王子の苦悩

忍野木しか

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最終章

魔女の青い光

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 暗い廊下の片隅である。
 水口誠也は生まれたての小ネズミのようにプルプルと身体を震わせていた。
 生徒会室に立て籠っていたメンバーは荻野新平の襲撃により散り散りとなってしまい、途中まで一緒に逃げていた山本千代子の姿もない。今や彼は、空色の瞳を揺らめかせる三原麗奈と二人きりになっていた。
「ね、ねぇ、早く逃げようよ」
 ちょうど二階の中間地点である。すぐ後ろでは上下とも黒い影に沈んだ階段がズンと存在感を示しており、旧校舎へと繋がる廊下からは冷えた風が流れてきている。
「出口があるんでしょ? なら一旦そこから外に出ようよ。中に残された人たちは……ほら、英一さんとか花子さんとか外の人たちの手を借りてさ、また救助に来ようよ、ね?」
「無理」
「な、なんでさ? 花子さんの力なら、あの荻野さんにだって対抗が……」
「外には出られない」
 アッシュブラウンの細やかな髪が夜闇にぼんやりと暗い。麗奈は空色の瞳をゆらゆらと虚空に漂わせたまま、薄桃色の唇のみをからくり人形のように動かしていた。青いジャージの上からでも分かるほどにほっそりとした彼女の身体は今にもポッキリと折れてしまいそうで、すぐにでも闇の底に消えていってしまいそうで、誠也は口の中に僅かに残った唾液を無理やり飲み込むと、彼女の冷え切った手を両手でグッと握り締めた。
 おや、と麗奈の目が僅かに見開かれる。
「出られるよ! そんな簡単に諦めちゃダメだってば!」
 真剣な眼差しである。
 麗奈の青い目には、とにかくとにかくとにかく早くここから逃げたいんだッ、という彼の精神の切実な揺らめきが見えていたが、それでも予期せぬ男の手の温もりに心臓の動きが速まってしまった。
「ほら麗奈ちゃん、背筋を伸ばして! 大丈夫だから! 歩けなくなったら僕が両手で支えてあげるからさ!」
 まさか麗奈が男慣れしていないなどとは露ほどにも思ってない。そもそもそんな事を考える余裕もない。とにかく逃げねばという一心で、誠也はグイグイと麗奈の青い瞳に顔を近づけていった。
「わ、分かったから……離れて!」
 麗奈は顔を背けると、グッと胸を押すようにして、誠也を後ろに下がらせた。
「確かに出口は知ってるよ。でもどちらも簡単には出られないから。旧校舎の広場の壁は薄いけど、それでも穴を開けるためにはハンマーのような道具が必要になってくるし、そんなもの外の用務室にしかない。体育倉庫の床下も同じ。四人ないし五人ならまだしも、二人じゃ荷物を退かすことすら出来ない」
「その荷物ってのはいったい何なのさ? テコの原理とかでも動かせない物なの?」
「古くなった人工芝等のマット。それが山のように積み重なってて、さらに泥や埃で固まってる。とてもじゃないけど二人じゃ動かせない」
「マットか……。でもそれなら上から一枚一枚剥がしていけば行けるんじゃないかな? 時間は掛かるけど、地道に頑張れば確実に外に出られるでしょ?」
「たとえ荷物を退かせられたとして、その下には体育倉庫を覆う板がある。さらにその下には防空壕に繋がる扉が……。私たちはヤナギの霊に見られてるの、だからそんな時間は掛けられない」
「で、でも、それってここで立ち止まってても結局は同じことだよね? 少しでも可能性があるなら、やっぱり出口に向かって走り出した方がいいって!」
 誠也はそう叫ぶと、また麗奈の手を掴もうと両手を前に出した。麗奈は慌てて腕を後ろに回し、そうして階段前の壁に背中を預けてしまう。
「いや」
「嫌って……ええ? 今はそんな事言ってる場合じゃ……」
 誠也は多少気まずそうに宙ぶらりんとなった手を下ろした。ただ、麗奈の瞳は彼にではなく、廊下の隅の体育館側に向けられている。その頬は暗がりでも分かるほどに青白い。
「体育倉庫からは出たくない。あそこだけは絶対にいや」
「な、なんでさ? 旧校舎よりは出られる可能性が高いんでしょ?」
「かもね」
「じゃあ!」
「死体があるの」
 それは乾いた息が唇に擦れたような掠れ声だった。
 誠也は口を大きく開いたまま言葉を失ってしまった。
「はい……?」
「子供が死んでるの。沢山。だからあそこには近付きたくない」
 ゾッと誠也の顔から血の気が引いた。彼は呆然と口を開いたまま、麗奈の視線の追うように、廊下の暗がりに視線を下ろした。
「こ、子供……? 死んでるって……? ま、まさか戦中の……」
「戦後だよ。ほんの数十年前の子供たち」
「あ、あり得ないよ! そんなの事件にならないわけっ……」
 あっと誠也は言葉を止めた。顔がさらに真っ白に凍り付いていく。
「まさか……」
 完全に乾き切った舌が上顎を撫でる。それでも唾を飲み込もうと強引に喉を鳴らした誠也は、傷だらけの少女の瞳に、青く萎んだ唇を向けた。
「一年D組の生徒たち……?」
「そう」
 そうポツリと少女の声が落ちる。
 重苦しい静寂が二階の校舎を闇に沈めた。
 誠也は完全に言葉を失ってしまった。呼吸は浅く、視点もゆらゆらと定まらないままに、ただただ数十年前の子供たち──その悲劇を想い続けた。
「ねぇ」
 そうして暫くの沈黙の後、麗奈の薄桃色の唇にしっとりと妖しい光が宿った。瞳は本来の栗色に戻っており、漆を塗り重ねたような艶やかな光沢を帯びている。先ほどまでの傷心の少女の弱々しさはない。まるで別人のように妖艶な眼差しである。
 誠也はやっと彼女の瞳を見返すと、その柔らかそうな唇に恐々と首を傾げた。
「ど、どうしたの……?」
「君っていくつ?」
 まるで幼い少年に尋ねるかのような口ぶりである。誠也は眉を顰めると、童顔を気にするような素振りで前髪に手を当てた。
「二十六……だけど?」
「ふーん、じゃあアレは無理か」
 麗奈はそう呟き、ジャージのチャックをゆっくりと下ろしていった。白い胸元が露わになっていく。ひどい拷問を受けていた彼女はジャージの下に何も身につけていなかった。
 誠也は慌てて視線を逸らすと、どっと跳ね上がる鼓動を抑えようと深く息を吸い込んだ。
「ア、アレって……?」
「ねぇ」
「な、なに……?」
「ここから出たいんだよね?」
「それは……で、出たいけど……」
「なら、私を襲って」
 虫の羽が開くように青いジャージが二つに分かれる。形の良い少女の乳房がうっすらと暗闇に浮かび上がると、誠也は動揺が抑えられなくなって、両手を顔の前にわっと後ろに飛び跳ねてしまった。
「な、な……!」
「あれれ、童貞さんかな? ほら、チャンスだゾ」
 麗奈の白い指先が誠也の手首をすうっと撫でる。誠也はもう訳が分からないといった様子で、完全に裏返った声を夜の校舎に響かせた。
「ど、どど、どうしちゃったのさ! そ、そんな事してる場合じゃないでしょ!」
「外に出たくないの?」
「出たいよ!」
「なら押し倒してよ。殴って、噛んで、私をめちゃくちゃに犯してよ」
「だ、だ、だから、意味が……! 麗奈ちゃん、お願いだから冷静に……」
「それで荻野新平が殺せるから」
 冷たい声だった。誠也は思わず息を止めた。
「潔癖だから。その場面に出くわせば必ず隙が生まれる。君を私から引き剥がそうとする。その隙にアイツを殺す」
「れ、麗奈ちゃ……」
「荻野新平が死ねば後は吉田真智子だけ。アレはこの校舎では無敵だけど、それでも何とかなるかもしれない。だって精神が不安定だから。アレが彼の死に耐えられるとは思えない」
 麗奈の瞳は冷え切っていた。明るい栗色にも関わらず、まるで冬の夜空である。豪奢な額縁で微笑む女性のような優雅な表情も、しっとりと濡れたような艶かしい唇も、とても十代の少女のものとは思えない。
 唖然として冷静さを取り戻した誠也はやっと、目の前の少女がおおよそこの夜に関わる者たちと同じく、普通とはかけ離れていることを悟った。
 彼は今やっと目の前の少女が恐ろしいと思った。
「わ、分かったから……。麗奈ちゃん、いったん冷静になって考えてみよう。確かにいい作戦に聞こえるかもしれないけど、ほら、相手はあの荻野さんだからね? たとえ不意打ちだろうと、た、大砲を持ってたって、敵うか分からない相手なんだ」
「大砲じゃ、不意打ちの意味ないよね」
 麗奈はクスリと笑った。首筋からヘソにかけての肌が透けているかのように白い。
「そ、それにその作戦だと、僕の命も危ないでしょ……? いきなりヘッドショットで死ぬ可能性の方が高いよね……?」
「あー、ほんと情けない奴。やっぱり君、童貞じゃん。そうやって言い訳ばっか並べてさ、結局は私を抱く勇気がないってだけの話じゃん」
 はーあ、と麗奈は深くため息をついた。何やら憤っているようである。
 誠也は足の震えを止めた。ムッと唇を突き上げた彼は、それでも麗奈の胸元は見ないようにと顎を上げたまま、彼女の茶色い髪をキッと睨んだ。
「麗奈ちゃん、一つ言っとくけど、僕にはもう心に決めた人がいるから」
「へぇ?」
 麗奈は首を傾げると、ほんの少しだけタレ目を細めた。その瞳は栗色のままである。
「そもそも僕は相手を試すような人が大の苦手だし。純粋無垢で優しい人が好きなんだ」
「キモッ。そんな女いるわけないじゃん」
「いるよ! 僕の運命はもう決まってるんだ!」
 誠也は声を張り上げた。そうして大きく胸を張り、麗奈の顔を正面から見据えた。
「僕は、僕は……! 純粋で無邪気で心優しい玲華ちゃんを愛してるんだ!」
 精悍な顔付き。男らしい声色。迷いのない瞳である。
 もはや誠也にの心に動揺はなかった。
「玲華ちゃんを愛してるんだぁ!」
「……いや、あれはただの馬鹿でしょ」
 麗奈は肩を落とした。そうして少し恥ずかしそうな表情をすると、もぞもぞと、ジャージのチャックを上げていった。


 清水狂介はふっと足を止めた。自らを取り巻く夜の変貌に驚いたのだ。
 先程までのどこか泥臭い、しっとりと唇が濡れるような夏の夜は置き去りに、二階の校舎はひんやりと乾いていた。窓の向こうは細々とした幾千の星々に彩られ、その間にぽっかりと、限りなく円に近い月が浮かび上がっている。今やスマホのライトに頼らずとも教室に並んだ机の木目が数えられるほどに周囲は明るかった。
 狂介は後ろを振り返った。月の青い斜光が階段へと続く廊下を照らしている。水道に並んだ鏡に映る影はない。
 視線をチラリと教室側の白い地窓に落とした狂介は長い腕を組んだ。そうしてスッと来た道を戻り始める。肌を押すような涼しい夜の空気は意識の片隅に、一階の校舎に下り立った狂介は砂っぽい昇降口の土間に視線を伸ばした。だが、月の明るさに変化は見られず、空気は乾いたままである。くるりとその場を反転した狂介は再び二階へと上がっていった。それでもひんやりとした夜の穏やかさに変わりはない。満月前夜の楕円の月を見上げた狂介は、この夜の校舎において、垂直的な空間の移動が時間の変化に直接関わりがあるわけではないという事を悟った。
 では何故先ほど、突然、夜は時間的変貌を遂げたのか。
 思えば、一階から二階への移動をトリガーに時間が動いたというのであれば、二階に辿り着いた時点でこの少し肌寒い夜の空気と煌々とした青い月の眩さに心を奪われていた筈である。それがどういうわけか、変化に気付いたのは二階の、一つ目の教室を横切ろうというまさにその時だった。
 狂介は怪訝そうに、それでもいつものように飄々とした態度で、また先ほどと同じ地点を通り過ぎようとした。視線を教室側の、白い地窓に落としながら──。
 それは全体が白く塗られた木製の地窓だった。一年A組のプレートから数歩先。どの学校でも見られるような教室の薄い壁の下の簡素な引き戸である。建て付けが悪いようで、下桟には隙間が空いている。その右から四列目。カタカタと締まりの悪そうな引き手の金具の側に親指大の木彫りの落書きがあった。
「ふむ」
 狂介はまた足を止めた。どうにもその木彫りが気になってしまうのだった。
「これは……」
 果たして猫であろうか。狸であろうか。越冬のために木の実等のタンパク質を過剰摂取した狐であろうか。
 一見した限りでは判断が付かない。
「猫……いや、ロバか……」
 単純化された動物のモダンアートであるというならば、鹿や猪、熊、オオカミ、ウサギ、カワウソ、原寸大のカヤネズミ、はたまたエゾモモンガをイメージした作品という可能性も考えられた。足の短い馬のようにも見えるし、首の短いキリンを表現したように見えなくもない。
 狂介は腰をかがめるようにして木彫りの絵を凝視した。
 もしや秋田犬か。それとも羊だろうか。白銀の砂漠で香箱座りに背中を丸めた呑気なラクダを描こうとした作品ではあるまいか。
 いや、まさか猿はあり得ないだろう。
 狂介は大きく首を振った。
 気が付けば彼を取り巻く空気がまた大きく変貌を遂げている。うっすらとモヤが掛かかったような寒々とした冬の夜空にポツリと細長い月が傾いている。ふっと廊下に広がる吐息は黒い影のようで、その肌を刺すような冷気に剥き出しの腕を擦った狂介は、この夜の校舎において、点の移動ではなく点の固定こそが時間の変化に直接作用する要素の一つであるのだろうと悟るも、今の彼にとってはそんな事実など昨日の夕食のカレーの隠し味が何であったかという程度に些細な問題であり、未だ猫なのかアルパカなのか判断が付かない木彫りの絵からまったくもって目が離せなくなっていた。
「いや」
 狂介ははたと目を見開いた。右耳を彩る白銀のピアスが微かな音を立てる。
 その仕上がりが彫刻用の角刀で掘られるような滑らかなものでないことは触れずとも明らかだった。おそらくはコンパス、ないしは縫い針、近現代の作品であるならばシャープペンシルの先で強引に掘られたものだろう。
 この事から察するに、この木彫りの絵は、およそ芸術のなんたるかを知らない、絵を描くのにHBの鉛筆以外は使用したことがない、つまりは素人の作品である可能性が高かった。彫刻刀など勉強机の三段目の棚の底にひっくり返したままその存在すらも忘れてしまうような怠惰な学生が、掃除の時間、或いは休み時間に暇潰しついでに描き、未完成のままに放っておかれた作品であろうことは想像に容易かった。
 だのに、これはいったいどういうわけか。
「まさか……」
 狂介の長い人差し指が木彫りの猫(仮)の尾から丸みを帯びた背中、月の半円を思わせる頭、香箱座りであろう胸の前を通り、隠れた手足のちょうど真上あたりに位置する、最も印象的な、より丁寧に掘られた逆三角形の目をスッと撫でた。おおよそ一筆に掘られたであろう事実は疑うまでもない。彫り目は粗く、やはり未熟である。とてもではないが、正規の技能指導を受けた痕跡も、自ら芸術を学ばんと欲する意欲も、感じられなかった。
 だのに、これはいったい──。
「黄金比……だと?」
 フィボナッチ構図。
 それは人が最も美しいと感じる比率である。
 とある夜の学舎だった。二階の教室の白い地窓の四列目の引き出の金具の側──ほんの親指大の、未熟で些細な、未完成の木彫りの猫(仮)だった。だのにその絵は、尾の先から印象的な逆三角形の目にかけて、確かな黄金比で描かれていた。
 狂介はくっと息を吐き出した。それは常に飄々とした態度の彼には珍しいことであった。
 周囲の様相はまたもその印象を変えてしまっている。今や清々しい春の日暮れに空気が柔らかく、青い空の彼方にはうっすらと白い月が浮かび上がっている──も、そんな事はもはや彼にとってはどうでもよかった。
 あの猫、いやエゾモモンガ──首の短いキリンの彫り物はいったい誰の作品であるか。
 素人同然の技術で何故黄金比のモダンアートが描けたのか。フィボナッチ構図を理解した上で何故自らを高めんとする意欲を持てなかったのか。誰の目に止まる事もない学校の片隅に何故このような作品が──。
 気が付けば教室に飛び込んでいた。
 何かヒントはないかと彼の視線が春の匂いに静かな一年A組を彷徨う。この教室に居た誰かの作品であろうと。他に絵が残されてはいまいかと。果たしてあの動物の正体は──。
 そうして彼の目に飛び込んできたのは教室正面の黒板だった。何処か懐かしい深緑色の平面が青く薄れかかった斜陽を浴びている。掠れの一つもない美しい支持体。碧い光沢を放つ黒板消し。粉受けのアルミ材が白銀に煌めいている。
 妙だと思った。
 何故これほどまでに黒板が綺麗なのか。
 季節は春であろう。校庭では桜が七分咲きに桃色の枝を垂らしてる。だが、果たしてそれが、汚れ一つない支持体の理由となり得るのか。
 狂介の足が教壇の前で止まる。新品のチョークの箱が教壇の中に並んでいる。
 おもむろに白いチョークを取り出した狂介は、その先端を深緑に滑らかな黒板に押し当てた。薄い粉がはらはらと白銀の粉受けに舞い落ちる。
「何故だ」
 未熟な若人の集まる学舎に並んだ新品のチョークの束。黄金色に美しい構図の上に描かれた未熟な絵。完全と不完全が交差した空間。
 それはここが夜の校舎であったからだろうか。
 ブラック&グレーの髑髏のタトゥーがズキンと痛んだ。永遠の時間に繋がれたままの歪さが悔しかった。
 白い粉が汗と混ざり合う。青い春の空気と呼吸が一つになる。
 手が自然と動いていった。意識が夢に溶け込んでいった。
 いいや、ただ、あるがままである。
 狂介は一心不乱に、真新しく空虚なキャンバスの上に、構図のない絵を描いていった──。
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