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最終章
ノーリミット
しおりを挟むそれはあたかも死の気配を察したカラスの群れが大地に降り立つように、老齢のヤナギの揺れる富士峰高校の正門前には警官が集まっていた。飛び散る血が如きパトカーの赤色灯が騒がしい。飛び交う蝿が如き野次馬共の含み声が騒がしい。
正門から少し離れた歩道の小脇にバイクを停めた清水狂介は、学校を囲むようにして聳えるおよそ二メートルと数十センチのブロック塀を仰ぎ見た。塀の上には懇切丁寧に有刺鉄線が張り巡らされており、外から中の様子は確認出来ない。いったいこの城壁の向こうで何が起こっているのか。彼に代わるように右腕のブラック&グレーの髑髏のタトゥーが周囲の様子を窺っている。
パトカーの赤いランプと重なるように救急車の白いサイレンが遠くの空から響いてくる。“苦獰天”の早瀬竜司が夏空に黒光りするバイクを狂介のすぐ側にドリフトさせると、彼の背中にしがみ付いていた田中太郎はやっと呼吸を深くした。睦月花子は涼やかな表情で、狂介のバイクからヒョイと飛び降りると肩の筋肉を伸ばした。吉田障子のみがいつまでもバイクの上でフラフラと目を回している。
突如として現れた二台のバイクに対して野次馬の視線は冷ややかだった。ヒソヒソと声を忍ばせ、そうしてすぐにまた正門の向こうに意識を向けてしまう。
ただ、白いカラスの群れは腐臭漂う餌場に現れた若者たちを無視しなかった。真面目そうな一人の警官がパトカーの無線を手に取ると、もう一人の屈強そうな警官が花子たちの元に歩み寄ってくる。泣く子も黙るような強面で、歴戦の猛者を思わせる鋭い眼光をしており、青い制服がはち切れそうなほどに手足が膨れ上がっている。スクエアメガネを鼻の上でズラした田中太郎などは慌てて下を向いてしまい、いつまでも巻き込まれるばかりの吉田障子はといえば端から顔すら上げられていない。ただ、暴走集団“苦獰天”のリーダー格である早瀬竜司はたとえ片腕が折れていようとも決して視線を外すことなくむしろ好戦的なくらいであり、そして超人とでも呼ばれるべき鋼の肉体を持つ睦月花子は指の骨をボキボキと既に臨戦態勢だった。
「じゃあ任せたぞ」
凛とした男の声が花子と竜司のうなじを撫でる。「ああん?」と振り返った花子は学校の裏に向かって歩いていく清水狂介と彼に連れられていく吉田障子の後ろ姿を見た。足が速いのか行動が早いのか、既に二人は怒鳴らねば声の届かぬ距離にいた。
「ちょっ、コラッ!」
「おめぇら、ちょっと待てや」
その声は随分と威圧的だった。隙を見せずとも硬いクチバシを脳天に振り下ろしてきそうなほどに、白いカラスは苛立っているようだった。
「おめぇだよ。おいコラ暴走族」
「あ?」
「その服装、おめぇそれ“苦獰天”とかいうチームのもんだろ」
「だったらなんだよ」
「こんなとこで何してんだ」
「テメェらには関係ねぇよ。失せろ」
相手が誰であろうとも早瀬竜司は変わらず尖っていた。花子もまた青黒い血管を腕に浮かばせている──勝手に行ってしまった清水狂介に対する怒りで──。強面の警官がさらに一歩花子たちに近付くと、学校前の歩道にピンと張り詰めた緊張が走った。一触即発である。一刻も早くこの餌場から離れねばと田中太郎の足がズリズリ後ろに下がっていく。
「クソガキどもが」
ただどうにも警官は油断しているようだった。職業柄、不遜な輩に対して声を低くしようとも、相手は少年少女。片腕が折れているらしい早瀬竜司と、見た目は普通の少女である睦月花子、そして二人の後ろで青ざめている田中太郎はといえば背丈は彼よりも高いようだったが、身体の線は細く、その落ち着いた髪型とメガネから単なる真面目な学生にしか見えなかった。
右腕に髑髏のタトゥーを入れた長身の青年の動向が気に掛かっていた。だが、気が付けばとうに学校沿いの道の彼方に姿を消してしまっており、その後を追う気にはならなかった。それほどまでに手一杯の状態にあったのだ。連続する残虐非道な事件だけではない。心道霊法学会による不祥事の数々、学生四名を含む行方不明者たちの発見、ひと月ほど続く暴走族たちの抗争、そして今回の通報である。なんでも長い髪をした女学生と白髪の老女、リコーダーを握り締めた成人男性が富士峰高校の昇降口前で意識を失っていたそうだ。そのうちの二人は集団失踪事件の被害者であるとのこと。さらに成人男性は心道霊法学会の幹部だという。たび重なる学会の不祥事と未だ不明な点が多い集団失踪事件から、この通報が軽々しく扱えるような事柄ではないと判断した警察組織は、少なからぬ人員を両手で押し出すような形で富士峰高校に白いカラスの群れを送り込んだのだった。最悪の事件はまだ終わっていないと──。
たとえそれが暴走族であろうとも、ただ物見遊山で集まってきただけであろう不良少年たちの相手をしている暇など、今の彼らにはなかったのだ。
「おうゴラァッガキども! こちとら遊びじゃねぇんだよ! とっとと失せねぇと逮捕しちまうぞおお!」
強面の警官が胸板を厚く膨らませる。その大地を揺るがすような怒号に集まっていた近隣住民たちは震え上がる。
抜き足差し足でジリジリと後ろに下がっていた田中太郎はすぐさまピンッと背筋を伸ばした。早瀬竜司はといえば平然とした態度で挑むようにその警官を睨み続けている。そんな中でただ一人、花子のみが何やら不審げに、正門より東側に位置する車用の門扉に目を細めていた。
「す、すいませんでした! 俺たちすぐに失せるんで──ほら部長も謝れっつの! ほんとマジですいませんでした!」
そう平身低頭に腰を折り曲げる田中太郎をよそに花子の首が横に倒れていく。
校庭への車の通り道となる鉄製の門扉はコンクリート塀と同じくいかにも頑丈な造りで、鎧戸式の観音開き仕様となっており、外から中の様子は伺えなかった。自動式の為に取っ手はなく、滅多に開くことがない鉄の扉は学校正面にありながらもその存在すら忘れられがちで、花子自身、門扉に意識を向けたのはこれが初めてだった。
「おい部長! 早く行っ」
「うっさいっつの」
花子の鉄拳が腰を低くした田中太郎の言葉を遮る。その視線はやはり門扉に向けられたままである。まるで風に靡くカーテンのように、開いたり閉じたりと先ほどから鉄製の扉が僅かに動いていたのだ。やがて少しづつ内側に開いていくと、ジワリとした夏の暑さをカラリと熱するような野太い男の声が花子たちの耳に届いた。それはよく聞き知った教師の怒声だった。
「おい待たんかァ! 開けるなと言ってるんだ!」
「いい加減にしてください! これ以上の妨害行為は許されませんよ!」
「連れ出してはいかんのだ! 外に出せば彼女たちが死んでしまう!」
「何を訳の分からないことを! もうすぐ救急車が来ますから、それまで大人しくしていてください!」
門扉が完全に開き切ると中の様子が鮮明となった。
低い垣根に挟まれた短い車道の先で教員と生徒たちが不安げに立ち竦んでいる。門扉の操作は数学教諭である大森三雄がしているようで、扉の真横に立つ三雄もまた他の教員たちと同じように青ざめている。そして、門扉のすぐ内側では世界史の臼田茂雄が四角い顔を真っ赤に上気させており、どうやら彼は若い警察官と取っ組み合いになっているようだった。
「なんだぁ? 佐々木ぃ、どうした?」
仁王立ちしていた警官の視線が門扉の内側に向けられる。同時に花子の足が動いた。スタスタと門扉を通り抜けると、ギロリと校舎を睨み上げる。
「おい! 勝手に動くんじゃねぇ!」
「部長!」
強面の警官が駆け出すと、その後を追うように田中太郎もまた門扉の中へと飛び込んでいった。
早瀬竜司がただ一人、正門前の歩道に取り残される形となった。それでも彼は動き出さなかった。何やら不満げな表情で、左手のスマホをジッと見下ろしている。つい今しがた校舎裏に姿を消した清水狂介から連絡が来ていたのだ。面倒くさそうに舌打ちした彼はチラリと門扉の内側の喧騒を睨むとスマホに耳を傾けた。
「んだよカス野郎」
「──“苦獰天”をここに集めろ」
「あ?」
「──山田春雄と野洲孝之助に連絡しろ。富士峰高校にチームを集めろと」
「いちいち意味分かんねーんだよクソカス髑髏ゴラァ!」
「──籠城する」
「はあ?」
「──ここは良い城だ」
「いや、おい……まさか、警察相手に立て篭もるつもりか?」
「──ああ」
「お前……」
「──急げ」
「おい!」
一方的に通話が切れられる。竜司はまた「チィッ」と舌を打ち鳴らすと、目の前のコンクリート塀に回し蹴りを入れた。だが、壁はびくともしない。重々しい有刺鉄線の先に陰鬱な校舎が聳え立っている。さらにその先には青々とした夏の空が──。
ため息をついた竜司は、スマホの画面を片手でタップすると、騒がしい学校に向かって足を踏み出した。
「おい! 待たんかァ!」
臼田茂雄は声を荒げた。そんな彼の大柄な体に若い警官が必死になってしがみ付いている。
「お願いですから暴れないでください!」
「開けるなと言ってるんだ!」
「救急車が来ます! 道を開けてください!」
「佐々木ぃ、こりゃいったい何の騒ぎだ」
門扉の内側に立った強面の警官は声を低くした。それほど背は高くないが、ごろつき風の厳つい顔付きをしており、体格は力士のようである。佐々木と呼ばれた若い警官は慌てて背筋を伸ばすと、同じく強面の臼田茂雄を横目にひどく情けない声を出した。
「いえ、その……どうしてもここを開けるなと……先ほどからこちらの先生が暴れておりまして……」
「開けるなだぁ?」
「はい……」
「何でだよ」
「その……」
「ああ?」
「意識不明者三名を外に出すなと……」
若い警官の声が小さくなっていく。まるで部活コーチに詰問される生徒の様である。強面の警官は軽く肩を落とすと、のそりと上体を前に倒した。そうして猪が突進するような勢いで臼田茂雄の腰に腕を回した。そのまま生垣の際に巨漢を投げ飛ばした警官は、軽々と茂雄を地面に押さえ付けてしまった。
「なぁ先生さんよぉ、暴れちゃあいかんぜ」
「うぐぐっ……。は、離さんか……!」
「アンタ、公務執行妨害で逮捕だな」
臼田茂雄は猛牛のような唸り声を上げた。だが、肩関節が完全に極められてしまっており、もはや抵抗できる状態にない。救急車のサイレンが近づいてくると、集まっていた野次馬たちが道を開け始める。
田中太郎の頬を大粒の汗が伝った。
先ほどの臼田の怒鳴り声と若い警察官の言葉から、この学校で今何が起こっているのか、大方の予想が付いたのだ。夜の校舎に導かれてしまった哀れな者たちが三名いるのだと、彼は止まらない汗の冷たさに身震いした。
夜の校舎は魂のみが彷徨うという精神空間であり、魂の抜けた肉体が学校の敷地外に出ると死んでしまうという。それが真実か否かは分からなかったが、彼は実際に夜の校舎を二度彷徨っており、その異常性は十分に理解していた。
「お、おい部長、どうする気だ……?」
睦月花子は先ほどから釈然としない様子で腕を組んでいた。その視線は生垣の向こうのあらぬ方向に向けらている。
田中太郎は額の汗をゴシゴシと拭った。
もしそれが真実であったならば、救急車を学校内に通してしまうことで意識不明だという三名は永遠に帰らぬ人となってしまうかもしれない。だが、確証はなく、夜の校舎とはまた別の理由で意識不明となっている可能性も十分にあり得た。
もしそれが間違いであったならば、意識不明だという三名は一刻も早く病院に連れて行くべきだろう。事故や病気の可能性だってあるのだ。意識不明者の救急搬送などは通常であれば議論の余地すらない。
だが、三名というのが気になった。ここは学舎である。三人が同時に意識不明となるなど早々に起こり得るだろうか。
夜の校舎は彼にとって昨日の今日の事である。とてもではないが偶然とは思えず、そして確証がない分、魂のみで夜の校舎を彷徨っているであろう者たちの、その空となった肉体を学校の外に出すという行為は絶対に想像したくなかった。肉体を失った魂の末路など考えるだけで背筋が凍り付いてしまいそうだった。
「おい部長……!」
睦月花子は何処までも落ち着いた表情をしていた。今にも大きく口を開け、夏空に向かって腕を伸ばし、そして「ふあぁ」と間の抜けた欠伸をしてしまいそうなほどに、彼女は普段通りのどっしりとした姿勢で地に足を付けていた。野次馬たちの視線も、警官たちの声も、臼田勝郎の涙も、田中太郎の汗も、彼女の道の妨げにはならないようだ。ただ花子は解せないといった顔で、生垣の向こうを歩く清水狂介の右腕のタトゥーに首を傾げていた。
「なーにやってんのよ、アイツ」
校舎裏から颯爽と姿を現したかと思えば、スマホを片手にうろうろとコンクリート塀の内側を見て回り、校舎の手前で青い顔をした生徒たち数人に声を掛けたかと思えば、背の低い生垣に沿ってこちらに向かって歩いてくる。吉田障子の姿は何処にもない。清水狂介もまた普段通りの落ち着いた表情で、ただ少しだけ急ぎ足のようだった。何食わぬ顔で生垣を跨いだ彼は、守衛所とはとても呼べないような簡素な作りとなっている門扉の制御装置前で足を止めると、電話ボックスほどの大きさの透明な箱の中で肩を丸めていた大森三雄を冷たく見下ろした。
救急車のサイレンが迫ってくる。それを追うようにバイクの排気音が轟いてくる。
「遅いぞ」
涼やかな狂介の声が花子の耳に届いた。花子の隣では早瀬竜司が左手の中指を立てている。田中太郎はオロオロとするばかりで、野次馬たちも生徒たちも教師たちも、ただただ成り行きを見守るばかりだった。臼田勝郎を押さえ付けていた強面の警官のみがひどく険しい表情で、隣に立つ若い警官に目配せをしている。
花子は眉を顰めた。いったい彼は何をしているのか、と。
怪訝そうに腰に手を当て、そう問いかけようとしたその時、清水狂介の長い腕が大蛇のように動いた。軽い動作で大森三雄の顎に掌底を入れると、同時に、制御装置に拳を振り下ろしたのだ。
時が止まったような静寂が訪れる。
鉄の門扉が外に向かって閉まっていく。
救急車のサイレンが小さくなっていく。
やっと田中太郎が息を呑もうと小さく喉を鳴らした頃にはすでに、簡素な制御室の一歩手前にまで強面の警官の野太い足が踏み出されていた。大地を震わすような怒号が響き渡る。だが、清水狂介は変わらず飄々とした態度で、警官に対して身構える素振りすら見せていない。避けるつもりはないという事だろうか。
花子の動きはまるで寝起きのヒョウだった。やれやれと息を吐き、首の骨を軽く鳴らした彼女は肩を伸ばすようにしてズンと足を前に出すと、強面の警官の背中に腕を伸ばした。そうして片手で腰のベルトを掴むと、力士のように逞しい彼の体を手前に引き寄せてしまう。警官は愕然として息を止めてしまった。後ろを振り返ることすら出来なかった。
「で、どーすんのよ?」
花子が問う。
「急げ」
清水狂介はそう答えると、紅茶を片手に午後の空を見上げる貴公子のように、ゆったりと校舎を見上げた。
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