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第四章
獰猛な火龍
しおりを挟む大炎が天高く巻き上がる。もはや抗えぬほどの街の炎が、さらなる爆風に隆盛を極め、その渦の中心すらも獰猛な火龍の遊び場となる。
それは数十からなるバイクの排気音だった。
色とりどりの個がそれぞれの音を喧騒の街に放り投げた。数十の集団がさらなる数十の集団と連なり、別れ、張り合い、争った。集団と集団が合流し、また、濁流に散る飛沫が如く個が集団を離れ、集団が個に鼓舞され、個が集団に押し流される。やがて数十が数百となると、その色鮮やかな鱗と空を揺るがす咆哮が、大炎に埋め尽くされた街に煌びやかな喧騒をもたらした。街を飛び交う白いカラスすらも鮮やかな喧騒の一部となる。
「クソガキどもがッ」
一台のパトカーが火龍の鱗の一枚を追跡した。それは真夏の空のように青いバイクだった。“火龍炎”山中愛人の愛車である。「愛」のマスクが風を切る。ハンドルを片手に真後ろのパトカーにバットを振り上げると、バイクは唐突に進路を変えた。排気音を唸らせながら火龍の鱗が速度を上げていく。
「で、結局何だったんだ?」
「知らんべ。とにかく走れとさ」
大野蓮也と合流すると、山中愛人は僅かに速度を落とした。
「“苦獰天”の奴らも走ってるらしいな」
「ああ、チキンレースだ」
白いカラスが前方に現れる。まるで頭の中に地図が描かれているかのように、周囲を確認することなくバイクを右に倒した愛人は細い路地を走り抜けていった。蓮也もその後に続く。
「やけにポリ公どもが騒がしいべ」
蓮也は訝しんだ。警察の追跡がいつもより雑だったのだ。どうにも連携が取れていないようで、ただ数ばかりが凄まじい。白バイの赤いライトを前方に確認すると、流石の蓮也も速度を落とした。だが、愛人は気にすることなく、白いヘルメットのつばスレスレに中指を立てながら、白バイの横を走り抜けていった。
「チキンレースだろ! ビビってんじゃねーぞ!」
愛人の声が遠ざかっていく。蓮也は呆れたように肩を落とすと、周囲の音に注意しつつ、またバイクの排気音を轟かせた。
「“苦獰天”の奴らに負けんじゃねぇぞ!」
鴨川新九郎の太い声が朝の街に響き渡る。その声に押し流されるように“火龍炎”のメンバーたちは意気揚々とバイクを走らせていった。漠然とした不安や憂いなどバイクに跨がればすぐに消えてしまうのだ。若き彼らにとって喧騒などは祭りと同義だった。
鴨川新九郎もまたバイクの排気音を轟かせた。そんな彼と並ぶように、不安げな表情が二つ。“苦獰天”の総長である野洲孝之助と“火龍炎”の参謀である長谷部幸平の顔は青ざめてさえいるようだった。
「ね、ねぇしんちゃん、これは本当に冗談では済まされないよ」
薄暗い路地裏でバイクを止めると、幸平は新九郎に歩み寄った。特攻服姿ではあったが、彼の全身は包帯まみれである。電柱の側で腕を組む野洲孝之助の表情も深刻だ。実質、今現在の“苦獰天”を鼓舞し、街を走らせていたのは、元“苦露蛆蚓”の総長である山田春雄だった。人が変わったように勇猛となった彼の声は青空によく響いた。
「冗談って何だよ?」
「後には引けないって話だよ。捕まるのはもう覚悟の上なんだね?」
「いや待てよ幸平、お前は何を言って……」
「ああ、覚悟の上だ」
野洲孝之助はそう頷くように声を絞り出した。
「破滅は当然の如く覚悟の上だ。そうさ、俺は兄貴のように、飛び散る火花が如き一瞬の閃光をこの世に走らせたくバイクに跨ったんだ。だから俺は総長となった」
白いカラスのサイレンは絶え間ない。獰猛な火龍の排気音もまた絶え間ない。ただ青い空はいつもと変わらず、静かに、悠然と街の様子を見守っている。この空模様が変わるほどの人災が起こったのは、およそ七十年前の、ただの一度きりだった。今起こっている街の喧騒など空にとってみれば普段通りの穏やかな日常の風景である。
「朝のニュースは見た。もはや破滅は免れない。ならば暴走族として最後まで暴れ回ってやろうじゃないか。なぁ長谷部幸平、お前も覚悟の上だろ?」
「僕は……」
幸平は言葉に詰まる。つい先ほどの木崎隆明による選挙演説銃撃事件は既に大々的なニュースとなっていた。ただ詳細は未だに不明なままで、死者や負傷者を含めた事件の全容が分からず、様々な情報が錯綜している。だが、やがては今回の銃撃事件と廃工場での拉致監禁暴行事件が一本線に繋げられるだろう。野洲孝之助の言う通り、破滅はもはや逃れられない鋼鉄の楔のようなものだった。
それでも──。
「僕は、僕はまだ諦めたくない」
「なんだと?」
「まだ何かある筈だ」
幸平は破滅から逃れる方法を探していた。
単純に悔しかったのだ。廃工場の件も、銃撃事件も、どちらも彼らが意図したものではなかった。たとえ圧倒的な強者の策略に巻き込まれ利用された愚かで間抜けな弱者であろうと、ゴミのように捨てられ、燃やされ、灰となる前に、最後の意地くらいは見せてやりたいと、幸平は心に燃え上がった大炎の光で黒煙に暗くなった道の先にグッと目を凝らしていた。
「なぁお前ら、さっきから破滅するだの何だのと、いったい何言ってやがんだ?」
そんな彼らの会話を遮るように、バイクのエンジン音が轟く。
「これは部長の作戦なんだよ。俺らは勝つためにバイクを走らせてんだ」
「鴨川新九郎、お前はケンカは強いが、頭の方は救いようのない愚か者のようだな。まぁ、まんまと利用された俺が言えたことでもないが……」
野洲孝之助は自嘲するように肩を落とした。純白の特攻服が砂埃に煤けている。
「ああそうさ、野洲くんの言うとおり俺は超絶頭が悪りぃ。だがよ、だからこそ俺は負けねぇんだ。だって最強の言葉はぜってぇに疑わねぇからよ!」
「ねぇしんちゃん、そのさ、花子さんの話って本当なの?」
「だからマジだって。俺はこれでも前の世界ではへのへのもへじの大真面目くんだったんだぜ?」
幸平は困惑したように頭を掻いた。先ほど清水狂介から連絡を受けた際に、彼の声に重なる睦月花子の声を確かに耳にしたのだった。だが、彼らから聞いた話は到底信じられるようなものではなかった。
「でもさ……」
「なぁ幸平、どのみちもう走るしかねぇだろ」
新九郎はそう言って、親指を立てた。
「部長を信じろ! 勝ちてぇなら走れ! 大丈夫だって、俺たちは最強だからよ!」
野太い声が空に響く。排気音が街に轟く。
通り過ぎたパトカーを追い越すように新九郎の特攻服が風を切り裂くと、幸平はやれやれと肩を落とし、孝之助はふんと肩を怒らせ、それぞれがそれぞれの思うがままに喧騒の街にバイクを走らせていった。
事は慎重に、されど大胆に進められていく。
清水狂介が指示したように、恐れ知らずの山中愛人が睦月家の前に停まっていたパトカーにバットを投げ付けると、警官たちは無線を片手に、愛人のバイクの追いかけていった。その僅かな隙に、睦月家から二台のバイクが歩道に飛び出す。
「行くぞ」
清水狂介の泰然とした声が歩道の並木の青葉を揺する。彼の背には吉田障子と睦月花子が、彼の後に続く早瀬竜司のバイクには田中太郎が跨っている。
「ねぇ、もしヤナギの霊が学校にいなかったら?」
バイクは既に雲を追い越す速度だった。ただ、それでも睦月花子の声は風に巻かれない。
「いるさ」
「どーして分かんのよ?」
「三原麗奈は学校で姿を消したのだろう」
清水狂介の声が風をすり抜ける。二人の会話は静かなカフェで織りなされる日常の光景ように澱みない。
「吉田真智子が学校に姿を現したと、お前は言っていたな。それと並行するように三原麗奈の姿が消えたとも」
「ええ、言ったわね」
「だが今現在、三原麗奈だけでなくその吉田真智子とも連絡が付かないという。この事から推測するに、学校に現れた吉田真智子の真の目的は息子との再会ではなく、息子と入れ替わっていた三原麗奈への復讐だったのだ。三原麗奈は吉田真智子の殺害に執着していた。その逆もまた然りだろう。つまり、吉田真智子がヤナギの霊だと言うのであれば、三原麗奈は吉田真智子の手によって夜の校舎に囚われている可能性が高い」
「アンタねぇ、その息子が今私たちの間にいるっつの」
そう言って、吉田障子の耳を塞いであげた。ただ、とうの障子はといえば凄まじい突風と振動に恐怖するばかりで、二人の会話など聞く余裕はない。そもそも耳をつんざく風切り音以外は何一つとして彼の元に届いていなかった。
「てかさ、だからって吉田真智子が学校にいるとは限らなくない?」
「夜の校舎は魂のみが彷徨う精神空間なのだろう」
「らしいわね。憂炎もそう言ってたわ」
「ならば空となった三原麗奈の肉体が何処かにある筈だ。俺はそれが学校だと推測する」
「どうしてよ?」
「学校に警察が来たと言っていたな。だからこそお前は吉田障子を家に匿った」
「そうよ」
「吉田真智子はヤナギの霊とはいえ、生身の女性なんだ。意識のない少女の肉体を背負って堂々と学校を抜け出せるような状況ではなかったはずだ。何よりお前たちの学校は四方が壁に囲まれた要塞のような作りとなっている。当然ながら内側から外への移動も困難となる。だからこそ三原麗奈の肉体は未だ学校の中にあり、吉田真智子もまた安易には学校を離れられない状態にあるのだ」
過ぎ去っていく街の景色が残影となって次々と現れる色と重なっていく。速度はゆうに百キロを超している。睦月家から学校までは通常ならば車で二十分ほどの道のりだった。だが、このペースならばおよそ十分と掛からず学校に辿り着けるだろう。
「ねぇ、ちょっといいかしら」
「何だ」
「どうしてアンタはこんな突拍子もない話を迷いなく信じられるの?」
パトカーの白い影が現れては消えていく。厳格そうな青い制服が通り過ぎていく。異様な数である。ただ、その視線が花子たちに向けられることはほとんどなかった。警察の憂いは昨日から続く一連の残虐な事件にあり、そして警察をおちょくるようにして飛び回る不良少年たちの羽音にあった。ただ猛スピードで過ぎ去っていくだけのバイクを追いかける余裕など残されてはいなかった。
「夜の校舎のことか」
「夜の校舎もそうだけど、何よりも過去を変えられるなんて話、普通なら絶対に信じられないわよ」
睦月花子は頻繁に後ろを振り返った。そうして早瀬竜司と田中太郎を乗せたバイクが、背景の躍動する絵画の主体として、花子の視界を彩るのだった。
「俺は地獄を信じている」
清水狂介は振り返らない。ただ、ブラック&グレーの髑髏のタトゥーが背後の皆にそっと微笑みかけている。
「魂は存在する。人は死ねばあの世へ行く。それが俺の考えだ。だから俺は三原麗奈と吉田障子の入れ替わりを信じた。だから俺は魂のみが彷徨うという夜の校舎を信じた」
「つまり夜の校舎はあの世ってわけ」
花子は笑った。彼女もその可能性は考えていた。
「いいや、あの世ではあるまい。あの世であればお前たちは戻ってくることが出来なかったはずだ。だが、この世でもあるまい。この世であれば肉体が必要となるからだ。夜の校舎とは魂のみ出入り可能な精神空間であり、つまりはあの世とこの世の境界線だ。であれば過去を変えることも可能となるだろう」
「どうしてかしら?」
「この世とあの世が存在し、肉体と魂が別のものと仮定した場合、人口という矛盾が必然的に浮かび上がってくる。なぜ人口は増減するのか。魂は増え続ける一方なのか」
「ふふ、無粋ねぇ」
「俺はその矛盾に対する答えの一つとして、時間という概念に辿り着いた」
「時間?」
「この世とあの世では時間の流れが違う。物理的制限の少ないあの世においての時間の流れは一定ではない。俺はそう考えた。もしそうだとすれば、人口の増減が矛盾とはなり得なくなる。増え続ける魂の問題も解決する。あの世の魂は、時間、空間の枠を飛び越えて、この世の肉体に落ちることが出来るのだ。つまり、あの世とこの世の境目である夜の校舎であれば、過去を変えることも可能かもしれない」
バイクの速度が上がる。瞳のない髑髏が光を切り裂いていく。影を置き去りにしていく。
地獄の魔女は心優しき王子を背負った。そうして最強の鬼と共に、この世の時間と空間に逆らいながら、魂のみが辿り着けるというあの世に向かって、変わらぬ青空の下を走り抜けていった。
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