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第四章
白い湯気
しおりを挟む「私が妹を殺したんです」
大野木詩織はそう声を落とすと、廊下に膝を付いた。
夜の校舎は秋の早朝のようで、青い日差しが白い壁を透かし、空気がひんやりと冷たい。
丸めた背中を沈めるように、両手を合わせた詩織は「行ってください」と声を震わせた。祓え給え──。祓え給え──。
終わらない祈りが永遠の静寂に消えていく。
「君ではない」
八田英一の口調に迷いはなかった。彼女の苦悩その全てを理解しているかのように、彼の声は真っ直ぐに、ただ清々しい。大野木詩織は有難いと涙を流し、畏れ多いと唇を噛み締めた。
「何の話よ」
睦月花子は声を低くした。まさに二人の隣に立っていた彼女は、木崎隆明に肩を支えられながら、見えない世界に漂う声の跡を追った。二人の会話はまるでもう完結した物語のようで、繰り返されるオルゴールのようで、それでも何も知らない花子にとって「妹を殺した」などと聞き捨てならない。荻野新平と中間ツグミもまた二人の会話に耳を澄ましており、ただ、彼らはその涙の意味を十分に理解していた。
「私が妹を殺したんです」
「いいや、紗夜さんは生きている」
八田英一は優しげに首を振った。止まらぬ嗚咽に大野木詩織の小さな背中が震え続ける。
「あれは事故だった。君が紗夜さんを守ったんだ。大切な妹を冬の川から救い出したのは姉である君なんだ」
ぽつりと涙が落ちる。大野木詩織は首を振り返した。膝を付き、背中を丸め、両手を合わせ、黒い髪を振り乱す。喉につっかえた声がなかなか出てこない。大野木詩織は何度も何度も嗚咽を溢し、朝の空気に救い求め、そして涙を落とした。
八田英一は静かに待った。微笑み、頷き、彼女の背中を撫でる。時間は山ほどあるのだ。永遠の静寂は終わらない。
「私ではないのです」
やっと一雫の声が落ちた。青い光に溶けて消えてしまいそうな微かな声が。
英一は微笑み、また首を振る。
「君が救ったんだ。紗夜さんは君に感謝している」
「私ではない。私ではないのです。私は妹を見殺しにしようとしたのです」
一雫、一雫、と青い光に声が沈んでいく。やがて青い光が空色に透き通っていくように、詩織の声が永遠の静寂を薄く溶かしていった。
「私が妹を殺したんです」
「……橋の前の防犯カメラに映像が残っていた。まだ中学生の紗夜さんが冬の川に身を投げたあの時、君は確かに凍りついたように固まってしまい、すぐには動き出さなかった。頭が真っ白になったのだろう。ただ呆然と、それが現実とは思えないような表情で、君は川の下を見つめていた。可哀想に、まだ子供だった君の心にどれほど深い傷が付いたか。それでも君は動いた。僅かな沈黙の後、君は叫び、自らも冬の川に飛び込んだ。紗夜さんを守ったんだ。君は妹を救ったんだ。僕は君を誇りに思ってる」
「違う、違うの……。私は、私は驚いてなんかなかった……。呆然と固まっていたわけじゃなかった……。頭の中は晴天の冬空のように澄み切っていて、私はただほっと、良かったと、川に沈んでいく妹の影に胸を撫で下ろしてた……!」
英一はそっと、優しく、詩織の細い肩を両手で包み込んだ。
静寂が声に震える。涙の匂いが強くなる。
花子はやれやれと肩をすくめると、声の跡を追うのを諦めた。
「大丈夫、大丈夫だよ。君がいたから紗夜さんは救われたんだ。君が妹を守ったんだ。大丈夫だ。紗夜さんは君を愛している」
「紗夜は私のことを憎んでます。だって私が紗夜のことを憎んでたから。紗夜は昔から頭が良くて、昔から怖くて、だから絶対に私に嫌われてる事に気付いてた。だって紗夜、私なんかよりもずっと大人びてたし、色々なことを知ってたし、難しいことばっか言ってたし、私はいつも首をすくめるばかりで、ただ羨ましくて、ただ妬ましくて、ただ怖かった。だから殺したんです。だからほっとして、良かったと思って、紗夜を殺したのは私なんです」
「詩織さん……」
「手紙がありました。入学式の日に、教室の机の中に、私宛の手紙が、ノートの切れ端が折り畳んでありました」
微かな足音が花子の耳を掠める。荻野新平の肌にも届いたようで、スミス&ウェッソンM29の黒い銃口が、青い光を反射させた。
「私は怖くなって、一人でキョロキョロと何度も辺りを見渡しました。でも教室は知らない人ばかりで、だから私はすぐに手紙を閉じてしまいました」
立て付けの悪い木造の階段を踏み鳴らすような、ギシリ、ギシリ、という足音が見えない校舎の影から迫ってくる。リボルバーを正面に構えた荻野新平の体を中間ツグミが支え、花子は「しゃがんでなさい」と木崎隆明に向かって耳打ちした。
「手紙には未来のことが書かれていました。2012年一月二十日。晴天。夕刻。坂下町橋前。小坂川。大野木紗夜。十四歳。溺死。どうか紗夜を救って。お願い──」
いったい誰だ。
花子と新平は静寂の向こうに意識を集中させた。
村田みどりであれば、そこで終わってしまう可能性が高い。だが、山本千代子であれば、ここから抜け出せる可能性が出てくる。
「私はすぐに手紙の存在を忘れようとしました。だってあり得ないから。私は怖くて、ただ怖くて、手紙を捨てようとしました。妹の言ってることは相変わらず分からなくて、でもその妹が死ぬなんて思えないし、その知らせが未来から届くなんてあり得ないし、怖くて怖くて、でもどうしてもどうしても捨てられなかった。だって手紙の文字が震えてたから。それが男の字だかも女の字だかも分からなくって、でも私はそれが紗夜の友達の字だと思って、私は紗夜のことが大嫌いなのに、その誰かは紗夜のことが大好きで、紗夜を救ってと叫ぶその誰かの願いを私は忘れられなくなった」
「詩織さん、それはね、君が紗夜さんを愛していたからだ」
人影が長い廊下の向こうに現れる。青い光にぽつりと浮かんだ唇は赤く、肌は白く、髪は黒く、顔は美しい。両眼を失った花子と新平にはその姿が捉えられなかったが、ただ何となく肌に感じる雰囲気で、それが敵ではないことを察した。
「紗夜さんが姉である君を愛していたように、君も妹である紗夜さんを愛していたんだ。だからその手紙の内容がとても恐ろしくて、でもとても嬉しかった。君は紗夜さんの友達の想いを無碍にしたくなかったんだ」
「違います! 私は、私は、妹を殺そうとした。手紙を捨ててしまっていたら、誰かの願いを忘れてしまっていたら、私は妹を殺していた。私は紗夜が怖くって、大嫌いで、だから私は妹を──」
唇が塞がれる。吐息と吐息が重なり合う。
英一はただ無言で詩織の身体を正面から抱き締めた。詩織の涙が英一の唇を濡らす。英一の熱が詩織の唇を焦がす。その様子に中間ツグミは頬を赤らめてしまった。
木崎隆明はといえば相変わらず退屈そうな表情で、ただその視線のみ抜け目なく、誰にも悟られる事なく、周囲の情報を捉え続けている。新平は黒色のリボルバーを正面に構えたまま、花子は腕に血管を浮かばせたまま、廊下の向こうからゆっくりと歩み寄ってくる黒い気配に首を傾げた。
「八田くん──」
「え……?」
英一は思わず目を見開いた。見知った女生徒の黒いセーラー服が青々と眩しい朝日に照らされていたのだ。前髪が揃えられた彼女の姿は古ぼけた写真のように色褪せてみえ、それでも彼女は美しく、ただその表情は何やら憤っていた。
「ああ、やっぱり。八田くん、あなたは王子ではなかったのね──」
鈴木英子はそう言って、ツンと細い顎を上に向けてしまった。英一はただただ呆然としてしまい、新平と花子は見えない視線を重ね合わせると、肩の力を抜いた。
「こっちよ──」
鈴木英子の髪が青い日に煌めく。秋の朝の校舎は心地よく、その静寂はややもすると、騒がしい日常の始まりを予感させた──。
家庭科室の空気は冷たかった。窓の外は一面の雪化粧で、午後の陽光が白い雲を透かしている。青い炎の揺らめき。サイフォンの中で泡が弾けると、コーヒーの薫りが花子の頬を掠めた。
「どうぞ──」
白い湯気が六つ、冬の日差しに消えていく。コーヒーの薫りが強くなると、六人はおもむろに家庭科室の低い椅子に腰掛けた。ことりとカップの底が黒いテーブルを叩く。コーヒーの薫りが強くなると、六人は夢見心地に、白いカップの小さな持ち手に指を掛けた。
「いや、何よこれ……?」
花子ははっと顔を上げた。相変わらず何も見えない。ただ気分は悪くなく、コーヒーの良い薫りに胸の鼓動が緩やかになる。
「どうぞ──」
「どうぞって、アンタね……」
花子は怪訝そうに眉を顰めた。気が付けば他の者たちの気配が感じられない。ただコポコポと泡の弾ける音ばかりが耳に心地良い。花子はふぅと息を吐くと、白い湯気を味わうように、熱い匂いを舌の上で転がした。苦味と酸味の中に微かな甘さを感じる。香ばしい薫りが全身に広がっていく。
花子はゆったりと、冬空に凍えるような家庭科室で、熱い湯気を楽しんだ。そうして浮かんでくる微かな疑問に口を大きく開けてみる。何やら強い眠気を感じた。コーヒーを飲んで眠くなるとはこれ如何に。普通ならば香ばしい苦味に目が覚めるというものだろう。
まぁいいかと花子はまたコーヒーを啜った。泡の弾ける音が徐々に小さくなっていく。完全なる暗闇に青い光が灯っていく。
やがて白い湯気が空に消えていくように、コーヒーの薫りが空に薄れていくように、花子の意識がゆっくりと、遠い遠い夢の彼方へと落ちていった。
騒がしい……。
まず初めに、そう思った。
淡い陽光が薄いカーテンを透かしている。
さまざまな色彩が六畳一間に溢れている。
無限の情報が世界を混雑させている。
栗皮色に焦げた天井を見上げ、丁子色に黄ばんだ襖に視線を落とし、そうして睦月花子は乾いたベットに寝転んだまま、自分を囲む仲間たちの瞳に目を細めた。
色が音よりも騒がしい。瞳が声よりも騒がしい。
花子はまた目を瞑り、やれやれとため息をつき、そうしてよっと身体を起こした。ヌッと足を伸ばし、スッと腕を伸ばし、グッと背中を伸ばし、ゆっくりと瞼を撫でる。騒がしい色が嬉しい。騒がしい瞳が頼もしい。
「たく、朝っぱらから騒がしいわね」
そう呟いた花子は大きく目を見開くと、ゴキリと首の骨を鳴らした。
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