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最終章
モナーキー
しおりを挟む田中太郎は富士峰高校にほど近いバス停のベンチで項垂れていた。
閉ざされた正門の前には続々とパトカーが集まってきており、野次馬たちが遠巻きにその様子を眺めている。
ほんの先程まで太郎は学校の中にいた。だが、一緒にいた花子たちの目的が籠城だと分かるや否や、もうこれ以上巻き込まれては堪らないと正門の回転扉から外に飛び出したのである。回転扉はすぐに花子の手によって破壊されてしまい、以降、学校内の様子は外に伝わってきていない。花子たちを裏切る形となった手前、ラインや通話で中の状況のみを確認するような行為はためらわれ、太郎は一人途方に暮れていた。無線を片手に学校を見上げる警察官たちの表情は一様に険しく、もはや中にいる者たちの悲惨な末路以外は想像も出来ない。親友である鴨川新九郎と睦月花子、教員や同級生たち、そして夜の校舎に囚われているという哀れな者たちを想い、胸の痛みが堪えられず、その場を動けずにいたのである。
バイクの排気音がけたたましい。今や街中を走り回っていた暴走集団のほとんどが富士峰高校の周辺に集まっていた。既に数人の逮捕者が出ているようで、彼らの騒音に警察側も困り果てている様子だった。
田中太郎は唐突に立ち上がった。そうしてすぐにまたベンチに項垂れてしまう。立っては座っては、と長身の少年の行動は傍から見ても奇怪であり、野次馬として集まっていた近隣住人の数人がヒソヒソと太郎に奇異の目を向けている。
だが、それでも警察たちの視界に太郎の姿が入ることはなかった。彼らの視線の向かう先は学校を囲う重々しい壁にあったのだ。
救急隊が中に入れないという異様な事態に警察側が覚えていたのは激しい苛立ちだった。暴走族が意識のない人質を盾に学校に立て籠っているという情報は入っていた。だが、身代金等の要求があるわけではなく、そんな大それた事をする理由が分からない。先ほどから正門前で怒鳴り声を上げている臼田茂雄という高校教諭の説明も要領を得ず、捕まえた少年たちに事情を問い詰めようとも、決戦がどうのこうの、仲間を助ける云々と支離滅裂で話にならない。
なんでも“火龍炎”という暴走族の総長がこの学校の生徒であるらしい。それが理由で単に少年たちは学校に屯っているだけだろうとも考えられた。むしろ警察側の懸念は学校の造りそれ自体にあり、救急車が中に入れないという原因の根本は富士峰高校を囲む壁にあるだろうと、彼らの苛立ちはこの壁を造ったという崩壊寸前の心霊学会に向けられていた。
田中太郎はまた立ち上がった。そうしてスマホを手に取る。意を決して、睦月花子に通話を繋げたのだ。何処か間の抜けたラインの着信音を耳にすると、太郎はグッと左手を握り締めた。だが、リズミカルな着信音は一向に鳴り止まない。太郎は焦ったように奥歯を噛み締めた。パトカーのサイレンとバイクの排気音は止まらない。
もしや何かあったのでは──。
太郎ははっと顔を上げた。
いや、あの部長に限ってそれはあり得ないか──。
太郎はスマホを耳に傾けたままウロウロとバス停の周辺を歩き始めた。
「おい坊主!」
聞き慣れた声が正門前の喧騒を破って太郎の耳に届いた。あっとスマホを下ろした太郎は首のみを真横に動かした。
「いったい何があった!」
現れたのは茅色のパナマハットを被った背の高い老紳士だった。彼の背後では黒縁メガネを夏の日差しに光らせた神経質そうな男と、小柄で身軽そうな少年が不安げな表情をしている。
「し、し、師範……?」
太郎は膝から崩れ落ちそうになるのを懸命に堪えた。最も頼りになる──彼にとって──男の登場に安堵し、力が抜けてしまったのだ。
「この騒ぎはなんじゃ? おい、ヤナギの木は無事なんじゃろうな?」
「あっ……と……」
やっとスマホをポケットに仕舞った太郎は言葉を探すように学校を囲う壁を見上げた。夏の青葉が一枚、するりと有刺鉄線の間をすり抜ける。
「その……」
太郎は悔しそうに頭を掻いた。
「すんません。俺にもよく分かんなくって……」
「立て篭もるだのなんだのと先ほど暴走族の坊主が言っておったが、この騒ぎはもしやそれか?」
「あ、えっと、まぁ」
太郎は恐々といった様子で肩をすくめた。父親の怒りを恐れる息子の態である。
戸田和夫は「ふぅむ」と唸った。パナマハットのトップに手を当て、壁の向こうに聳える校舎を見上げる。そうして学校周囲の喧騒を流し見ると、白い無精髭をゆっくりと撫でた。
「ともかくも中に入らねば、か」
「あ、その……たぶん中にはもう入れないっす……」
「裏の出入り口も同様の騒ぎなのかね?」
そう首を傾げたのは徳山吾郎だった。「それは分かんねぇ」と太郎は首を振った。
「立て篭もると宣言したからには裏も押さえられとるじゃろ。警察どもがここで立ち往生しておるのを見ても分かる」
「じゃあ、やっぱり中には……」
「いいや、抜け穴がある」
「抜け穴?」
「そうじゃ。来い」
戸田和夫はそう言うと、パナマハットを片手で押さえたまま颯爽と歩き始めた。太郎を含めた三人の少年は慌ててその後を追った。
学校裏は喧騒の嵐だった。
職員駐車場付近に集まった暴走少年たちは皆異様に殺気立っており、バットを片手にバイクに乗り回し、と大騒ぎである。警察側の怒号も凄まじかったが、いかんせん人数が少ない為に少年たちの勢いに押される形となってしまい、一人二人取り押さえようとも逆に少年たちの暴走に拍車がかかるばかりで、埒が明かなかった。
「オラァ! クソガキどもォ! とっとと道を開けねぇかァ!」
「だから正門から入れっつってんべ! つーか大人が学舎に押し入ろうとしてんじゃねぇぞ!」
“火龍炎”の大野蓮也が中指を立てる。合いの手を打つように「そうだ! 警察呼ぶぞ!」と山中愛人が「愛」の字の入ったマスクを大きく膨らませた。
少年たちの総勢は五十人ほどであろうか。暴力はなるべく避けろと指示を受けていた彼らはバットを振り上げバイクの騒音を轟かせようとも警察相手に拳を握り締める行為は抑えていた。ただ昔馴染みであり、よく統率された“火龍炎”と比べて、三チームが合同したばかりの“苦獰天”は指示系統や意図疎通がスムーズではなく、警察相手に一触即発といったムードが漂っていた。
「俺たちは警察だ! 正門が壊れちまって入れねぇからそこを通せっつってんだ! 退かねぇなら全員逮捕だぞ、このクソガキどもがァ!」
「俺たちゃこの学校の生徒だぞ! だからなんか学校の……あの、教育なんちゃら法とか何とかで俺たちの権利は保障されてる筈だべ! つーか正門が壊れてんのは俺たちのせいじゃねーだろ!」
「ごちゃごちゃうるせェ! いいからとっとと……」
その時、砂を蹴るような足音と共に複数の話し声が学校側から響いてきた。数人の教師と不安げに肩を丸めた数十人の生徒が姿を現したのだ。すると、ほんの僅かな時間、喧騒が鳴りを潜める。
後ろを振り返った暴走族たちの表情は怪訝そうだった。対して警察側はやっと事態を重く捉え始めたかのように顔に影を落とした。
「……ねぇ、君たち」
警察官の一人が声を上げた。先程までとは打って変わって、優しげな声色である。
「ほら、道を開けて。彼らを通してあげなさい」
ともするとその抑えられた声には拳銃を構えた凶悪犯に向けられるような異様な緊張感が備わっていた。
その雰囲気を察してか、少年たちも一様に表情を引き締めた。自分たちが人質を盾に学校に立て籠っているという事実を思い知らされたのだ。
「おい、どうすんべ?」
大野蓮也は視線を横に動かすと、学校から外に続く唯一の石段を遮るように金属バットを斜め下に構えた。
「どうもこうもねぇよ。ここまで来たならもうやるしかねぇだろ」
山中愛人のマスクが膨らむ。他の“火龍炎”のメンバーに目配せをした彼はチラリと背後を振り返ると、手にしていた鉄パイプを力一杯駐車場のコンクリートに叩き付けた。
「おいっ……!」
その時、予想外の出来事が学校裏の日陰に訪れた。白光りする高級そうなセダンが、突然、駐車場の前に現れたのだ。
耳をつんざくようなクラクションが夏空に響き渡る。
その凄まじい音に喧騒を忘れると、皆一斉に、白いセダンを振り返った。
「なん……?」
セダンの中から一人の少女が姿を見せる。デニムのショートパンツに薄い生地のTシャツと涼しげな格好をした少女である。その黄金色の髪と青い瞳、雪のように白い肌に、警察も少年たちも困惑の表情で首を傾げてしまった。どうにも日本人ではないようだった。運転席のスーツ姿の女性もまた長い金髪をフロントガラスの先で煌めかせており、助手席の男は異様に肩が広く、座ったままでも分かるほどに背が高かった。
「んだよ……?」
「誰だ……?」
ざわざわとした騒めきが広がっていく。するとまたクラクションが鳴り響く。
静寂が訪れた。皆の視線がセダンの側の少女の瞳に、その真っ白な肌に、鮮血のように赤い唇に注がれる。
「“眠れ”」
それは高く澄み切った声だった。その美しい声に学校裏に集まっていた者たちは耳を奪われてしまった。そうして誰も彼もが少女の存在を忘れてしまう。少女の青い瞳、赤い唇、純白の肌から意識を逸らしてしまう。
気が付けば皆、夢の中だった。
薄暗い駐車場に立つ者は四人のみとなった。
「ああ、めんどくせぇ」
そう呟き、肩の広い大男は頭を掻いた。スーツ姿の女性がいそいそと彼の襟元のヨレを直す。
「どうせあのジジイの仕業だろ」
ヤナギの青葉が一枚、学校裏に舞い落ちた。それを踏み付けた小野寺文久は、彼にとってはちっぽけな校舎に目を細めると、三人の魔女と共に学校に足を踏み入れた。
夏の終わりを思わせるような涼しい風が白いカーテンを揺らした。空に浮かんだ白い雲の流れは穏やかである。吉田障子は自分の机でぼんやりと窓の外を眺めていた。
一年B組の教室は彼一人だけだった。部活動に励む生徒の姿はなく、校舎の静けさは異様なほどで、外からの喧騒も遠い。普段の彼であれば寂しさよりも恐ろしさからすぐに学校を退散していただろう。だが、今の彼が感じていたのは言いようのない懐かしさだった。ほんの数ヶ月前の退屈だった日々の記憶が心に温かい。あの頃に戻りたいなぁ、と障子は机に頬杖をつきながら、穏やかな夏空に千の夢を描いていた。
「障子くん!」
少女の声が背中に届いた。少し低めの真面目そうな声である。何やら懐かしい響きがした。障子はのっそりと視線を動かすと、廊下からこちらを見つめる女生徒の縁なしメガネに、あっと目を丸めた。
「宮田……先輩……?」
「こんな所で何してるの? もう皆んな避難してるよ?」
宮田風花の表情は強張っていた。怒っているようで、焦っているような。障子はオロオロと立ち上がると、困惑したようにもじもじと手をこまねいた。
「えっと……」
「あ……。も、もしかして……三原さんだったり……」
ふるふると障子の首が動く。猛獣を前にした小動物のように弱々しい。風花はほっと胸を撫で下ろすと、障子の手を掴んだ。
「障子くん、戻れたんだね」
「あ、はい……」
「良かった。でも今は喜んでばかりいられないの、早く避難しないと」
「あの……?」
「事情は後で説明するから! ほら、一緒に来て!」
先輩の風花に強く手を引かれると、障子は抵抗することなく彼女の後について走り出した。
外の喧騒が徐々に近づいてくるように感じる。前を走る風花の呼吸は荒く、その手は少し力を込めれば折れてしまいそうなほどに細い。廊下の窓は所々が開け放たれたままで、机や椅子が散乱している教室もある。階段のそばにはエナメルバックが並んでおり、やはり部活動や勉学に励む生徒たちが先程まで学校に来ていたようだった。
「あの?」
障子は小さく声を上げた。だが、聞こえてないのか、風花は走る速度を緩めない。昇降口まで来ると上履きのまま外に飛び出ようとする。障子は立ち止まるようにして少し大きめの声を出した。
「あ、あの、先輩!」
その声と力に風花は転びそうになってしまった。大人しい後輩とはいっても障子は男の子である。慌てて体勢を立て直した風花は顔を赤らめると、障子を急かすように後ろを振り返った。
「止まっちゃダメだって! 障子くん、走って!」
「な、何があったんですか? どうして誰もいないんですか?」
「後で説明してあげるから、ね? だから急いで!」
そう叫ぶと、彼を無理やり外に引っ張り出そうとする。だが、つるりと手が離れてしまった。バランスを崩した風花が昇降口の外に「ぎゃあっ」と転がり出ると、障子は慌てて彼女の元に走り寄った。
「だ、大丈夫で……」
そうして障子は言葉を失った。凄まじい喧騒が彼の全身に襲いかかったのだ。
校舎の外は別世界だった。バイクの排気音にパトカーのサイレン。鳴り響くクラクションに怒鳴り声。人の影と街の音。木々の騒めき。夏の日差し、風、土埃、汗、痛み──。
安穏とした夢の園から突如として厳しい現実世界に引き戻されたような、そんな感覚だった。
軽く眩暈がした障子は額を押さえてしまう。だがすぐに、丁子色のタイルに膝を付いた風花の呻き声に、はっと体を動かした。
「先輩、大丈夫ですか……?」
「うん……えへへ、大丈夫大丈夫!」
よっと立ち上がって見せた風花はそうニッコリと微笑んだ。その足はプルプルと震えている。彼女の膝は昇降口前のタイルに擦り切れてしまったようで、真っ赤な血に滲んでいた。
「おい、大丈夫か?」
野太い男の声が校庭側から響いてくる。顔を上げた障子はこちらに走り寄ってくる特攻服姿の金髪の大男にひぃっと息を呑んだ。彼の他にも、厳格そうな太い眉を顰めた中肉中背の男と額に包帯を巻いたマッシュルームヘアの男が迫ってきており、やはり特攻服姿である。障子は激しい恐怖心から膝を丸めてしまいそうになるも、いつも自分に優しくしてくれた先輩の風花だけはなんとしても守らねばと、彼女の前で小さく両手を広げてみせた。
「宮田、お前、足怪我してんじゃねーか? 転んだのか? 相変わらず鈍臭ぇ奴だな」
「うるさーい! ぜーんぶアンタらのせいだからね!」
風花は、障子を優しく退けるようにして前に進み出ると、イッーと歯を剥き出しにした。どうやら知り合いのようである。金髪の大男はしょげたように肩を落としてしまい、その後ろでは、額に包帯を巻いたマッシュルームヘアの男──障子はやっと彼が長谷部幸平という名の三原麗奈の同級生であることに気が付いた──と白い特攻服に身を包んだ厳格そうな男が何かを話し合っている。取り敢えずほっと胸を撫で下ろした障子は、これからどうしようかと校舎を振り返った。
「ねぇ宮田さん、どうして皆んなと一緒に外に出なかったの?」
マッシュルームヘアの男が膝を曲げている。風花の足の傷を確かめているようだ。長谷部幸平がそのまま上目遣いに風花の顔を見上げると、バッとスカートを押さえた彼女はまたイッーと歯を剥き出しにして怒鳴り声を上げた。
「私は生徒会よ? 校舎に取り残された生徒がいないかを確かめるのは当たり前のことでしょ? 案の定、一年生の教室で障子くんが一人途方に暮れてたし……てか、そもそも悪いのはアンタらじゃない! いったいどうしてくれるのよ!」
ガッーと真っ赤に染まった風花の顔は般若のようである。その怒気に障子の方が足を震わしてしまう。
幸平はやれやれと肩を落とした。そうして金髪の大男──鴨川新九郎と目配せをすると、またチラリと風花の足に視線を落とした。
「歩ける?」
「歩けますけど?」
「分かった。ごめんよ。二人を出口まで案内するからさ、もし歩けそうになかったら教えてね」
幸平はさりげない態度で風花の手に手を重ねた。その手をバッと振り払った風花はオロオロと肩を丸めた障子の手をギュッと握り締めた。
旧校舎裏のシダレヤナギが長い枝をざわりざわりと揺らしている。
学校裏の喧騒が静まっていることに彼らは気が付かなかった。
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