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第四章
可愛いウサギちゃん
しおりを挟む炎の揺らめきに動揺が現れていた。
廃工場に集まった“苦獰天”のメンバーたちは一様に狼狽え、出入り口に集まった六人の足元から視線を逸らせず、呼吸すらもままならなかった。それは左端で厳格そうな薄い唇を怒りに震わせている白い特攻服の男が自分たちの総長だったからであり、右端で盛り上がった肩を怒らせている大男が敵対チームの総長だったからであり、正面で細腕に青黒い血管を浮かばせている少女が、かつてこの街の頂点に君臨していた“火龍炎”を潰し、そして“苦獰天”となる前の自分たちを撫で切りにした都市伝説の女だったからだ。自分たちの正当性すらも疑っていた彼らにはもはや戦意などなかった。
「顔を上げろ!」
よく通る少年の声が廃工場を抜け、暗い山を越え、曇り空に響き渡る。はっと顔を上げた彼らは、出入り口前の六人を正面に見据えた。
「右端の男が“火龍炎”のトップだろ! アイツをやれば抗争はテメェらの勝ちだ!」
「貴様ッ」
「おい野洲くん! テメェ、裏切りやがったな!」
野洲孝之助の言葉を叩き切るように、吉田障子の白銀の剣先のような声が縦に振り下ろされる。
「憎き“火龍炎”との抗争はどうした! どうして“火龍炎”の総長と仲良く肩並べてやがる! おい野洲くん、答えろよ!」
「な、仲良く肩など並べるか! “火龍炎”との抗争は一旦中止となったんだ! き、貴様らこそ」
「ここにいるジジイが心霊学会のトップだ! 俺たちは動きの遅ぇテメェらと違って、もう心霊学会を潰す一歩手前まで来てんだよ!」
「な、なんだと……?」
「おい野洲くん、まさかメンバーが少なかったから“火龍炎”を潰せませんでしたなんて、そんな言い訳かますつもりじゃねぇだろうな? “火龍炎”三十に対して、それでも野洲くんたちは四十人以上いたはずだぜ? そんな体たらくでよくもまぁキザキさんの前に顔を出せたな!」
「ぐっ……」
野洲孝之助は口を紡いだ。状況がはっきりとは分からなかったために言い返す言葉が出て来ず、吉田障子の言葉の勢いに押し負ける形となってしまったのだ。その様子に、廃工場に集まっていたメンバーたちはやっと呼吸を深くした。もしや正義は自分たちにあるのではないかと。そう思った彼らは、普段の冷静さなどは皆無の野洲孝之助から、普段通り泰然自若としたキザキに向かって視線を動かしていった。
吉田障子はスッと目を細めた。
口の動きは緩めることなく、瞳の色のみを変え続ける。不敵な笑みは浮かべつつも、その表情にいつもの余裕はない。吉田障子は、額に青黒い血管を浮かべた睦月花子から、決して視線を外さなかった。
やはり意識は奪えない──。
み空色から鈍色へと吉田障子の瞳の色が戻っていく。「クソッ!」と彼は左の頬に指を当てた。憎々しげに睦月花子の瞳を睨み下ろしながら。
巫女の瞳は他者の精神を覗き込むと共に、その魂に語りかけることが出来た。ただそれは言葉ではなく、いわば光による導きであり、意識を動かすことまでは出来ない。それでも巫女の瞳は、迷い、憂い、恨み、妬み、不安、恐怖等の、精神に積もり澱んだ負の巣窟に向かって他者の魂を誘導させることが可能だった。いわゆる迷走神経反射によって巫女は他者の意識を奪っていたのだ。
吉田障子の瞳に漆黒の影が落ちる。巫女の力で睦月花子の意識を奪うことは不可能だった。花子の精神は流れ続ける清流のように澄み切っており、負の感情による澱みが一切見られなかった。
ちくしょう──。
吉田障子は激しい焦燥感から左の頬に爪を立てた。もはや破滅は逃れられない、と──。
だか、それでもせめて吉田真智子の器だけはこの世から消し去っておかなけらばならなかった。その為にも、この場での敗北や逃走は絶対に許されない。これだけの事件を起こした末に警察に突き出される形となれば、もはや小野寺文久はおろか、吉田真智子の存在すらもどうしようも出来なくなってしまうだろう。当然、あのシダレヤナギの木も。その最悪の事態だけはなんとしても避けなければならなかった。
あの女だ──。あの女さえなんとか出来れば、この状況から脱せられる──。
全てを終わらせた後であれば、小さな世界の未来を確信した後であれば、自身の破滅にも微笑むことができるだろう。誰もいなくなった観客席から、暗い舞台を見上げながら、静かな最期を迎えられるだろう。それまでは終わらせられない。たとえバットエンドを迎えることになるとしても、終焉の幕が下りるその時までは、舞台を降りることは許されない。たとえ無関係の誰かを殺すことになろうとも──。
睦月花子の指先が微かに動いた。
その鋼の肉体を支える足が廃工場の木屑を踏み締める前に、吉田障子は素早く右腕を横に伸ばし、在らん限りの叫び声を上げた。
「止まれ!」
その絶叫に花子の足が止まる。廃工場に静寂が訪れると、吉田障子と彼の右腕に抱えられた三原麗奈に、皆の視線が集まった。
「テメェら全員動くんじゃねーぞ!」
ブリキ缶の中で炎が爆ぜる。鉄の棒から白い灰が舞い落ちる。その赤く焼けた鉄の先が三原麗奈の顔に近づけられると、花子はゴキリと首の骨を鳴らした。
「アンタそれ、自分の体でしょ」
「うるせぇ! 黙ってろ!」
「頭大丈夫?」
鉄の先が三原麗奈の頬を掠めた。軽い悲鳴と共に麗奈の背中が跳ね上がると、流石の花子も口を紡いでしまう。よく見れば麗奈の顔は傷だらけで、花子たちのみならず、廃工場に集まった“苦獰天”のメンバーたちも唖然として固まってしまった。いったい彼は何をやっているのかと、その真意を図れる者はいなかった。ただ一人、テーブルの前の陰気な男を除いて。
「み、三原さん……」
徳山吾郎は頬を青ざめさせた。もはや常軌を逸してしまっていると、その破壊衝動が彼女自身にまで向けられてしまっていると、徳山吾郎は湧き上がってくる恐怖と悲しみ、そして怒りに、呼吸の乱れを抑えられなくなった。
「ねぇ徳山吾郎、アイツって本当に三原麗奈なの?」
睦月花子は横目で徳山吾郎を睨んだ。万が一にも吉田障子が暴走した場合にと、重心は前に倒しておく。それほどまでに鉄の棒を振りかざした吉田障子の様子は尋常ではなかった。
「実は違いましたなんて、許されないわよ」
「いや……」
吉田障子に首を押さえられた三原麗奈はそれでも一切の抵抗を見せず、その黒く焼け爛れた頬の痕が痛々しい。それは言うまでもなく完全なる被害者の体だった。そこまでするのかと彼女の恐ろしさを再確認すると共に、度を越していると、徳山吾郎は、彼女の不安定な精神状態を危ぶんだ。当然、実際の被害者は身体が入れ替わっているだけの吉田障子の方ではあるのだが、もはや彼を救済する方法などは思い付かず、そこに思考を寄せる余裕もなかった。とにかく事態がこれ以上悪化するのを避ける為にも、慎重に事を進めねばと、睦月花子に視線を送り返した徳山吾郎は微かに首を横に振った。
「麗奈さんの身体に入っているのが吉田くんだというのは確認済みだろう。ならば彼が麗奈さんで間違いないはずだ」
「ならなんで自分の体を傷付けてんのよ。おかしいでしょ」
「麗奈さんは昔から極度に自虐的なところがあって、あれもまた精神不安からくる自傷行為だろうと思う。とにかく彼女の行動は予測出来ないから、なるべく刺激はしないよう慎重に動いてくれたまえ」
「慎重につったってね……」
「何喋ってんだ、テメェら! おいキザキ! 早くなんとかしやがれ!」
吉田障子はそう半狂乱に叫ぶと、振り回される鉄の棒の勢いに流されるようにしてキザキを振り返った。そうして彼はキザキを睨み、テーブルの側に蹲っていた倉山仁に視線を動かす。その視線の意味を理解したキザキは気怠げな表情で立ち上がると、倉山仁の丸く肥えた体にそっと手を置いた。
「キザキってまさか、アンタ、木崎隆明なの?」
「黙ってろっつってんだよ!」
絶叫と共に鉄の棒が床に叩き付けられると、紅い火花が湿った木屑の上を飛び散った。
花子はまた口を閉じる。その視線は炎の揺れるブリキ缶の向こうへ。大人となった木崎隆明を見極めようとした。そしてすぐに諦めたように肩を落とした。彼の表情は少年の頃と変わらず陰気で、退屈そうで、その感情も思考も表に現れてはいなかった。
少年時代に花子たちを救った木崎隆明はまた自分のクラスメイトたちを見殺しにしていた。弱者が強者に食われるのはあくまでも自然の摂理なのだと、そんな現実を少年時代から受け入れようとしていた。あまりにも視野の広すぎる男だった。無邪気な子供に踏み潰されていく羽虫すらも彼の視界から外れることはなく、一匹の羽虫を救うために、一人の人間を見殺しにするようなことも彼は厭わなかった。冷徹な合理主義者というわけではなく、温情の博愛主義者というわけでもない。それを彼は気まぐれだといい、花子もまた何となくではあるが、そんな彼の性格は理解していた。この現状において、木崎隆明が花子側に寝返るか、それとも吉田障子側に付き続けるかは、彼自身の判断に委ねるよりなかった。
吉田障子が鉄の棒を振り回す後ろで、倉山仁とキザキが何かを話し込んでいた。いや、コンクリートの床にへたり込んだ倉山仁はその表情も仕草も普通ではなく、この場には不釣り合いな小太りの青年は激しい憎悪と恐怖に支配されているようだった。そんな青年をキザキが必死になって宥めているように見える。丸い背中を撫でながら「落ち着け」と「早まるな」と。そんな言葉を掛けているであろうキザキの側で、倉山仁の肩が盛り上がっていく。まるで恐怖の感情が薄れ、代わりに怒りと憎しみが増大していくかのように──。
「おい」
キザキの抑揚のない声が薄暗い廃工場に広がる。同時に、吉田障子は何かを叫ぶと、まるでバットを振りかぶるかのように、左手に持った鉄の棒を首の真後ろに構えた。その勢いで三原麗奈の身体が前に移動する。
それは唐突に起こった。あっと声を上げる間もない出来事だった。
ふらりと立ち上がった倉山仁が、突然、吉田障子の背中に向かって突進したのだ。そうして三原麗奈の身体が出入り口の花子たちに向かって突き飛ばされると、吉田障子の身体が廃工場の床にドサリと崩れ落ちた。
一瞬の静寂が廃工場を訪れる。時を忘れた皆の呼吸が止まる。倉山仁が前に突き出していた両手には、鈍い銀色に刃先の光る牛刀が握られていた。
炎の影が鈍色の刃にゆらりと揺らめく。白い灰が少年の背中にふわりと落ちる。
その鋭い剣先が細かく震え始めると、誰が息を吐くよりも速く、花子の足がコンクリートの床を蹴った。静寂が去るよりも速く、花子の右手が倉山仁の体を突き飛ばした。そのまま流れるような仕草で片膝を付いた花子は、うつ伏せに倒れた吉田障子の肩を掴み、その背中にそっと手を当てた。
「大丈夫よ、だから動かないで」
花子はすぐに微かな違和感を覚えた。何か妙だ、と──。
その違和感の正体を掴む前に、警戒心など抱く暇もなく、花子の視界が突然、薄墨色に歪んで溶けた。突然、深く濃い霧に呑まれ、眼前の景色が消えてなくなった。凄まじい激痛と共に全身の筋肉が痙攣し、制御不能となった身体が前に倒れてしまう。そのあまりの衝撃に思考が霧散してしまう。ただそれでも花子は意識を失うことなく、朦朧と霧の底を彷徨い続ける視覚に代わって、飢えた獣が如き聴覚が研ぎ澄まされていった。そうして花子は声を聞いた。うなじをそっと撫でるような涼やかな女の声を──。
「内気な処女かと思った?」
三原麗奈の左手に黒い影が落ちる。改造スタンガンが青白い閃光を放つ。
「残念、可愛いウサギちゃんでした」
三原麗奈はそう微笑み、アッシュブラウンとショートヘアを横に靡かせると、黒く焼け爛れた左の頬に薬指を当てた。
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