王子の苦悩

忍野木しか

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最終章

滅亡の影

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 水口誠也は息を震わせていた。不安げに辺りを見渡し、生徒会室の扉からそっと廊下の様子を窺う。
 毛並みの滑らかな絨毯に覆われた生徒会室は夜の静寂にひんやりと涼しかった。薄い月明かりが部屋全体をぼんやりと照らしている。対して四階の廊下は黄色い光線に眩しい。廊下の先には机が縦に積まれており、手前からそれを照らすように、三つの椅子に並べられた懐中電灯の光がバリケードと呼ぶにはあまりにも頼りない机の山に向けられていた。
「ねぇ、あんなので本当に大丈夫なの?」
「どうかな」
「どうかなって……」
「ライト、切れたら新しいのと変えてね。永遠に切れないと思うけど」
 三原麗奈は視線を上げなかった。暗い壁際でひたすらに足元の絨毯を見つめている。青いジャージから覗く肌が痛々しい。血に汚れたアッシュブラウンの髪はところどころが黒い玉模様となっている。その声に生気はなく、ただ先ほどよりも口調ははっきりとしている。
 気まずさと哀れみと恐怖心からそれ以上の質問は憚られ、水口誠也はおもむろにリコーダーを持ち上げると、うろうろと生徒会室の中を歩き始めた。それを止める者は今この場にいない。
「あのさ……」
 暫くして、沈黙の方の気まずさに耐えかねた水口誠也はリコーダーを下ろした。かなりの時間が経ったようにも思えたが、三原麗奈は変わらず体操座りの姿勢でじっと俯いている。
「あんな簡単な仕掛けで本当にっ……」
「たっだいまー!」
 陰鬱な闇を蹴り飛ばす眩い少女の声が四階の校舎に響き渡った。姫宮玲華の声である。同時に、廊下のバリケードがトランプタワーのように脆く崩れ去る。驚きのあまり「ぎゃあ!」と悲鳴を上げ、リコーダーを放り投げた水口誠也の様は草むらを飛び跳ねる野ネズミのようで、対して三原麗奈はウサギのように静かに俯いたままだった。ただ彼女の両眼は空色の光に薄まっている。
「あーもう! これマジ邪魔!」
 玲華は頬を膨らませながら廊下に倒れた机の山を跨いでいった。そんな彼女の後ろで白い影がゆらりゆらりと揺らめいている。ゆっくりとバリケードの残骸を縫い歩いていく姫宮詩乃の両眼は三原麗奈と同じように冬空の光に薄まっていた。
「直しといて」
 深紅の絨毯に麗奈の声が落ちる。
「つ、机の話……?」
「うん」
 誠也は肩を落とした。リコーダーを拾い上げると軽く首を鳴らし、深く息を吐き出し、太陽の煌めきを唇に宿した魔女と入れ替わるようにして、夜の廊下に飛び出していく。そうして積み木のように机を重ねていくと、脱兎が如く身を翻し、白い影を揺らめかせる老婆よりも先に生徒会室に舞い戻るのだった。
「手紙置いてきたよー! ちゃんと一年A組に!」
「何年何月の?」
「平成二十一年の四月じゃよ。大野木詩織という生徒の机に放っておいたぞ」
「そう……」
 麗奈の視線が少し上がった。
「ありがと」
 ほっとしているようだった。ただ、黒く焼け爛れた左頬のせいで、どうにも厳しく哀しげな表情に見えてしまう。
「して、大野木詩織とはいったい誰じゃ」
 姫宮詩乃はのそりとした動作で顎に手を当てると、懐中電灯に照らされた廊下のバリケードを見据え、次いで足元に視線を落とした。まるで三階の様子が見えているかのように、巫女の瞳がゆらゆらと絨毯の上を泳いでいく。
「紗夜のお姉ちゃん」
「紗夜とは誰じゃ」
「五人目のヤナギの霊」
 老婆の視線が止まる。獲物を捉える鷹が如し。空色の瞳を細めた老婆は白い髪を斜めに揺らすと、壁際で項垂れる少女のアッシュブラウンの髪をじっと見下ろした。
「あの娘の名は大野木紗夜か。なるほどあの人形のような顔をした娘、アレは確かにヤナギの霊であった。が、切れ掛かってもおるようじゃった。もしや先ほどの手紙と何か関係があるのか」
「あれは紗夜を救う手紙。切れ掛かってたのは一度死んだから──冬の川で──だから、たぶんそのせい……」
 傷だらけの巫女は淡々とした口調で、絨毯の上に視線を落としたまま、ゆっくりと言葉を繋いでいった。
「死ねば切れるのか。むしろ繋がりが強うなると思うたが」
「普通はね。肉体を失ったヤナギの霊はそれでもヤナギの木と精神が繋がったままだから。……でも、紗夜の場合は特別だった。器がまだ完全には壊れていない、いわゆる凍死の場合、魂は肉体に長く留まることが出来る」
「ふむ」
 老婆の視線が動く。壁際の棚に並んだトロフィーが仄暗い月の光にふわりと照らされている。
「じゃが長くは保たんじゃろ」
「うん、実際には仮死状態だったのかも……。それでもヤナギの木は紗夜の死を悟ったはず。肉体を失ったヤナギの霊の向かう先はここ、夜の校舎──ヤナギの霊はヤナギの木と精神が繋がってるから。でも魂が本能で求めるものは肉体だから、だから本来であればこの夜の校舎へと誘われる筈だった紗夜の魂は、まだ完全には壊れていない己の肉体に必死にしがみ付いた──どれだけ精神が破壊されようとも。やがて冬の川から助け出され、仮死状態だった肉体が奇跡的に復活すると、紗夜は紗夜として再びこの世に息を吹き返した。生まれ落ちた際に繋げられた鎖を断ち切った状態で……」
「仮死状態に落とせばヤナギの木との精神を断ち切れるのか」
「そう思ってた。でも紗夜、また、繋がってて……」
「可能性はあると」
「うん……」
 麗奈は言葉を止めた。疲れ切ったように空色の瞳を伏せてしまう。
「吉田真智子は救えぬか」
 その問いにアッシュブラウンの髪が揺れる。瞳を閉じ、膝を抱えた麗奈は、重く曇ったような吐息で深紅の絨毯を湿らせた。
「救えない。吉田真智子は殺さなくちゃならない」
「どうして!」
 そう叫んだのは玲華だった。赤い唇が鮮血のように煌めいている。
 麗奈は視線を上げると、空色の瞳で魔女の顔を冷たく見据えた。
「大人だから」
 老婆の瞳が揺れる。まるで壁の向こうのそのまた向こうが見えているかのように。あらぬ方向に鋭い視線を送りながら、老婆は微かに首を倒した。
「紗夜を救える可能性があったのは、紗夜の精神がまだ形成段階にあったから。紗夜は中学生だった。でも吉田真智子は救えない。だってもう大人だから。あの化け物は必ず始末しなくちゃならない」
「殺さねばどうなる」
 トロフィーの飾られた棚から、壁ぎわの段ボール箱、深紅の絨毯の端、そして廊下の奥へと、老婆の視線が動いていく。姫宮詩乃は落ち着いた態度で、その表情はいつも通り般若が如く厳しい。
「滅亡する」
 そう呟き、麗奈は浅く息を吐き出した。
「人類が」
 老婆の空色の目が見開かれる。鷹の視線が若い巫女の髪を見据える。玲華はキョトンとした表情で眉を顰めており、誠也はもう訳が分からないといった様子で頭を抱えていた。
「新種であることと関係があるのか?」
「うん」
「人類滅亡などと、想像もつかんが……」
「ヤナギの木を先に燃やした場合だけどね」
 麗奈は窓を見上げた。真新しい絨毯と同じように生徒会室の窓は滑らかで、夜空に浮かんだ星々の瞬きが美しい。また浅く息を吐き出し、グッと膝を抱えると、麗奈はひどく焦燥したように下唇を噛んだ。そうして左の頬に薬指を当てる。
「ヤナギの霊は肉体の死とともに夜の校舎に囚われる。それは彼女たちの精神がヤナギの木と繋がってしまっているから」
「知っておる。それと人類滅亡にいったい何の関係がある」
「ねぇお婆ちゃん、ヤナギの木の精神についてさ、いったいどう思ってる」
「どう思ってるとは」
「人との違い」
「広大さの話か」
「器に収まってないよね」
 その言葉に、姫宮詩乃は表情を変えた。冬空が雲に覆われていくように、老齢な巫女の瞳が曇っていく。
「アレは新種──精神が、魂が人とは違う。だからこそ吉田真智子は化け物なの」
 空気が震えた。静寂の校舎においてである。
 バリケード手前の椅子に置かれた懐中電灯の一つが真下に落ちると、水口誠也はまた野ネズミのようにピョンと真上に飛び上がった。木造の校舎を踏み鳴らすような微かな足音がひっそりと近づいてくる。
「肉体を失った人は青い海に溺れる。巫女もまた然り。魔女は溺れないけれど、その魂が求めるものは新たな肉体であり、精神が出来上がっていない赤子であり、魔女はただ次の肉体に生まれ変われるのみ。でも……」
「ヤナギの木は精神を外に伸ばすことが出来る」
「そう。赤子に限らず、子供から大人、老人にまで……。だからこそ私たちをこの夜の校舎へと導くことが出来た」
「吉田真智子も同様か」
 巫女の瞳が鋭く細まっていく。
「ヤナギの霊は死後、ヤナギの木という器に還る。でも、もしその器が壊れてしまっていたら……? 還る場所を失った吉田真智子の魂はどうなるの……?」
「溺れはせん、か」
「ヤナギの霊は他人と精神を繋げることが出来る。大人から子供まで、赤子に限らず、精神の形成段階に関わらず、一人二人と、一から百、千を超えて、万を超えて、器を越えて、空間を越えて、時代を越えて、精神が届く範囲で、魂が動ける範囲で、他人の精神を、肉体を、魂を蹂躙することが出来る。人類にそれを止める術はない。だって魂だから。影に触れることなんて出来ないから」
 左の頬を一雫の血が伝った。麗奈の表情は悲しそうで、悔しそうで、怒っているようで、焦っているようで──まだ若い巫女は涙を流していた。
「化け物なの……。人も巫女も魔女も、誰も、アレには手が出せないの……。アレは影……。新種……。怨霊……。魂のみの怪物となった吉田真智子には誰も太刀打ち出来ないの……。だからそうなる前に吉田真智子を殺さなきゃならないの……」
「そうか」
 姫宮詩乃は静かに頷いた。巫女が恐れるものは未知であり、己の役割を知った老婆は泰然として、空色の瞳で夜の空を見上げている。
「じゃが結局、それがヤナギの木を燃やす前であろうと後であろうと、結果は同じではあるまいか。たとえ夜の校舎に囚われていようとも、ヤナギの木という器の消失とともにヤナギの霊はこの世に飛び出し、そうして誰も手が出せぬ怨霊となり果て、人類を滅亡へと導くのではあるまいか」
「そうかもね。でも希望はある。吉田真智子が滅亡の影となりえるのは、おそらく、この世においてのみ──あの世からこの世の肉体にまで精神を伸ばすことは出来ないはずだから。この夜の校舎はこの世とあの世の狭間にある。青い海と隣り合わせに繋がってる。それに他のヤナギの霊の存在もある。肉体を失って魂のみの状態となり、この夜の校舎において山本千代子や鈴木英子、村田みどりと精神が繋がってしまえば、吉田真智子もまた記憶のみを行動原理とする亡霊と成り果て──依然として危険な存在には変わりないけれど。それでもヤナギの器の崩壊とともにあの世へと落ちてくれると思う」
 空色の光が強くなっていく。
 初めて胸の内の苦悩を他人に話すことが出来たからか、単純に言葉にすることで覚悟が定まったのか、顔を上げた若い巫女の表情には強い意志が表れていた。ただほんのりと頬が赤くなってもいる。キザキと呼ばれる影のような男の瞳を思い出してしまったのだ。あの陰気な男はいったい今何処で何をやっているのか──。何やら気恥ずかしさを覚えた麗奈は軽く頭を振った。
「吉田真智子を始末する。孤独な化け物としてこの世に生まれ落ちた哀れな魂をあの世に送ってあげる。そうしてこの夜を終わらせる。それが私の使命──」
「ふむ」
「でも、私にはもう果たせそうにない。だから今度はアナタが」
「待て」
 姫宮詩乃の瞳の光がさらに鋭く尖っていく。白い髪を月夜にぼんやりと浮かばせた老婆の表情は思わしくない。乾いた唇を結んだ老婆は何かを思案するように、その空色の瞳で生徒会室の扉の向こうを睨んだ。
「吉田真智子については分かった。じゃが、この夜の校舎については分からん」
「だからここはヤナギの木の精神空間だって」
「玲華と、それと鈴木夏子じゃったか。二人の魂がおよそ半世紀に渡ってヤナギの木を器とし、そうしてこの夜の校舎という名の精神空間が形成されていった」
「そう、だから……」
「それが何故こうも異様な、特殊な状態となり得る。器を越えた精神の広がり。複数の魂を繋ぎ留める空間。不規則な時間の流れ。記憶に整然と沿った校舎。そして、ヤナギの霊の存在」
「だからそれは……ほら、ヤナギの木って人じゃないし……。木に精神が宿るなんて異常事態じゃん。だからこんな特殊な空間が生まれちゃったとか……」
 麗奈の視線が斜め下に降りていく。深紅の絨毯に空色の瞳を向けた彼女はまた左の頬に薬指を当てた。確かに妙だと思ったのだ。とにかく焦るまいと呼吸を深くしていく。若い巫女にとって心霊学会での苦い経験はまだ記憶に新しかった。
「ただヤナギの木を燃やしたのみで、本当にこの夜が明けるのか」
「それは……」
「まだ何かあるのではないか。ワシらの知らぬ何かがこの夜に隠れておるのではないか」
「あ、あの……!」
 先ほどと同じように、水口誠也の焦ったような声が二人の会話に割って入る。
「なんじゃ?」
「何か、何か廊下から足音がっ……」
 そうして誠也の体が真上に飛び上がった。廊下に並べられていたバリケードがまたジェンガのように脆く崩れ去ったのだ。岩が雪崩れたような振動が生徒会室の絨毯を揺らす。二人の巫女が空色の瞳が廊下に向けると、同時に、そっと廊下を覗いていた玲華の赤い唇が縦に開いた。
「ああ! 大変だ!」
 そう叫ぶが否や、タッと玲華の細い足が前に動いた。廊下に散らばったバリケードの残骸が黄色い光に照らされている。その真ん中で、一人の少女が「ううっ──」と仰向けに蹲っている。全身が焼け焦げたように真っ黒な少女だった。一人目のヤナギの霊である山本千代子は、葉っぱの下で体を揺する青虫のように、机の下から何とか這い出ようともがいていた。
「千代子ちゃん、大丈夫?」
 玲華の手を借りて何とか立ち上がった千代子はすりすりと額をさすった。手も頬も制服も煤まみれで、月光を反射する黒い瞳と白い歯ばかりが闇夜に目立っている。ふにゃりと表情を崩した玲華は満面の笑みを浮かべると、千代子の頭を愛おしそうに撫で、そうしてその柔らかな頬をつんつんと突いた。
「うふふ、良かった。ああ千代子ちゃん、よしよし、痛かったね? でも大丈夫そうで何よりだよ」
「なんで……?」
 暗がりに一つの声が落ちる。壁際から黒い女生徒を凝視する若い巫女の表情は愕然としており、その隣に立つ老齢の巫女もまた怪訝そうに空色の瞳を細めている。
「お主」
 老婆の足が絨毯を踏み締める。姫宮詩乃はいつもの如く鷹のように瞳を光らせると、黒い女生徒の瞳を真上から見下ろした。そうしてゆっくりと目を見開いていく。老婆の乾いた頰が少しずつ青ざめていく。
「いや、待て……。ま、まさか……。これはいったいどういう事じゃ……?」
 声が静寂に呑まれていく。空気がひんやりと固まっていく。
 千代子は何やらムッと眉を顰めてみせると、額に手を当てたまま足元に視線を落とした。

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