一年と五ヶ月と二十一日」
 教室が白銀の雪に埋もれていく。 
 今や窓は閉じられ、夜空を見上げることも叶わなかった。
「一年C組は繰り替えされる意思。“リサイクル”。制作期間は二ヶ月と十八日。一年D組は生と死。“黒と緑の楔”。制作期間は二年とひと月と二日。一年E組は膨張する記憶。“怨嗟”。制作期間は三ヶ月と二十六日──」
 自分という存在を緩やかな時の流れに刻んでいくように、狂介は全身で色を表現しながら、制作する手を止めなかった。
「これを完成させる。構わないか」
 千代子はやっと視線を平行に戻した。彼が何を成そうとしているのかを理解したのだ。それは千代子にとってはどうでもいい話だった。ただ彼女は早く完成作品を見てみたいと、興味深げに目を見開き、白銀に薄れていく教室を眺めていた。
「ここはまだ先だ」
 狂介に代わり、舞い散る雪で白い髭を作った髑髏のタトゥーが千代子に微笑みかける。
「何なら二階の作品でも見ているといい」
 狂介は振り返らなかった。彼は制作に没頭していた。
 真っ白な静寂に覆われていく。すでに小さな少女の影は消えてしまっている。
 やがて二年E組が完全なる白銀に世界を変えてしまおうとも、狂介の制作が終わることはなかった。降り積もっていくチョークの粉のように、ゆっくりと、彼の存在が校舎の時間に刻まれていった。
 
 
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