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最終章
遠い声
しおりを挟む「チィ、どーなってやがんだこの学校はッ」
“苦獰天”の早瀬竜司は低い怒鳴り声を上げながら、掃除用のモップを昇降口のガラスに打ち付けた。だが、モップは何の音を立てることもなくガラス扉の手前でピタリと動きを止めてしまい、衝撃すらも腕に伝わらなかった。それどころか、まるで初めからそんな事実などなかったかのようにモップを握る腕に力が入っておらず、その感触のあまりの気持ち悪さに、竜司は産毛を逆立てながら、そのままモップを真後ろの、土間に並んだ靴箱に思いっきり叩き付けた。上履きがバラバラと土間に投げ出される。モップが芯から砕き折れるほどの威力であり、その荒々しい音に、ポケットに手を突っ込んで暗い廊下をそろりそろりと見渡していた山田春雄は肩を飛び上がらせた。
「な、なんだ?」
「触れねぇんだよこのクソドアァ」
折れたモップを投げ捨てた竜司はガラス扉に蹴りを入れた。それもやはり何の衝撃もなく止まってしまう。
春雄はゴクリと唾を飲み込むと「移動しないか?」と竜司に向かって親指を動かした。
「どこかに出口があるかもしれない」
「ねぇじゃねーか。何処も触れねぇよ」
「じゃあ取り敢えず、皆んなのところに戻らないか? ここは確か新九郎と幸平の学校だから、アイツらなら何か知ってるかも……」
「“火龍炎”のクソ野郎どもと協力なんかできっか! ドチクショウがァ!」
そう怒鳴り、手前の靴箱を蹴り倒すと、土間に転がった上履きを蹴り飛ばす。凄まじい怒りである。この夜の校舎で目を覚ました時から、竜司は「あのオッサン、ぜってぇ殴り殺す!」と、自分を撃った小野寺文久に対しての雪辱に燃えに燃えていた。
「しっかし、変なところだぜ」
昇降口の正面の階段にドサリと腰を下ろした竜司は膝先に肘をついた。春雄は先ほどからずっと立ちん坊で、キョロキョロキョロと、寂しく陰鬱な夜の校舎を警戒している。
「やっぱり夢なんじゃないか?」
「こんな夢見たことあるかよ。普通にダベってんじゃねーか、俺たち」
「なら、ここはいったい何なんだ。ま、まさか本当に……お、俺たち、その……怪奇現象とやらに巻き込まれるんじゃ……」
自分で言い、ゾッと全身を粟立たせる。春雄は、田中太郎という長身の青年の虚ろな目を思い出していた。
「かもな」
竜司は「チィ」と腹立たしげに舌打ちした。それは敵対するチームの罠に嵌められた時など、彼がよく見せる、普段通りの表情だった。竜司にとって、拳を向かわせる相手が暴走族であろうと、拳銃を持った極悪人であろうと、正体不明の怨霊であろうと、関係なかった。
「ど、どど、どうする? やっぱ皆んなのとこに戻るか?」
春雄は頬を青ざめさせた。今にも泡を吹かんばかりである。勇むばかりで、何も考えず飛び出してきたのは失敗だった、と今更になって激しく後悔した。ただ、それでも春雄はかつての、現実から目を背け、大きな兄の背後で卑屈になり、周囲に流されるばかりだった頃の自分には絶対に戻りたくなかった。
「どうする……」
自分は山田春雄であり、それ以上でもそれ以下でもない。心の強さを望むのではない。心の弱さを覚悟する。敵わないと避け続けてきた兄と向かい合い、恐ろしいと言いなりになっていた少年と手を切り、漢らしいと認めていた男と拳を交え、そうしてやっと自分という人間に自信を持てるようになったのだった。
だが、幽霊は違うだろう、と春雄は呼吸を浅くした。嫌な想像が頭の中をぐるぐると渦巻いて止まらない。
別に幽霊を信じてるわけではなかった。が、怖いものは怖かった。もしこれが本当に心霊現象の一種であるというならば、もはやそれは覚悟以前の問題ではあるまいか。触れられなければ拳は交えられないし、幽霊との会話など想像もしたくない。そして、戦う理由も思い浮かばない。幽霊といえばやはり女や子供の姿を想像してしまい、いくら悪意を向けられようとも、相手が女であれば拳を振り上げる気にはならない。そもそも存在そのものが未知である。たとえば呪いなどという非科学的なものがあったとして、それは言わば触れずとも侵される毒のようなもので、そうであれば解毒はおろか、避けられるかどうかすらも運任せではないか。物理の法則など望めない相手だろう。たとえ上手くここから出られたとして、もし既に取り憑かれてしまっていたとしたら、永遠に逃げられないのでは──。
「おい春雄ちゃん、大丈夫か?」
竜司が怪訝そうに眉を顰めている。
春雄ははっと顔を上げると、微かに残った自尊心を奮い起こし、拳を顎の前に構えた。
腰が引けている。唇は真っ青である。
「え、お前まさかお化けが怖ぇの?」
「まさか、な……」
春雄は、シュッシュ、と左ジャブを二発、暗闇に放った。肘が曲がったままの、キレのないジャブである。
「ビビり散らかしてんじゃねーか! おい春雄ォ、テメェそれでも男か!」
「きょ、強敵がいるかもしれないだろ!」
「強敵だぁ?」
「たとえば、エドウィン・バレロとか……」
「誰だよそれ」
「元ボクシング世界王者だ。あとは、ほら……り、呂布……とか、宮本武蔵とか……」
だんだんと顔が赤くなってくる。羞恥心と恐怖心からすでに汗だくである。
拳を下ろした春雄は、ふぅ、と額の汗を拭う仕草をした。そうしてチラリと竜司の様子をうかがう。階段に腰掛け、腕を組んだ竜司は感心したように目を大きくしていた。
「宮本武蔵とは闘ってみてぇなぁ」
そんなことを呟く始末。羞恥心が恐怖心を上回ると、自分の狼狽ぶりが阿呆らしくなった春雄は強張った背中の筋肉を伸ばした。元々背の高い春雄の影が大きくなる。
「取り敢えず、やれるだけやってみるか」
「なぁ、もう二手に分かれてよ、出口見つけたらまたここに集合しようぜ」
「ああ、そうしよう」
竜司は親指を真後ろの、階段の上に向けた。
春雄は首を振ると、職員室のある一階の廊下の奥を指差した。
「じゃあまた後でな。新九郎のクソ野郎と会ったら、ちゃんとボコしとけよ!」
「今度は負けねぇよ」
そう片手を上げ、春雄は一階の廊下を歩き始めた。すぐに竜司の息遣いが聞こえなくなる。しっとりと夜を包み込む静寂が訪れると、また、春雄は背中に冷たいものを感じた。それでも彼は立ち止まることなく、背筋をスッと伸ばしたまま、夜の校舎を進んでいった。
「宮本武蔵と闘ってみてぇ、か」
先ほどの親友の言葉を思い出す。春雄はフッと口元に笑みを浮かべた。
一階の廊下はそのまま旧校舎へと続いていた。渡り廊下の前を横切ると、乾いた木の匂いが漂い始める。
「俺も負けてられないな」
シュッと左拳が夜を切った。窓の向こうの月明かりは眩しいくらいである。月下の校舎。木の香りが心地良い。メラメラと春雄の心に漢の闘争心が湧き上がっていった。
鬼でも怨霊でも何でも来やがれってんだ──。
春雄は無意識にステップを踏んでいた。
「あっれぇ?」
春雄は咄嗟に顎の前に拳を構えた。それは空き教室からの声だった。
「久しぶりじゃーん」
よく通る少女の声である。春雄のことを知っているような軽い口ぶりだった。
春雄は少しだけ警戒心を解いた。それでも拳は顎の前に構えたままだった。おおよそ今この場に知り合いなどいる筈ないと思ったのだ。それでなくとも春雄は女友達が少なかった。彼女などはおらず、兄弟も兄が一人いるばかりで、従姉妹もいない。もしかすれば竜司の連れの誰かかもしれないと考えてみる。そうでなければ自分の知り合いを装った怨霊の類だろうと、春雄は、いつでも拳を前に出せるよう肩の力を抜いた。
「誰だ」
そう問いかける。低い漢の声である。
ゆらりと仄かな白い影が、空き教室の中で揺れた。
春雄はさらに声を低くした。
「止まれ。この拳は脅しじゃない」
「えー、ひどっ。私と君の仲じゃん」
「名前を言え」
「思い出させてあげるよ」
現れたのは栗色の瞳が美しい少女だった。肩に掛かったミディアムボブは透き通るようなアッシュブラウンで、スタイルが良く、身長の割に背が高く見える。左の頬の焼け跡が痛々しかった。
春雄は唖然として拳を下ろしてしまった。
「お、お前は……」
「やぁやぁ春雄クン、元気でやっていたかね」
三原麗奈は「ん?」と首を傾げた。手の甲を腰に当てると、にっこりと微笑みながらタレ目を細くする。その瞳のあまりの冷たさに、春雄はまたゾッと全身を粟立てた。
「お前は、確か、モチヅキくんの……」
ぷはっと麗奈は体を折り曲げた。「あー、おっかしー」と馬鹿にしたような笑い声が夜に響き渡る。春雄はムッと表情を変えると、麗奈を上から見下ろすように、眉を吊り上げてみせた。
「何が可笑しい」
「だってぇ、モチヅキって、あははっ、マジ今さらって感じー。やっぱ春雄くんって小物だよねー」
「何だと!」
「モチヅキなんて奴、この世にいないから」
「いない? いやちょっと待て、何だお前、その軽い態度は……。俺は、お前のことを所有物だとか何とか抜かしてやがった、あの悪魔のような少年の話をしてるんだぞ」
春雄はほんの僅かに重心を後ろに倒した。春雄のことを上目遣いに見つめてくる、麗奈の瞳の暗さに怯んだのだ。彼女の瞳はどんよりと、冬の夜空のように、何処までも冷たかった。
「あはは、悪魔って。……あー、君ってほんと最高」
「お、おい、聞いてんのか? いったいお前はアイツとどんな……」
「だってアレ、私だし」
「はあ?」
「私がモチヅキって役を演じてたの。つまり、私が君の悪魔ちゃんだゾ」
チロリと、赤い舌を見せる。ほっそりとした彼女の指が桃色に煌めく唇と並ぶ。
麗奈は火傷した左の頬に薬指を当てていた。
「ねぇ春雄くん、どうだった」
「な、なんで……」
「最高の舞台だったでしょ」
春雄は完全に言葉を失ってしまった。足がガクガクと震え始める。腰が引け、拳が重くなっていく。
「また一緒に遊ぼうよ、ね?」
柔らかな笑みだった。麗奈の瞳が、もう手を切ったはずの悪魔のような少年の瞳と、重なった。
「だって私たち、ビジネスパートナーじゃん」
やはり勇んだのは失敗だった──。
春雄は深い絶望と後悔の中で、それでも一人の男として覚悟を決めようと、鉛のように重くなった拳をグッと顎の前に構えた。
早瀬竜司は飛ぶように暗い階段を駆け上がっていった。微かな物音と楽しそうな女の笑い声を、遠く、耳に捉えたのだ。
三階の端からだった。カチャリ、カチャリとガラスが重なり合うような音が響いてくる。香ばしいコーヒーの匂いを感じると、竜司は鼻をヒクつかせ、走る速度を落とした。背後の暗闇をうかがい、周囲に聞き耳を立てる。音が聞こえてくるのは三階の端に位置する家庭科室の中からのみで、一人で何かを呟いているらしい女の声は明るかった。だが、どうにも遠く感じる。竜司は首を傾げると、特に躊躇することなく、家庭科室の扉に手をかけた。
「あ……?」
竜司は一瞬、呆然と、我を忘れてしまった。家庭科室はオレンジ色の陽射しに眩しかった。沈み掛けた西日に一面が焦がされ、戸棚に並んだガラスがキラキラと淡い光を放ち、調理台が柔らかそうな薄い影を伸ばしている。
「んだよ、これ……」
扉の正面、窓辺の調理台の上で、小さな青い火がチロチロと揺らめいていた。サイフォンに透明な泡を浮かばせ、コポコポと沸騰した水に、夕暮れが赤く溶け込んでいる。そのすぐ側で、一人の女生徒が調理台に腰掛け、茜色の染まった雲を悠然と見上げていた。
「あら、どなた?」
女生徒は、竜司の声に気が付くと家庭科室の扉を振り返った。するりと脚を伸ばすようにして立ち上がる。ふわりと浮かび上がった黒い髪は長く、前髪は目の上で真っ直ぐに切り揃えられており、制服は上下が黒色だった。スカートとソックスでほっそりとした足が隠れてしまっている。その全体的な佇まいから、竜司は、女生徒に対してどこか古ぼけた印象を覚えた。
「まぁ可愛らしい」
女生徒はそう微笑むと、竜司に向かって足を前に出した。そこに音はなく、まるで影が動いているかのようだった。女生徒の声は相変わらず遠く、耳で聞いているというよりは、声を思い出しているという表現に近い。奇妙な印象だった。
竜司は面倒くさそうに肩を落とした。女生徒がもうこの世の存在ではないということに気付いたのだ。彼女の肌は、その制服と合わせて、うっすらと透けてしまっていた。
「どなたの弟さんかしら」
女生徒は腰を折り曲げると、下から覗き込むようにして、竜司にそっと微笑みかけた。竜司はムッと唇を尖らせる。
「どなたの弟でもねぇよ。俺ぁたぶんお前より年上だぜ」
「あらまぁ」
女生徒は驚いた顔をした。口元を手で覆い隠し、大袈裟に目を見開いている。その白い肌はやはり後光を透かしているようで、ただ、眩しいというわけではなく、うっすらと翳っていた。
「おいくつなの?」
「十七だ」
「今年、十七歳?」
「ああ、そうだよ」
「うふふ、ならあたしの方がお姉さんね。あたしはもうすぐ十八歳よ」
女生徒はころころと喉を鳴らした。夏の終わりに聞こえてくる風鈴のような、もの寂しく遠い声だった。
「お名前は?」
「竜司」
「まぁ、良いお名前。竜くん、竜ちゃん、竜子、たくさんのあだ名を付けてあげられそう。あ、そうだ、王子と呼んでも宜しいかしら?」
「いやだね。王子なんてカッコ悪ぃ」
竜司はため息まじりに頭を掻いた。どこか気まずそうである。別に女性と話すのが苦手というわけではなかった。むしろ女友達は多い方で、異性との交際経験も豊富だった。が、この場合、どう対応してやればいいのか、彼にもよく分からなかった。
「うふふ、そう、なら竜ちゃんね。あたしは英子よ」
本当に嬉しそうだった。鈴木英子は弟の前で張り切る姉のようにニッと微笑むと、竜司の手を掴み、クイクイと手前に引っ張った。
「ほら竜ちゃん、こっちへいらっしゃい──」
竜司はしかめっ面のまま視線を落とした。英子の手は温かくもなく冷たくもなく、そよ風のように弱々しく、消え入りそうなくらいに薄かった。それがどうしようもなく寂しい。英子の存在を確かめるように、その手を強く握り返した竜司は仕方なく、彼女の後について行った。
「あ、そうだわ」
英子は立ち止まった。竜司を振り返り、そっと首を傾げる。サイフォンの泡の弾ける音が竜司のうなじをくすぐった。
「コーヒーはお好きかしら?」
「飲めねぇよ」
「あら、そう」
英子は少し不満げに頬を膨らませた。だが、またすぐに微笑むと、竜司の手をクイクイと引っ張っていった。
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