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第四章
縋る
しおりを挟むざわざわとした視線、声、人だかりの影が、富士峰高校の正門前に溢れ返っていた。
荻野新平は軽く舌打ちすると、そのまま校舎裏まで軽自動車を走らせた。広い道路を挟んだ向かいのコンビニまでは校舎の影が届いていない。何食わぬ顔で車を停車させた新平は、校舎裏に並んだパトカーを尻目に携帯電話を取り出した。富士峰高校の駐車場内では数人の警察官が険しい表情で無線を手にしており、ただ彼らの視線は目の前の校舎にではなく、街を越えた先の薄墨色の空と重なる山に向けられていた。新平は訝しむも、表情は変えず、勢いよく車から飛び出ようとする姫宮玲華の首根っこを掴むと、八田英一に通話を繋げた。
「──新平さん?」
少し抑えられたような声だった。だが、とりあえずは無事のようで、新平は肩の力を抜いた。
「どういう状況だ」
「──やはり学校側にはバレてしまっていたようで、今は救急車を待っています」
「警察の車が数台見えるが、問題はないのか」
「──ええ、別に罪を犯したわけではありませんから」
「そうか」
ちょうどその時、微かな救急車のサイレンが、曇り空に聳える校舎の向こうから響いてきた。玲華の首根っこを掴んだまま、新平は何かを考え込むように、拳で無精髭を撫でる。
「状況が良いとは言えん。お前たちの状態は分からんが、世間の晒し者になるような事態だけはなんとしても避けねばならん」
「──はい、状況は最悪です。詩織さん、里香さん、莉音さんは精神的ショックから未だに会話すらも困難な状態で、それは生徒たちも同じです。ただ、実は今、戸田和夫さんと姫宮さんのお婆様が我々の側に付いて居てくださって、その事で少しだけ救われています」
「──大いにじゃろうが」
声が変わる。貫禄のある老人の声だ。新平は眉を顰めると、電話越しに低く唸った。
「誰だ」
「──戸田和夫さんじゃよ。お主は荻野新平じゃったか、野獣のような男らしいの」
「今すぐ英一と代われ」
「──まぁ待て、今さらイングリッシュボーイと代わったところで大した話も出来んじゃろ。それよりもお主、今どこにおる?」
救急車のサイレンが大きくなっていく。ただ、老人の声は澱みなく、随分と聞き取りやすい。名前のみではあったが、戸田和夫の存在は聞き知っていた新平は暫し言葉を止めると、駐車場に集まった警察官の青い制服を睨み、表面の擦れたハンドルの腕を乗せた。
「校舎の裏だが、それを知ってどうする」
「──お主の車は何人乗りじゃ?」
「詰めれば六人だ」
「そんなに乗れるか!」
首を掴まれた猫のように大人しくなっていた玲華の唇がくわっと縦に開かれる。そんな魔女を無視し、そっと顎髭を撫でた新平は、白く透けた雲の揺らぎに目を細めた。
「──むむ、同乗者がおるのか。ならば今から四名を連れてそちらに向かうぞ」
「向かってどうする。今その場を動けばさらに状況が悪くなるだろ」
「──どのみち状況は最悪じゃよ。ただ、この最悪を一変させ得る良い手があるやもしれん」
「なんだと?」
「──ともかく、今すぐそちらに向かう。お主はすぐにでも車を走らせられるよう準備しておれ」
老人の声が途切れる。新平はまた舌打ちすると、白く澱んだ空を見上げたまま、腕を下ろした。
そこは青々と深い水の中だった。
冷たくもなく温かくもない。世界は確かに澄み切った水で、その重くもなく軽くもない青い海をずっと漂っていた。
見渡す限りの青に終わりはない。行けども行けどもただ広い海の中で、見上げれば薄く澄んだ青色で、たまに下を見れば濃く深い青色で、進んでいるのか戻っているのかは分からない。他の誰の姿もなく、それを寂しいとか嬉しいとか悲しいとか恋しいとかは思わない。自分が何者か分からず、自分が自分だという認識も持たず、ただ青く広く深い水の世界を漂うだけの、そんな存在だった。
時折、黒い影が現れた。影は横に長く、五本の枝が広げられ、その前方か後方か、丸い突起にはゆらゆらと揺らめく無数の細い何かがあった。そんな巨大な影が、より明るく澄んだ水の上から、より暗く澱んだ水の底へと沈んでいった。それだけが怖かった。いや、怖いという感情は知らない。ただ怖かった。それは本能だろうか。影の後は追わないようにと、上ばかり見つめていた。水を透かす青い光をただずっと見上げていた。
眩しい。
突然、光が弾けた。
青い光が強くなった。
これは空色だ。
まるで水が晴れていくように、広々と青い世界を見上げれば、澄み切った空色が広がっていった。
これは何だろうか。心地良くもあり心苦しくもある。ふわりと浮かび上がっていくようで、のそりと沈んでいってしまいそう。温かくもあり冷たくもある。体が重く水が軽い。世界が重く自分が軽い。体とは何だろうか。自分とは何だろうか。
空色の光に明暗が現れる。怖い。青々と澄み切った世界が影に覆われていく。怖い。
視界が暗くなっていく。怖い。青い光が消えていく。怖い。そして、何も見えなくなる。怖い。怖い。
世界が消えた。寒い。
世界が震えた。重い。
世界が弾けた。熱い。
ただ狭く、暗い、世界。
ただ重く、苦しい、自分。
時折、震えた。世界が──。光ではない。
時折、弾けた。自分が──。光ではない。
影に覆われた世界で、重く苦しい暗闇で、ただその感覚のみが鮮明だった。何も見えず、重い体で、熱い世界で、ただそれのみが心地良かった。それのみが色を思い出させた。心を大きくさせた。
心とは何だろうか。
また、世界が震える。また、自分が弾ける。
これはなんだろうか。
これは光ではない。
この感覚は何だろうか。
これは光ではない。
これは音──。
「おはよう、眠りの森の新九郎」
「あ……?」
目を開けた鴨川新九郎はゆっくりと身体を起こした。木屑がポロポロと腕に落ちる。今のは何だったのだろうかと、新九郎はのそりと頭を掻いた。夢と現実の区別が定かではない。ただ夢の内容は思い出せない。それでも随分と懐かしい想いがしたと、新九郎は無意識に青い光を探した。だが、そこは薄暗い廃工場の中で、視界に現れたのは錆びた鉄骨とトタンの屋根ばかりだった。
「アンタ、寝てばっかじゃないのよ」
そう言って睦月花子は「たく」と腰に手を当てた。水を弾くような肌は陽に焼けた亜麻色で、太ももには包帯が巻いてある。
新九郎は木屑を払うと、ぼーっと辺りを見渡した。徐々に意識が現実に向かって降りてくる。木屑の上に正座させられた“苦獰天”のメンバーを見て、自分が“火龍炎”の総長であることを思い出し、ブリキ缶から立ち昇る白い煙を見て、自分がここにいる理由を思い出した。ただ、まだ酷く気怠く、身体を動かすことは躊躇ってしまう。
「木崎くん……! 木崎くん……! すまんかった……! すまんかった……!」
枯れた花を潰したような掠れ声が耳に響く。新九郎は何とか立ち上がると、コンクリートの床に這いつくばるようにして頭を下げた醜い老人に視線を落とした。同じように花子も老人を見下ろしている。だが、当のキザキの腫れぼったい目は若者たちに向けられるばかりで、老人の影が彼の視線の内に入ることはなかった。
「木崎くん……! 木崎くん……!」
「ねぇちょっと、アンタ、さっきから八田弘に呼ばれてるけど?」
見かねた花子がキザキの背中に声を掛ける。だが、キザキは振り返らない。結束バンドで後ろ手を縛られた彼は何かを考え込んでいるようで、その普段通り退屈そうな表情からは思考を読み取ることが出来なかった。
橋田徹を含む怪我人たちは薄い陽の当たる出入り口の前に寝かされていた。未だに意識の戻らない三原麗奈の側には徳山吾郎と吉田障子が付いている。“苦獰天”の総長である野洲孝之助は正座したメンバーたちに無言の喝を入れており、長谷部幸平と清水狂介は真剣な表情で会話を続け、パープルピンクの髪を後ろに撫で付けた大野蓮也は正座した“火龍炎”のメンバーの一人を笑わせようと戯けていた。
取り敢えず騒ぎは収まったが、それによって事態が好転したというわけではなかった。以前として最悪の状況下で、いったい次にどう動くべきかの判断が付かないと、彼らは言いようのない焦燥感に駆られていた。
警察を呼べば、キザキを含む“苦獰天”のメンバーはもちろんのこと、完全なる被害者である吉田障子までもが逮捕され実刑を受ける事となるだろう。そして拉致監禁暴行とは直接関わりのない他のメンバーもまた、さらには“火龍炎”のメンバーにも重い処罰が下されるかもしれない。だからといって、これほどの事件を隠し通せるはずもなく、もう既に警察が動いている可能性もあった。
事態はかなり切迫していた。大場亜香里、橋田徹などは実際に心と身体に深い傷を負わされており、今すぐにでも病院に連れていかなければならないような状態だった。その上、このまま警察に通報するのをためらい続ければ、花子たちまでもが共犯として連行されてしまうことも考えられるだろう。だが、それでも暴走族である彼らはともかくとして、何も知らない吉田障子までもが主犯として逮捕されるような事態だけは何としても阻止してやりたかった。それではあまりにも悲惨だと、哀れだと、少ない時間の中で、彼らは必死になって最善手を探していた。
「ダメね」
花子は深く息を吐くと、指の骨をゴキゴキと鳴らした。額には青筋が浮かんでいる。
「もうそのクソドアホ主犯クソモブウサギを強制的に自白させるしか方法はないわ」
そう声を唸らせながら、意識なく横たわったままの三原麗奈の胸ぐらを掴み上げた。はっと黒縁メガネをズラした徳山吾郎は慌てた様子で花子の細腕に飛び掛かる。
「ま、待ちたまえ! 乱暴すれば余計に状況が悪くなるぞ!」
「悠長に待ってる暇なんかないっつの! とっととモブウサギ叩き起こして、そんで警察の前で自白させるわよ!」
「いやいやいや、先ずは彼女の話を聞いてみようではないか! 麗奈さんは確かに冷酷な一面を持っているが、それでも意味のないことはやらない人なんだ!」
「んなもん今さらよ! 意味があろうとなかろうと、ここまでやらかしたモブウサギに救われる道なんて残されてないわ!」
「もしかすると心霊学会には僕たちの知らない秘密があるのかもしれない! このまま麗奈さんが捕まってしまえば、その秘密までもが闇の中に葬り去られてしまうぞ!」
徳山吾郎は必死だった。もはや彼女を救う道はないと、それでも彼女を信じてやりたいと、初恋の幼馴染を必死に庇い続けた。
「秘密ですって……? それってまさか莫大な財宝を隠し持ってるとか……?」
「もっと暗く深い闇の話だよ。ほら、宗教団体ってのは常々そういう闇の一面を隠し持っているからね」
徳山吾郎の黒縁メガネが怪しい光を放つ。花子は興味深げに腕を組むと、取り敢えずその辺の話を八田弘にでも聞いてみようかと、視線を横に動かしていった。そうしてあっと目を丸めてしまう。結束バンドを外したキザキが短めの角材を掲げていたのだ。その先端には赤い炎が揺れていた。
ふっと薬品の刺激臭が花子の頬を掠める。廃工場の壁際に視線を動かした花子は、赤いポリタンクから透明な液体を下ろしていく小森仁の横顔に愕然として言葉を失った。再び額に青黒い血管が浮かび上がると、花子はゴキリと首の骨を鳴らし、そうしてブリキ缶の煙に隠れたキザキに低い声を伸ばした。
「何やってんの、アンタ……?」
「この工場を燃やす」
「はあ?」
「主犯は俺だ。お前は仲間たちと共にすぐこの場を立ち去れ」
火の粉が湿った木屑に舞い落ちる。灯油の薬品臭が廃工場を満たすと、角材の炎がゆらりと形を変える。花子と吾郎が顔を見合わせると、正座していた“苦獰天”のメンバーたちが一斉に腰を動かした。同時にキザキの鋭い声がトタンの壁を突き抜ける。
「お前たちは動くな」
「え……?」
「俺の指示を待て」
「おい、警察には通報しておいたぞ」
抑揚のない青年の声がキザキに向かって伸ばされる。清水狂介がスマホを下ろすと、そのブラック&グレーの髑髏のタトゥーに、キザキはふっと頬を緩めた。
「よし」
赤い炎がふわりと落ちる。炎は意外にもゆっくりと、まるで壁際を歩くようなペースで、廃工場の木材の上を燃え広がっていった。その赤い炎が影を作るよりも早く、木屑を踏み締めた花子は、意識のない大場亜香里と橋田徹の体を抱き上げた。
「新九郎! アンタは八田弘を運びなさい!」
飛び上がるようにして大柄な男が太い腕を広げる。徳山吾郎もまた素早く三原麗奈の体を抱きかかえると、吉田障子の手を借りつつ、廃工場の外へと走り出した。足元の覚束ない早瀬竜司の肩を長谷部幸平が、正座した“火龍炎”の仲間と大野蓮也が拳を合わせる。
「総長も早く行ってください!」
元“正獰会”の古参の一人である鈴原新太はそう言って、精悍そうな眉を柔らかくした。だが、野洲孝之助はといえば燃え広がっていく炎を呆然と見つめるばかりで、視線を返すことすらも出来ない。鈴原新太はやれやれと立ち上がると、眉をくの字に引き締め、そうして野洲幸之助の頭を軽く小突いた。
「おい孝之助」
「な、なん……?」
「翔太郎くんに恥かかせんな」
それは兄の名前だった。野洲孝之助の頬がカッと赤くなる。すぐに鈴原新太の手を振り払った彼は、グッと奥歯を噛み締めると、握り拳を前に構えた。
「必ず俺の元に戻ってこい!」
「ええ、もちろん。総長」
野洲孝之助が颯爽と工場を飛び出ると、鈴原新太は微笑み、キザキを振り返った。広い木工所跡は徐々に炎に埋め尽くされていき、その熱気と煙に息苦しさを覚え始める。
「縋りたい者だけついて来い」
キザキはそう言うと、静かに、廃工場の裏口に向かって歩き出した。小森仁がその後に続く。
炎が爆ぜる。木屑の山が赤い海に呑まれ、トタンの壁がバキバキと崩れていく。
その音に“苦獰天”のメンバーたちは肩を震わせた。崩壊していく廃工場と自分たちの姿を重ね合わせると、深い絶望の底から天井を見上げる。そうして彼らは、崩れた壁から差し込んでくる微かな光を見た。白い光。黒い煙が空に向かって薄れていく。視線を落とした彼らは顔を見合わせると、恐る恐る、それでも諦めまいと必死になって、キザキの黒い影を追い縋っていった。
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