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第四章
焦り過ぎた
しおりを挟む雨ざらしの荒野のように、赤褐色に塗料の剥がれた白の軽自動車が富士峰高校の駐車場から離れていく。
永遠の夢から覚めるや否や、荻野新平の動きたるや愛する娘を攫われた父親さながらで、いわく大人となった木崎隆明の家を飛び出した彼は影もつかぬ速さで学校の塀を飛び越えると、夏休みの間中ずっと放置されていたであろう自身の車に飛び乗ってしまった。
彼の後を追って校舎裏の濡れた土を踏んだ花子はやれやれと曇り空を胸いっぱいに吸い込んだ。そうして今しがた破壊した塀の一部を駐車場に投げ捨てると、焦茶色の旧校舎をギロリと横目に、正門に向かってのしのしと歩いた。蒼く茂ったシダレヤナギの枝を撫で、旧校舎との境目の渡り廊下を抜けると、正門の回転扉から転がるようにして現れた徳山吾郎の黒縁メガネに首を傾げる。こちらもまた何やら酷い焦燥感に駆られている様子で、そろそろ話でも聞いてやろうかと、花子は腰に手を当て、薄い雲間をこじ開けるような快活な声を上げた。
「何だっつーのよ、慌ただしいわね!」
「だから麗奈さんと吉田くんが大変なことになっていると……! と、とにかく、目覚めたばかりで悪いとは思うが、花子くんの力を貸してくれたまえ……!」
徳山吾郎はそう叫ぶと、息も絶え絶えに膝に手をついた。すると彼の背後から長身の男が姿を現す。田中太郎、鴨川新九郎と続くように、漲るエネルギーをその小柄な体躯に溢れさせたようなおかっぱ頭の少年が回転扉から飛び出てくると、花子は素っ頓狂な声を上げた。
「ひ、秀吉じゃないのよ! アンタ、どーしちゃったの? もう外に出ても大丈夫なの?」
さながら弟を心配する姉のようである。「信長です!」と小田信長がピシリとした敬礼を返すと、ブワッと目に涙を溢れさせた花子は曇り空を見上げ、拳を握り締め、くっと目元に腕を当てた。
「ぶっちょ! もー、探したんすからね!」
黒い特攻服を身に纏った鴨川新九郎が駆け寄ってくる。その眉のみ整えられた野武士のような顔も大柄な身体も何やらボロボロで、だが今の花子にとってはそんな些細な変化など蚊の涙ほどにも気にならず、とめどなく溢れ出てくる涙を拭うと、新九郎の胸に力いっぱい拳を叩き付けた。
「それはこっちのセリフよ……! 新九郎、憂炎、秀吉……! たく、アンタら、無事で良かったわ……!」
「いや、死んだんじゃねーか?」
数メートル吹っ飛んだ鴨川新九郎の体が塀に叩き付けられると、田中太郎は慌てた様子で親友の元に駆け寄った。
パチ、パチ、と火の爆ぜる音ばかりが耳に響く。
カタ、カタ、と足の不揃いなテーブルの動きばかりが気になる。
陰気な男の低い声が廃工場のトタン壁を震わせている。それはまるである筈のない夢を彷徨う雑音のようで、顔を上げようと上げまいと、今の彼の瞳に喧騒が届くことはなかった。
やられた──。
吉田障子はただ消えゆくばかりの炎光に揺れる自身の影に見入っていた。体が異様に重く、怠く、テーブルに手を置かなければ立っていることすらもままならない。長きに渡る精霊移しの影響だろうか。それとも心の内の問題だろうか。
焦り過ぎた──。
吉田障子は久しく薬を飲んでいない事を思い出した。異性の身体に移れば或いは、延々と現れては繰り返される鬱状態の苦しみからも解放されるのではないかと、無意識の内に過度な期待を抱いていたのだ。双極性障害は魂に刻まれた呪いなのだろう。ただ気怠く、息苦しい。吉田障子は右手を頬に、カタ、カタ、と左手で古びたテーブルを動かし続けた。
「木崎くん……! 木崎くん……! すまんかった……! すまんかった……!」
八田弘のしゃがれた声が喧騒の中に消えていく。でっぷりと膨れ上がった腹の前で長い白髭を振り乱す心霊学会の尊師は今や薄汚いだけのただの老人だった。若者たちの目にはもはや枯れた老人の姿など映っていない。キザキもまた八田弘の声を完全に無視し、腫れぼったい瞼はそのままに、廃工場を見渡していた。
「木崎くん……! 木崎くん……!」
ただ一人、魂が抜けたように虚ろな表情をした吉田障子のみが、ほんの時折、八田弘に視線を送ってやった。醜く、薄汚く、惨めな老人に無言の祈りを捧げた。半世紀以上前に死ぬ運命だった青年が、何の因果かこの世に生を繋ぐ羽目になり、追われ、脅され、操られ、汚され、怯えて怯えて、苦しんで苦しんで、そうしてやっと辿り着いた末路に、落とされ、蔑まれ、忘れられ、枯らされていく。
これほど哀れな存在が他にあるだろうか。これほど滑稽な悲劇を自分は描けるだろうか。
酷い鬱状態の中で吉田障子は何度も何度も視線を落とすも、それでも彼の醜く歪んだ運命だけは最期まで見届けてあげようと、その暗い瞳を動かし続けた。
ふっと視線が重なる。彼に負けず劣らず陰鬱な瞳をしたキザキは、それでも普段通りの表情で、さも退屈そうに眼を半開きにしていた。
「なぁキザキ……」
力なくテーブルに寄り掛かったまま、吉田障子は掠れた声を落とした。
「お前はもう家に帰れ。全てを忘れて、大人になれ」
「小野寺文久の目的っていったい何なんだ……?」
「奴の目的は永遠の命だ」
「永遠の……?」
「吉田真智子という存在そのものを知っているお前であれば、夜の校舎についても当然知っているだろう」
「ああ、知ってる……」
「あそこは魂のみが彷徨う精神空間だ。空となった肉体は外に放置される。奴はその肉体、つまりはより若い器に移り変われはしないかと考えた。それが可能であればもはや寿命など気にせず、永遠の命を謳歌出来るだろう。その可能性に奴は狂喜した」
「はは、それは無理だ……」
吉田障子は自身の手に視線を落としつつ、皮肉を込めた笑みを浮かべた。
「そう簡単に他人の体に移り変われてたまるかよ……」
「いいや、可能だ」
「あ……?」
「生後間もない赤ん坊の体であれば移り変わりが可能だということを小野寺文久は既に知っている」
「ク、クソ野郎がッ……」
もう何もかも終わりだと、吉田障子はテーブルを動かすのを止めた。吉田真智子だけではない、今や小野寺文久までもが完全なる怪物へと成り果てようとしている。彼にはもはや自嘲的な笑みすらも浮かばせられなかった。
「お前の学校に田中太郎という長身の青年がいる」
キザキは会話を続けた。
「姓名は李憂炎。小野寺文久の実の息子だ」
「知ってるよ……」
「そうか。ではお前は彼のことをどう思った」
「どうって……」
「田中太郎などと、李憂炎などと、随分と安直な名前だとは思わなかったか」
「いや……」
「あの子はただ移り変わる為の器にと、小野寺文久が名も無い中国人の娼婦に生ませた、それだけの子供なんだ。やがて魂を移せるに足る器が赤子のみだと気が付くと、奴は完全にあの子への興味を失った。名前すらも望まれず生み落とされた子供がお前の身近にいるんだ」
吉田障子は強いショックを受けた。田中太郎が実の息子であるというならば、小野寺文久に対しての強力な武器足り得るだろうと考えていたのだ。だがあの男は肉親すらも、血を分けた息子すらも、実験動物以下の愚物としか見ていなかった。それは彼にとっては考えられないような事実で、田中太郎をひたすらに哀れに想うと共に、小野寺文久という男に対して言いようのない恐怖を覚えた。
「お前はあの男とは違う。小野寺文久は生まれながらの蛇だ」
吉田障子は声を返さない。ただその暗く陰鬱な瞳をブリキ缶の前の枯れた老人に向けるばかりである。
「お前はもう家に帰れ」
「なぁキザキ……」
「そうして全て忘れて、ゆっくりと大人になれ」
「小野寺文久を殺してくれ……」
吉田障子は虚ろな表情で、それでもほんの少しだけ頬を緩めた。今のは面白かったな、と。そうして彼は新たに、明るくて楽しい喜劇の舞台を頭に思い描き始めた。正義と悪が錯綜せず、美しさと醜さが交わらない世界で、正義が醜い悪の真似事を、醜さが美しい正義の装いを披露する──。あべこべで面白いだろうと、単純な歪さにこそ面白さがあるのだと、彼は自身が描いた舞台に皆が大笑いする姿を妄想し、微笑んだ。
「ああ、そうしよう」
吉田障子はほんの僅かに頬を強張らせた。聞き間違いかと、視線を斜め上に向ける。
「吉田真智子を眠らせた後、小野寺文久を始末する。それで終わりにしよう」
キザキはそう言って、テーブルの下から凹み燻んだヤカンと錆びた金網を拾い上げた。それをまだ炎のチラつくブリキ缶の上にセットすると、色の落ちたリュックサックからインスタントコーヒーを取り出し、茶色く染みたマグカップを二つ、テーブルの上に並べる。
吉田障子はただ呆然とするばかりで、次第にふつふつと怒りが込み上げてくると、目の前に置かれたマグカップを工場の床に払い落とした。
「ざけてんじゃねーぞ!」
「どうした」
「お、小野寺文久を始末するだと……? ざ、ざけんじゃねぇ、無理に決まってんだろ、簡単に言ってんじゃねーよ! そんなこと出来るかよ!」
「確かに難しいかもしれん」
「そうじゃねぇだろ! ただの一般人である吉田真智子とは訳が違ぇ! 百歩譲ってあの蛇のように警戒心の強い男を上手く殺れたとする、だが当然賞賛なんぞクソ喰らえだ、テメェの人生もそれで終わりなんだよ! そんな愚かな真似、誰がするってんだ! クソ面白くもねぇ冗談言ってんじゃねーよ!」
「冗談ではない。いずれ決着を付けねばと思っていたんだ」
マグカップを拾い上げたキザキはいそいそと木屑を払うと、またインスタントコーヒーを準備した。カタカタとヤカンがブリキ缶の上で身を震わせる。香ばしい香りが辺りに広がっていく──。
吉田障子は胸の内に燃え上がった赤い炎が抑えられず、グッと前に伸ばした両手でテーブルを揺らし続けた。その真っ赤な怒りを彼は知らなかった。ただただ胸の内を焼き焦がす感情に、体の震えが止められなかった。
ただ、悔しい──。
常に他人を見下してきた彼は、初めて踏み躙られ傷つけられたプライドに狼狽え、辟易し、憤慨した。陰気で影の薄い男にいいようにされてしまう自分が腹立たしく、恥ずかしく、惨めだった。
許さないと、吉田障子は視線を上げた。絶対に後悔させてやると、彼は夜闇の冬空を瞳に澄み渡らせた。
「おいキザキ」
「何だ」
「やっぱりテメェは吉田真智子一人に集中してろ」
「小野寺文久はどうするつもりだ」
「あの野郎は俺の獲物だ。あの野郎だけは絶対に許せねぇ。地の果てまで追い詰めて、あの野郎の全てを奪って、そして俺を殺した事を必ず後悔させてやる──」
キザキの表情が僅かに動く。腫れぼったい瞼を持ち上げた彼は乾いた唇を縦に開いた。
「お前はいったい誰だ」
「俺は、俺の名前は白崎英治だ」
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