王子の苦悩

忍野木しか

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最終章

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「ここに来んのもこれで二回目だな」
 鴨川新九郎はそう胸を張り、太い腕を組んだ。一人頷くような落ち着いた仕草であり、問いかけるような軽い口調である。対して宮田風花はアウアウと縁なしメガネを振るい落とさんばかりに動揺した様子で、満天の星空に比較的明るい夜の教室で何度もつまづいては情けない悲鳴を上げていた。
「なぁ?」
「俺は三回目だぜ」
 田中太郎は黒板前の椅子に項垂れるようにしてもたれ掛かり、虚ろな表情をしていた。その隣で床に腰を下ろした徳山吾郎は呆けたように黒縁メガネのレンズを拭き続けており、“苦獰天”の総長である野洲孝之助と“火龍炎”の参謀である長谷部幸平は仲良く肩を並べながら、教室の窓に映る満月に近い月を気が抜けたように眺めていた。
「二階には誰もいませんでした!」
 甲高い声を上げながら一年生の小田信長が教室に飛び込んできた。またここを訪れる羽目となったと、初めは怯えに怯えていた信長だったが、憧れの同級生である姫宮玲華もまた夜の校舎を彷徨っている可能性が高いという話を耳してすぐに、その短い手足を活発に跳躍させたのだった。“苦獰天”のリーダー格である早瀬竜司と山田春雄はすでに猪突猛進に夜の奥へと突き進んでしまっており、この場においてある意味で冷静だと言える者は、超自然研究部の部員である鴨川新九郎と小田信長、田中太郎の三人だけであった。
「そうか。信長くん、ありがとよ」
 田中太郎は重い腰を上げると、開け放たれた扉の向こうの暗闇に目を細めた。その手には一メートルほどの木剣が握られており、無意識に振られた木剣がビュンと鋭い音を立てる。
「で、どうすんだ」
「取り敢えず部長でも探しに行こうぜ。どうせ来てんだろーし」
「かもな。俺も早く師範を探しにいかねぇと……あの拳銃持った肩の広いおっさん、特にアイツには気を付けねぇとな」
「何だったんだろうな、アイツら」
「さぁな」
「待ちたまえよ、君たち」
 徳山吾郎はメガネのレンズを拭く手を止めると、声のみをすぐ隣の太郎たちに向けた。
「どうしてそう落ち着いていられる。もしや前回の恐怖を忘れてしまったのか」
「俺が落ち着いてるように見えるか?」
 太郎はそう言って、フラッグ用の棒で作られた木剣で自らの脳天をペシペシと叩いた。その目は何百年と道端に立たされた地蔵のように虚ろである。
「貴様らぁ、なーにをそんな隅っこでブツブツとだべってる。一緒に月でも愛でながら酒を酌み交わそうじゃないか」
「そうだよ。休む時はしっかりと休む、仕事のことなんか考えちゃいけない、その切り替えが大事なんだ。一流と二流の差は休暇の過ごし方にあるのさ」
 野洲孝之助と長谷部幸平はそう月に微笑むと、手に持っていたうがい用のプラスチックコップとステンレス水筒のコップを「乾杯」と合わせた。中身は冷えたお茶であり、幸平は水筒のコップを五本の指でクルクルとスワリングすると、麦茶の芳香を胸いっぱいに楽しんだ。
「……で、話を戻すが、この夜の校舎で気を付けなきゃならねぇのは拳銃を持ったあのおっさんだけじゃねぇ」
 田中太郎は軽くため息をつくと、新九郎に視線を戻した。すぐ側では宮田風花が奇声に近い声で「ぶぇあああっ」と咽び泣いている。
「ヤナギの霊ってやつか?」
「ああ、特にヤベェのが三人目のみどりって女で、その姿を見ただけで目が潰されちまう。アレとエンカウントしたら終わりだ」
「えええっ! そ、それを早く言って下さい!」
 信長は飛び上がり、そのまますてんと床を転がると、正面の教室の扉を勢いよく横に閉じてしまった。その音に窓辺でお茶を酌み交わしていた孝之助と幸平の肩がビクリと跳ね上がる。
「そういやいつだったか、あの姫宮って後輩がそんな話してたな」
「ああ。とにかくみどりと、そしてあのおっさんには注意を払いながら、部長と師範を見つけ出そう。二手に分かれるか?」
「注意っていったいどんな注意すりゃあいいんだ」
「それは……」
「なぁ田中くん、ここは皆んなでまとまってよ、協力し合いながら一人づつ見つけ出していこうぜ。そんでさ、部長やその師範って人とは別に、意識不明だとかいう三人がここを彷徨ってる可能性もあるんだろ? ならソイツらもついでに助け出してやろう」
 新九郎はニッと笑うと、岩のように硬い拳を前に出した。太郎もフッと笑みを溢し、新九郎の拳に拳を合わせる。
「だな。よく考えりゃここでバラけちまうのは得策じゃねぇ、一緒に行動すんのが一番か」
「ちょっと待て貴様らぁ!」
 窓辺から孝之助の怒声が上がった。勢いでお茶の飛沫が純白の特攻服に降りかかる。耳の大きな像のキャラクターが描かれたうがい用のコップを床に叩き付けた彼は憤怒の形相で腰を上げると、千鳥足ぎみにフラフラと新九郎の元に歩み寄っていった。
「リーダーはこの俺だ! 勝手な行動は許さんぞぉ!」
「いや、てかアンタ誰だよ」
 背中を大きく反り、新九郎の胸ぐらを掴み上げた孝之助に、太郎は呆れたような表情を浮かべた。「年上には敬語を使わんかあああ!」とさらに活きのいいエビのように、孝之助の背中が夜の教室に綺麗な逆くの字を描いた。
「ああもう、めんどくせぇな」
 新九郎は露骨に肩を落とすと、握り締めていた拳を孝之助の脳天に振り下ろした。「ゴッ」と孝之助の目の色が一瞬、真っ白に捲れ上がる。
 ちょうど同じ頃、水筒のコップを片手に頬を桜色に染めた幸平が、死を間近にしたような嗚咽を繰り返していた風花の肩に小気味よく腕を回した。「嫌な事なんか全部忘れてさ、俺とパーッと飲んじゃおうよ」と幸平はご機嫌である。「ね、風花ちゃん」と頬ずりをしながら風花の腕をサワサワと撫でる。
 水筒のコップがひらりと宙を舞った。風花の肘打ちからの流れるような膝蹴りが幸平の下半身に深刻なダメージを与える。さらに手刀からの正拳突きの連打が幸平の意識を削っていくと、見兼ねた徳山吾郎がやれやれと、二人の間に割って入った。「フーッ」と残心に余念がない風花は完全に冷静さを取り戻した様子で、突然の衝撃に目を白黒とさせた孝之助と幸平もまた、やっと意識をはっきりとさせ始めたようだった。
「うう……。な、なんだ……。頭が痛いぞ……」
「飲み過ぎだっての。野洲くん、まだ十九だろ」
 新九郎は、孝之助の特攻服に顔を近づけると、鼻を押さえる仕草をした。お茶臭い。
「俺は二十歳だ! そんなことよりも、ここはいったい?」
「ここは夜の校舎だ。さっき説明しただろ」
「夜の、何だって?」
「夜の校舎だって、まぁ言ってみりゃあ心霊現象みたいなもんだな」
「ねぇ、とりあえず外に出ない? 何で夜になっちゃったのかは知らないけど、とにかく今は動かないと……外がどんな状態なのかも気になるし」
 幸平は足をガクガクと揺らしつつも何とか立ち上がった。顎にパンチも貰ったボクサーさながらである。
「残念ながら外には出られねぇ。前回と同じで窓には触れられなかった」
 太郎は首を振った。
「田中くん、前回って何の話?」
「前にもここに来たことがあんだよ。さっき新九郎が説明したように、ここは心霊現象そのものみてぇなところで、普通には出られねぇんだ」
「ふーん。それでその前回はどうやってここから出たのさ」
「覚えてねぇ」
「どのくらい彷徨ったの」
「思い出したくねぇ」
 太郎の瞳が再び虚ろになる。幸平は肩をすくめると、新九郎の腰を叩いた。
「まぁいいや。僕のリーダーはしんちゃんだし、しんちゃんに全部任せるよ」
「おうよ、とりあえず固まって移動だな。部長と合流出来たらまたその時にどうするか考えようぜ」
 幸平の背中を叩き返し、新九郎は躊躇なく廊下に出ていった。太郎と幸平がやれやれとその後に続く。孝之助は依然として怪訝そうな表情であったが、白い特攻服を颯爽とはためかせると、新九郎の隣に並んだ。
「ま、待ちたまえよ! 花子くんのことだ、ここにいるというのであれば絶対に動き回っている。ならば我々はここで待機するのが正解だろう!」
 吾郎は声を掠れさせながら、慌てて廊下に顔を出した。廊下は暗く、一寸先は闇である。ただ、それでも目に映る光景には薄ぼんやりとした輪郭が現れており、吾郎にはそれが月の光によるものでないだろうことが分かった。まるで記憶の中の映像を見ているかのような。校舎が見えているというわけではなく、校舎を思い起こしているといった感覚だった。
 そんな彼の背中を、邪魔だとでも言わんばかりに、風花が両手でポンと叩いた。風花と共に信長が廊下を歩き始めると、突き飛ばされた衝撃で落としたメガネを慌てて拾い上げた吾郎は、皆の後を追って夜の校舎を走り出した。


 睦月花子は警戒したように息を潜めた。
 固く軽い何かを薄い壁に叩き付けるような連続音が、階段下の、二階の校舎から聞こえてきたのだ。カッカカッカッと何やら軽快な響きだった。
 家庭科室のある三階の西階段を音もなく駆け下りた花子は一年A組の前の壁に背中を付けると、二階の様子をうかがった。廊下に人影はない。カカッカッカッとリズミカルといえばリズミカルな音ばかりが鳴り止まない。それは廊下の先の一年D組、もしくはE組の中から響いてきている音のようで、花子は腕に青黒い血管を浮かばせると、のそりと肩を前に出し、すぐ手前の一年A組をそっと覗き込んだ。そうしてギョッと目を見開く。
「な、なな、なんじゃこりゃ……!」
 教室は色で溢れ返っていた。まるで別世界に迷い込んでしまったかのように、教室の中の光景は異様だった。そこに学舎の面影はなく、美術館の現代アートといった表現が近い。壁が床が机が椅子が、果てはカーテンまでもが、様々なチョークの色で覆われてしまっており、それが一枚の絵のようになっている。多彩な輝きがあったわけではなかった。ただ、隙間なく、幾重にも塗り合わされた色は重々しく、そして緻密だった。風か、波か、光か。教室を横切るように、線状の色が揺らめいて見える。それが果たして何の絵であるかは分からなかったが、黒板に描かれた濁流のような複雑な模様からひと続きに繋がっていることは確かであった。
 花子は目を見開いたままA組を通り過ぎると、B組の教室をそろりと覗いた。B組もまた全体が隙間なくチョークで覆われており、ただそれはA組のような抽象的なものではなく、地獄をイメージした絵であろうということが分かった。黒板に描かれた髑髏の絵とカーテンのシワを利用した炎の揺らめき、針の山をイメージしたであろう机のタワー、無惨に砕かれた椅子の残骸、壁の鬼、床を逃げまどう人々の姿──。花子はそこで絵の作者が誰であるかを察した。
 花子の歩みが速くなる。
 チョークのキツい匂いが漂ってきそうなC組とD組をじっとりと横目に、一年E組の閉じられた扉を毟り取った花子は、黒板に向かって一心不乱に長い腕を振り動かす男の右腕のブラック&グレーの髑髏のタトゥーにクワッと般若の形相を浮かべた。
「なーに遊んでんのよアンタッ、ゴラッ!」
 清水狂介はピタリと体全体の動きを止めると、視線のみを花子の方にジロリと傾けた。邪魔をするな愚か者、とでも言いたげな表情である。毟り取った木製の扉をさらに半分に引き千切った花子はそれを狂介に向かって軽く放り投げると、ゴキゴキと指の骨を鳴らした。
「アンタまさか、ここに来た目的を忘れちゃったんじゃないでしょうね」
 大砲のような勢いで黒板の前を横切った扉の残骸が窓辺でピタリと動きを止める。すんでのところで扉を避けた狂介はスッと体勢を立て直すと、また黒板に向かって手を動かし始めた。それは校庭の風景画のようであり、黒板の中心に白いチョークで描かれたシダレヤナギの巨木が印象的だった。
「だーかーら!」
「状況は危機的だ」
 ポツリと狂介の声が落ちる。言葉のわりに抑揚のない声である。「アンタの頭の話?」と花子は辛辣だった。
「俺は冷静だ」
「じゃあ何よ。チョークが足りない、とかいう話だったらぶっ飛ばすわよ」
「俺たちでは過去を変えられないかもしれない」
 チョークの粉が黒板の上を滑り落ちていく。
 花子は腰に手を当てると、軽く首を傾げた。
「過去の変え方が分かったの?」
「方法が分かったわけではない。が、これまでのお前の話から推測するに、俺たちでは条件を満たせていない」
「何よ、その条件って」
「死だ」
「シダ?」
「お前たちは死んでいたんだ。だから一度目は過去を変えられた。だが、二度目は死ななかった。故に過去は変わらず、それぞれがそれぞれの自宅で目を覚ますような不測の事態は起こらず、木崎という男の家でお互いの生存を確かめ合えたんだ」
 花子はポカンと口を半開きにしたまま固まってしまった。やがて導火線の火が進んでいくように額の血管が浮かび上がっていくと、「ああん?」とドスの効いた低い声を轟かせた。
「この私が死んでた? はん、ついでに他の奴らも死んでたですって? んなことあるわけないっつの!」
「この学校を覆う重々しい壁。城壁はやはり外敵の侵入を防ぐ為のものではなく、中からの脱出を難しくするためにあったようだ。つまり俺は期せずして、この城壁を創った者の意図を再現していたわけだ」
「話が逸れてるっつのクソドアホ! どうして死が条件に繋がるのか、どうしたらこの私が死ぬのか、そこをちゃんと説明なさいよこのアホンダラ!」
「逸れてなどいない。この壁こそが何よりも重要なんだ」
 狂介はそう言って、シダレヤナギの絵に被せるように、横に倒した青いチョークを黒板の上に滑らせていった。
「以前は学校を覆う壁などなかったと、お前は言っていたな。過去を変える前の話だ」
「ええ、なかったわね。別に驚くようなことじゃなくって、それが普通の学校だと思うけど」
「この夜の校舎には放課後の理科室から迷い込んだと、そうも言っていたな」
「それがどうしたのよ」
「もし理科室で多数の生徒が意識を失っていたら、お前はどうする」
「どうするって、そんなの」
「とりあえず救急車を呼ぶだろう。生徒が複数人倒れている。揺り動かしても目覚めない。ならば病院に連れていくのは当然のことだ。そして放課後であればまだ生徒や教師が学校に残っていたはずだ」
「あ……」
「一度目の際、お前たちの肉体はお前たちが意図せぬ間に、魂をここに残したまま、この学校を離れてしまった。それが死に繋がると、言っていたのはお前自身だ。お前たちは死んだ状態でこの夜の校舎を彷徨い、何らかの原因で過去を変える結果に至り、そうして変わってしまった世界でそれぞれが目を覚ました。つまり過去を変える条件は肉体の死にあったのだ」
 花子は呆然と目を丸くした。それは一度は起こったであろう自身の死に対する衝撃であり、目の前の男の洞察力に対する仰天であり、何の意味もないように思われた校舎の壁に対する驚嘆だった。彼女は、頼りない友人である徳山吾郎がいつかの時に話していた因果関係の話を思い出していた。
「状況は危機的だ。外に壁がある限り、そして肉体を守る存在がある限り、俺たちが自然に死ぬ可能性は極めて低い」
「まさか私たちを守るためだったとは……。あのクソ八田ゴミ弘が創ったバカみたいなカス壁にそんな意味があったなんて……ほんと驚きだわ」
「或いは守るためではなかったのかもしれない」
「はあん?」
「安易に過去を変えさせない為だ。この壁を創った男は過去を変える条件を知っていたのだろう」
 狂介は手を止めた。
 ヤナギの木を中心に置いた風景画のようだった黒板の絵は、今や時間も空間も超越した抽象的な世界に変貌を遂げていた。
「何にせよ、だ」
 そう呟き、チョークの粉を指で擦る。
「さて、どうしたものか」
 狂介は長い腕を振り上がると、大きく広げた手のひらを黒板に叩き付けた。

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