王子の苦悩

忍野木しか

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第四章

怨霊の血

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 小鳥の囀りが梅の木陰から聞こえてきそうな、そんな静けさに落ち着いていた朝の街は、今や、どうしようもないほどの大炎に呑み込まれていた。やんちゃな不良少年を追うばかりだった気怠げなサイレンは、尊い命を追い削るような赤い警報へと変わってしまい、何処からともなく現れる銃の雄叫びが新たな鮮血と悲鳴を産み落としそうな、そんな緊張感に朝の街は包まれていた。
 荻野新平の影が揺れる。その視線は先ほど銃声が鳴り響いた青空の下に、彼の影は彼の速度に置いていかれまいと必死の様相である。
 新平の親友である樫田真司もまた必死の形相で遠ざかっていく友の影を追っていた。ただ真司は警官であるが故に組織の命令には──ある程度──逆らえない。上司からの叱責に近い怒鳴り声が無線を通じて届くと、立ち止まった真司は呼吸を整え、そうして祈るように、励ますように、新平の背中に向かって拳を振り上げてみせた。
「おい新平! 俺に捕まるような真似だけはすんじゃねーぞ!」
 荻野新平は振り返らなかった。嫌な予感が胸を渦巻いたのだ。不穏の気配に鼓動が乱れたのだ。それは銃声の残響に対する焦燥ではない。もっと別の何か。消えたはずの影が背後を通り過ぎたような。遠い過去の慟哭がやっと耳に届いたような。とにかく急がねば、と新平は影も追い付かぬような速度で、朝の街を駆け抜けていった。
 サイレンの音が現れる。消える。赤い警報が通り過ぎる。呑まれる。喧騒はゆらりゆらりと寄せ返す波のようで、巻き上がった大炎がぼうぼうと、されど薄い膜のようで、熱く眩く儚い。
 妙である。新平の速度がさらに鋭く風を切る。
 尋常ではない。新平の影がさらに薄く街を切る。
 それは異様な光景だった。朝の街は喧騒の内にあった。だが、声がない。視線がない。市役所の前は大炎の渦の中心にあった。それにも関わらず人の気配はなく、ひっそりと静まり返っていた。
 いや、息はあった。瞳もあった。人の姿は確かにあった。ただ、誰の意識もなく、滑らかな道の上にだらりと横たわる者たちばかりだった。警官も、聴衆も、警備員も、野次馬も、皆等しく視線を闇の底に沈めていた。
 否、等しくはない。五つの影が喧騒の中心で炎を纏っている。白のハイエースの前に立つ四つの影は真夏の太陽のような赤い炎を、四人を睨み付ける痩せた女は月夜の氷のような青い炎をその瞳に宿している。果たしてそれらは人の影か。或いは怨霊の類だろうか。そんな事を考える間もなく、荻野新平は流れるような動作で、スミス&ウェッソンM29の黒色の銃口を前に構えた。
「動くな」
 吉田真智子の視線がゆっくりと動いていく。彼女の表情は愕然としているようで、呆然としているようで、そこに怒りはなく、ただひたすらに哀しそうだった。
「撃たないで!」
 彼女は叫んだ。その声のあまりの悲痛さに新平の方が驚いてしまう。黒色の銃口が向けられる先は当然の如く彼女ではない。四つの傲慢な影のうちの、白い帽子を被った女でも、淡い紺のスーツの女でも、ほっそりと白い足を見せるショートデニムの少女でもない。彼女たちの中心に立つ肩の広い男。狡猾な蛇。傲慢の王。捕食者の頂点に立つ者。荻野新平はその視線を真っ直ぐに、小野寺文久の額に向かってリボルバーを構えていた。
「撃ちなさい」 
 小野寺文久はそう言って、広い肩を山のように聳えさせた。傲慢な声だ、態度だ、表情だ、瞳だ──。
 荻野新平の瞼が僅かに落ちる。ただ、黒色の銃口は動かない。「撃たないで」と叫んだ彼女の声が耳の奥を木霊した。その意味や如何に。撃つべきか否か、彼は迷ってしまった。
「“動くな”」
 少女の声だった。青い瞳の美しい少女の声が空に響いた。その髪と目と肌から、少女が日本人でないということはすぐに分かった。ただ、どういった存在なのかは分からない。人か獣か悪霊か。王のしもべか聴衆か。或いは全く別の何かか。その少女がただの人間でないということだけは分かる。荻野新平は今や、指一本として体が動かせなくなっていた。
「ジュリー、やめろ」
「はーい。おいお前、“動いていいぞ”」
 新平の重心が崩れる。それでも彼は慌てることなく、銃口を僅かにも動かすことなく、ひたすらに思考のみを前に進ませていった。「撃たないで」という言葉の意味は何か。彼女はいったい誰を守ろうとしているのか。
「やぁ新平くん。やっと僕のことを思い出してくれたのかな?」
 小野寺文久の表情は朝のコーヒーを前にした寝起きの王のように落ち着いていた。新平はそんな王から視線を外すことなく、王の周囲の女たち、幼馴染の叫び、そして今まさにこの場で起こっている異常事態に思考を傾け続けた。なぜ誰も彼もが意識を失ってしまっているのか。青い目をした女たちはいったい何者なのか。なぜ王と彼女が睨み合っているのか。彼女の言葉の真意は何か。
「その男を撃たないで!」
 吉田真智子はまた叫んだ。新平の視線は動かない。ただ、小野寺文久の表情にはっきりとした苛立ちが浮かび上がる。
「その男を殺しちゃ……!」
「ジュリー」
「“喋るな”」
 吉田真智子の呼吸が止まる。突然見えない何かに口を塞がれてしまったのだ。彼女は焦ったように目を見開き、なんとか唇を開こうともがき、思いを伝えようと必死になって、その悲痛な視線を荻野新平の瞳に向けた。
 新平の表情が変わる。
「おい、殺すぞ」
 獰猛な野獣が唸るような声だ。彼の吐く息は重い。
 小野寺文久は、さぁ殺してみろ、と言わんばかりに肩を大きく広げてみせた。だが、彼自身が生来に持つ王の傲慢さを抑え切ることが出来ず、憎々しげに眉を顰めてしまった。
「撃て」
「自殺か。それとも他に何かあるのか」
「早く撃てや、クソ野郎」
「やはり子供のうちに殺しておくべきだったか」
 小野寺文久の顔に凶悪な王の怒りが浮かび上がる。王は静かに腕を下ろすと、おもむろに手を横に伸ばした。紺のスーツの女の胸元から拳銃が取り出される。
「チッ、今じゃ俺のほうがおっさんだな……。なぁおい荻野、テメェ、あん時はよくも殴ってくれたな!」 
 ベレッタM92F。白銀の銃口。9mmパラベラム弾が炎の内に広がる静寂を切り裂いていく。その鋭い衝撃音が市役所の壁を反響する頃には、すでに荻野新平の影は不鮮明な陽炎の如く、道に横たわった聴衆たちの影に溶け込んでいた。その姿勢は今まさに獲物に飛び掛からんと身を屈めた猛獣よりも低く、淀みない動作は雪解けの清流を思わせ、突風に舞う木の葉のような絶え間ない速度に、女たちの視界から荻野新平の影が離れてしまう。
 白銀の銃口が火を吹く。新平の体が左右にブレる。まるで全てが見えているかのように、音速を超える銃弾すらも彼の胸には届かなかった。ただ、黒色のリボルバーが白い煙を見せることもない。「撃たないで」という幼馴染の言葉が耳から離れなかった。唇を塞がれた幼馴染の瞳が視界から離れなかった。
「ムカつく野郎だ」
 そう言って、小野寺文久は銃口を下げた。その額はどうにも無防備で、その心臓はいつでも貫ける距離にあり、早く撃てとせがむように、王は正面からスミス&ウェッソンM29の銃口を見下ろしていた。
 それでも荻野新平は引き金を引かない。
「そうかよ。じゃあ勝手にしな」
 小野寺文久の視線が動く。その白銀の銃口の先には吉田真智子の額が──。
 影が置き去りとなる。時が動きを止める。荻野新平はまるで初めからリボルバーをその位置に構えていたかのように、一切の無駄のない動作で、引き金を引いた。刹那の差で、白銀の銃口から火が吹き出す。
 鮮血が散った。小野寺文久の右手から、そして、吉田真智子の頬から。途端に、スーツ姿の女の表情が変わる。彼女は青い目を大きく見開くと、その鮮血よりも紅い唇を縦に開き、美しい声を青空に響かせた。
「動クナ!」
 微かに体が重くなる。だが、先ほどの少女の声とは違い、動きが完全に止まってしまうことはない。新平は落ち着いた動作で銃口を下げると、今度は小野寺文久のふくらはぎに向かって、引き金を引いた。
 鮮血。静寂。リボルバーから立ち昇る白い煙が風に巻かれる。それでも小野寺文久の瞳に動揺の影が揺れ動くことはない。彼はいつまでも傲慢な王の如く、手と足の血はそのままに、広い肩を天に向かって聳えさせていた。
「殺すぞ」
「殺れよ」
「たかを括ってるのか」
 銃弾が王の頬を掠める。それでも王は傲慢な表情で、獰猛な獣を見下ろし続ける。白い帽子の女も、ショートデニムの少女も動かない。スーツ姿の女のみが心を乱しているようで、その青い目に浮かんだ動揺を視線の端に捉えた新平は、彼にとって最も大切な存在である筈の幼馴染から意識を外してしまった。
「あっ……」
 少女の声が落ちる。その鼻から一筋、赤い血が垂れ落ちる。すると白い帽子の女が叫び声を上げた。日本語ではない。スーツ姿の女が慌てたように鼻を押さえると、小野寺文久は「チッ」と面倒臭そうに頭を掻き、そうして落とした拳銃を左手で拾い上げた。
 荻野新平の瞳が激しく揺れ動く。その視線の先には幼馴染の女が──。吉田真智子の顔は両眼から溢れ出る血に真っ赤に染まっていた。
「殺シマス」 
 スーツ姿の女はそう声を上げると、胸元から白銀のナイフを取り出した。それを小野寺文久が制止する。
「待て。これは何だ?」
「分カマセン。危険デス」
「おい、ロキサーヌ!」
「Je ne comprends pas」
 小野寺文久の鼻から血が滴り落ちる。だが、王は全く気にした素振りを見せない。ただ苛立ったように、ほんの僅かに興味深そうに、吉田真智子の顔を冷たく見下ろしていた。
「“閉じろ”」
 少女は叫んだ。その白い頬は赤い血に塗れている。吉田真智子は瞼を閉じてしまうも、両眼から溢れ出る血が止まることはなく、気が付けば空は暗い雲に覆われ、朝の街は今や身を焦がす大炎の臭気と、黒煙に澱んだ風に呑まれてしまっていた。
「くそっ、くそっ、何だよこれ! あり得ないじゃん! どうして精神が外に漏れ出してんの!」
 少女は動揺しているようだった。白銀のナイフが三つ、赤い炎を反射させる。ただ、王は依然として傲慢な表情で、この状況を俯瞰しているようにさえ見える。やがて炎が血に濡れた王の足を焦がすと、小野寺文久は不満げに鼻を鳴らし、そうして白銀の銃口を吉田真智子の額に向けた。ベレッタM92Fの銃口から白い煙が吹き出す。一歩早く、荻野新平の両腕が、吉田真智子の体を包み込む。
「ぐっ……」
 新平は息を止めた。銃弾が彼の脇腹を貫いたのだ。熱い血が込み上げてくる。それでも新平は優しげに微笑み、「大丈夫か?」と吉田真智子の耳元に静かな声を伸ばした。
 黒煙が薄れていく。大炎が収まっていく。暗い雲の隙間から青い光が覗くと、やけに騒がしい朝の街に、小野寺文久は銃口を下ろした。気が付けば市役所前の道には新たな人の声と視線が集まり始めていた。
「“眠れ”」
 少女の声が青空に響き渡る。
「ああ、めんどくせぇな」
 王のため息が零れ落ちる。
 拳銃をスーツ姿の女に手渡した小野寺文久は、もはや荻野新平の姿も吉田真智子の影も忘れてしまったかのように、手足の痛みなど気にも掛けず、颯爽とその場を離れていった。後に残ったのは意識のなく道に横たわった人々と複数の死体。顔を血に染めた女が、脇腹から血を流す男の体を支えている。
「新平さん! 新平さん!」
「俺は大丈夫だ……」
 新平はそう言って、また微笑んだ。だが、血は一向に止まらない。
 滑らかな道が赤く染まっていく。口から鮮血が溢れ出てくる。
 もしや心臓を貫かれたか──。
 新平は己の死期を悟った。意識が少しずつ薄れていく。
「新平さん! 新平さん!」
「大宮さん……」
「大丈夫だからね! あたしが絶対に貴方を助けるから!」
 声が遠のいていく。視界が黒く染まっていく。
 新平はもはや返事も出来ず、微笑んでやることすらも出来なかった。
 鼓動が消えていく。意識が消えていく。
 彼は最後に、微かな人の温もりと、自身の体が宙に浮かび上がるような奇妙な感覚を味わった。それは彼の魂が肉体から離れた後の出来事だった。
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