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最終章
常世の国
しおりを挟む戸田和夫は長い足を組んだ。狭いタクシーの助手席である。青い陽に照らされた家々が開け放たれた窓の外を過ぎ去っていく。その手前の川を少し濁った水が流されていく。
後部座席では富士峰高校生徒会書記の徳山吾郎と超自然現象研究部一年の小田信長が不安げな表情で手をこねこねとこまねいていた。
「のうお主、もうちっと急げんのか? 学校から離れて行っておるではないか?」
「アナタが急げ急げと急かすから、仕方なくこの道を選んだんでしょうに! 街の中は今朝の事件で混み合っていて全く進めませんよ!」
田畑の広がる田川家の前から山間の静かな田舎道を抜けたタクシーは、街の中心より向こうに位置する富士峰高校を目指して川沿いの道を走っていた。川は街を大きく迂回するように流れており、戸田和夫の言うとおり、目的地からは離れていっている現状にあった。ただ中心街は市役所前の選挙演説銃撃事件により通行が困難で、さらには勝手気ままに走り回る暴走族たちのせいでバイクとパトカーが入り乱れるアナーキー状態にあり、急げ急げとタクシーを飛ばすのは不可能に近かった。そのため彼らは身悶えするような焦燥感に駆られつつも、穏やかな川のせせらぎを片耳に、ぎりぎりと歯軋りせねばならない状況にあったのだ。
これはいかんぞ──。
戸田和夫は何度も足を組み直しては前に横にと視線を動かし続けた。その度に狭いタクシーがのすのすと揺れる。小太りの運転手は先ほどから仏頂面である。小田信長はリスのように肩を丸めたまま俯いており、徳山吾郎はといえば頭を掻いてはメガネを拭き、外を睨んではメガネを拭き、スマホの画面を凝視しながらメガネを拭き拭きと忙しない。
「おい、まだ繋がらんのか?」
戸田和夫はまた足を組み直すと背中を動かした。
「ダメです。どうしても繋がりません」
「学校はどうじゃ?」
「それが学校もずっと通話中で……いや、まさか何かあったんじゃ……?」
徳山吾郎は焦ったようにスマホの画面を人差し指で叩き始めた。とつとつと不快な変拍子が川の音と重なる。和夫はため息をつくと窓の外を睨んだ。民家が立ち並んではいるものの街の郊外は夏の風に静かで、パトカーのサイレンやらバイクの騒音がひどく遠い蝉の声のように切なく思えてくる。
はやる気持ちを抑えようと深く息を吐いた和夫は、青い日差しを瞼の上に、パナマハットを膝元に下ろした。
そうして今すべきことをゆっくりと頭の中で咀嚼した。川の流れる音がいやに心地良い──。
田川しょう子の語りをジッと思い出した。バイクの排気音がカワセミの鳴き声のように鮮明だ──。
老齢のヤナギの儚さに憂いた。パトカーのサイレンが薄れていく──。
運命に翻弄されていく者たちを想った。バイクの騒音が川のせせらぎを呑み込んでいく──。
「なんじゃ?」
和夫は眉を顰めた。まるで祭囃子の太鼓のようにバイクの排気音が膨れ上がっていったのだ。
帽子を深く被り直した和夫は窓の外にヒョイと顔を出した。すると赤い線が目の前を横切る。それは赤と黒の特攻服を身に纏ったバイクの集団だった。危うく轢かれかかった和夫よりも、慌ててバイクを回避した特攻服集団の方が驚いた様子で、そのうちの一人がムッとした表情で後ろを振り返ると、彼の額に巻かれた白い包帯に和夫は「あっ」と声を上げた。
「おいお主! あの時の小僧じゃな!」
突風が“火龍炎”の特攻服をはためかせる。集団の最後尾を走っていた長谷部幸平もまた目を丸めてしまい、前を走る仲間たちに先に行けと片手で合図すると、タクシーに沿うようにしてバイクの速度を緩めた。
「戸田さん?」
「おお戸田さんじゃ。お主ら、いったい何をしておる」
「学校に向かってます」
「富士峰高校か?」
「ええ」
「何をしに」
「立て篭もりにです」
「はあ?」
和夫は素っ頓狂な声を上げた。茅色のパナマハットが風に飛ばされそうになる。
「じゃあ、急いでるんで」
幸平はそう言って僅かに口角を上げた。何処か自嘲的な笑みである。
「おい待て! 我も乗せていけ!」
その声は届かなかった。赤と黒の特攻服は飛び散る火花のように一瞬でくの字に曲がった道の先へと走り去ってしまった。
「何なんじゃ、いったい」
戸田和夫を帽子を頭の上に押さえつけたまま、ドスンと勢いよく座席にもたれ掛かった。その隙に小太りの運転手が窓を閉めてしまう。バイクの排気音が遠ざかっていくと、走り去る前に幸平が見せた表情を思い出しながら、和夫はまた深く息を吐き出した。
獰猛な火龍の咆哮が青空を穿つ。
凶暴なバイクの排気音が白いカラスに牙を剥く。
富士峰高校の周辺は想像よりも静かだった。正門前の小道にも学校の裏へと続く坂道にも人が集まってはいたが、どれもチラホラとしたもので、警察の姿はほとんど見られない。それでも正門前に停まったパトカーの存在は気になってしまい、長谷部幸平は他の仲間と共に坂道を下っていった。気が付けばブンブンと唸るガソリンの爆発音が学校の周囲で重なり合っている。どうやら警察よりも先にこの街のトップを争う二つの暴走チームが集まってきたようだ。
近隣住民の不穏な視線を背中に感じつつ、校舎裏の駐車場にバイクを停めた幸平は重々しいコンクリートの壁を見上げた。正門前と比べて校舎裏近辺は海抜が数メートル低くなっており、学校を平面に支えるための擁壁がそのまま城壁の役割を果たしていた。さらに壁の上にはテニスコートを囲うような小高いフェンスがズンと聳えており、駐車場から学校に上がれる階段はただの一つだけだった。それもこれも生徒の安全を守るためだろうか。随分とまぁ利便性の悪い作りである、と幸平は改めて自身の通う学校の異質さに眉を顰めながら、憮然とした表情でコンクリートの階段を上がっていった。彼と共にやってきた“火龍炎”のメンバーもその後に続く。ただ、集まってきた暴走集団の大半は未だにバイクを降りる素振りすら見せず、金と赤の刺繍に眩しい“苦獰天”のメンバーなどは敵意剥き出しの表情で、幸平たちに向かって中指を立てる者もあった。“火龍炎”と“苦獰天”の決戦はつい先日のことで、今この時すらも激しい抗争の真っ只中にあると言えたのだ。
幸平は胸を渦巻く不安に吐き気を覚えた。それでも足だけは止めなかった。
学校は異様に静まり返っている。
高い壁の内側にあるからだろうか、街の喧騒は山の向こうを照らす遠雷のようで、世界から切り離された常世の国を連想してしまう。幸平は不安と緊張が入り混じったような面持ちでスマホを取り出すと、彼らをこの場に召集した張本人である“インフェルノ”の清水狂介に通話を繋げた。
「……狂介? 着いたけど?」
「──正門の内側だ。急げ」
清水狂介はすぐに通話を切ってしまった。幸平は思わず舌を打ち鳴らしてしまう。すると彼の真横を歩いていた大野蓮也が気まずそうにパープルピンクの髪を掻いた。
旧校舎裏に回ると──旧校舎裏と呼ばれながらも実際には正門側にある──老齢なヤナギの青葉が目に映るとともに聞き慣れた男のがなり声が響いてきた。どうやら世界史の臼田茂雄と誰かが言い争いになっているようだ。幸平たちはその声のする方向に歩みを進めていった。
「狂介!」
無数の人影が視界に入ると、幸平は溜まった不満を吐き出すような鋭い声を上げた。その表情に、正門前の石畳に立ち竦んでいた生徒たちのみでなく、他の“火龍炎”のメンバーたちまでもがギョッと肩を縮こめてしまう。だが、とうの清水狂介の姿は見当たらず、代わりに彼は、唇を固く結んだ野洲孝之助の純白の特攻服を見た。
「あっちだ」
孝之助の親指が背後に向けられる。そちら側には門扉へと続く車用の道があり、よく手入れされた生垣が並んでいる。臼田勝郎の声は生垣の向こうにあった。幸平は肩を怒らせると、右腕に髑髏のタトゥーを入れた長身の男に向かって、のしのしと足を速めていった。
「狂介!」
「遅いぞ」
清水狂介の第一声はため息に近かった。ただその表情は普段通り平然としている。幸平は何とか感情を抑えようと深く息を吐いた。
「……で、いったい何なのさ?」
次々と浮かび上がってくる言葉を一つにまとめるのは難しい。とりあえず幸平は首を傾げてみせた。
車用の道の前にも人が集まっていた。頬を真っ赤に上気させた臼田勝郎が他の教員たちに野太い声をぶつけている。門扉の手前では睦月花子が細身の警官の首根っこを押さえており、見るからに屈強そうな警官が彼女の足元に倒れている。門扉の制御室前には白目を剥いた数学教諭の姿があり、その異様な光景に幸平は改めて心臓を掴まれるような不安感に駆られた。
「ここに籠城する。お前たちは学校裏の階段前を守ってくれ」
狂介はそう言うと、花子に向かって人差し指を向け、そうして首を切る仕草をした。押さえ付けている警官を始末しろという意味だろうか。花子もまた幸平と同じように眉を顰めると、必死の抵抗を試みる細身の警官をズルズルと引きずりながら、狂介の元に歩み寄っていった。
「あのさ狂介、一ついいかな?」
幸平は努めて平静な声を出した。ただ、呼吸の乱れは治まらない。狂介は首を動かすと「何だ?」と長い腕を下ろした。
「籠城なんて不可……いや、そもそもどうして籠城なのかなって。いったいどんな意味があるって言うんだい?」
「意識不明の者たちが三人いる」
「うん?」
「その者たちの生命を守ることが最大の目的だ」
その言葉に、彼の背後にいた臼田和夫は大きく顎を動かした。他の教員たちも事情は分かっているのか、苦虫を噛み潰したような複雑な表情をしている。
「それって、いわゆるヤナギの霊がどうとかっていうアレのこと?」
「そうだ。その三人はヤナギの霊に魂を囚われてしまっている。この学校から肉体を出してしまえば尊い三つの魂が永遠に帰らぬものとなってしまう。それだけは何としても阻止せねばならないんだ」
やけに大きな声だった。説明くさい口調だった。まるで背後にいる教員たちに言い聞かせているかのような。
大野蓮也を含む他の“火龍炎”のメンバーたちが不満げに唸り始める。ざわざわとした教員たちの騒めきが広がっていく。幸平と花子は不審そうに眉を顰めたままで、そんな二人が声を出すよりも先に、花子に首根っこを掴まれていた細身の警官がひどく情けない声を出した。
「は……離しなさーい! こんな……こ、このままではお前たち、国に反するテロリストとされてしまうぞー!」
教員たちの頬がサッと青ざめる。幸平も同様である。ただ狂介は変わらず飄々とした態度で、花子もまた「はん」と鼻から息を吐き出した。
「ねぇ佐々木? アンタ、トロッコ問題って知ってる?」
「本官を佐々木と呼び捨てにすなー!」
「三人を救うために一人を犠牲にするってアレよ。ねぇ、もちろん知ってるでしょ?」
「知っ……! ええっと、十人を救う為じゃなかったっけ……?」
富士峰警察署巡査、佐々木小太郎はゴクリと唾を飲み込んだ。無情な鬼の吐息を肌に感じたのだ。花子は囁くような調子で小太郎の耳元にふっと息を吹きかけた。
「アンタ一人の犠牲で三人の命が助けられるの。もしそうだとしたら、当然そうすべきだと思わない?」
「た、確か十人だったような……? 一人と三人だと犠牲が……?」
「男でしょ。ほーらさっさと覚悟決めて、ゆっくりと深呼吸なさい」
「ちょ……! ほ、本官だけでなく君たちも犠牲にっ……!」
うっと小太郎の目が白くなる。深く息を吸ったタイミングで胸を押され、意識を失ったのだ。
小太郎を地面に転がした花子はチラリと門扉の前を振り返ると、ひどく警戒したような目付きで狂介の顔を睨み上げた。
「なーに企んでんのよ、アンタ」
「何も。俺はシンプルな男だ」
狂介はそう言って、ブラック&グレーの髑髏のタトゥーを校舎に向けた。
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