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第四章
陰惨な炎
しおりを挟むパチ、パチ、と火の粉が爆ぜる。腹に穴の空いた四角いブリキ缶は夏場には不釣り合いだ。ただ、その煙のおかげか、トタンの崩れ掛かった工場に陰鬱な磯の風が届くことはなかった。
寂れた漁村にほど近い廃工場は“苦獰天”の小森仁の父親がかつて営んでいた木工所跡だそうだ。天井が高いわりに、木片の散らばった内部は見渡せるほどで、それでも数十人の若者たちがはしゃぐには十分な広さだ。
工場の中央には三人の男女が座らされていた。表情は分からない。顔には黒い布袋が被せられている。後ろ手を縛られ、汚れたコンクリートの上に正座させられた三人は肩を震わせていた。そんな彼らの背中に、暗く霞んだ視線が下ろされる。左の頬に手を当てた少年は、人形のように冷たい表情で、火の爆ぜるブリキ缶から焼けた鉄の棒を抜き取った。
「ぐっううぅ……!」
巻き上がる煙には及ばない、肉の焼ける匂いは微かだった。
「うううあああつっああああっ……!」
低い男の絶叫には及ばない、肉の焼ける音は微かだった。
「名前は?」
「あああつっうううぅっあああっあっ……!」
「名前だよ、名前」
それでも音は鮮明だった。匂いが鼻の奥に染み付いて離れなかった。
鉄の棒が離れると、男は前屈みに唾液を落とした。三人の真ん中に座った長身の男だ。脱がされたスーツは既にブリキ缶の中で灰となっており、裸の上半身には塩と脂が浮かび上がっている。
「名前は?」
「わっ、我々を解放しなさいっ……。こ、このままでは、き、君たちもただではすみませんよっ……」
ブリキ缶の中で火が爆ぜる。再び男の絶叫がトタンの壁を震わせると、下着姿の女のふくらはぎを透明な液体が伝い落ちた。
「おーい、早く名前教えてくんねーと、隣のビッチがこのへん水浸しにしちまうぜ」
下卑た笑い声が工場の屋根を揺らした。大場亜香里は激しい恐怖と絶望に体を震わせ続けた。
吉田障子もまた口元に笑みを浮かべていた。ただ、その冷え切った瞳は抜け目なく周囲を見渡し続けている。笑い声を上げたのは全体の三分の一ほどで、半分は不快げに、不安げに口を紡いでおり、数名は吉田障子の行いに対する怒りに唇を震わせていた。残りは我関せずといった態度で、宗教二世である小森仁などは、三人の右端に座った老人から目を離そうとしない。
男の手のひらは赤く焼け爛れていた。皮膚はめくれ、肉は焦げ固まり、水膨れがぶくぶくと浮かび上がっている。吉田障子は一切の容赦なく、男の手に鉄の棒を当て続けた。この程度では死なないと、この男ならばショック死する可能性も少ないだろうと、吉田障子は陰惨な拷問を行い続けた。
「お前だけだって、他の二人はすぐ名前を教えてくれたよ。お前が名前を教えてくれないから、このクソ暑ぃ真夏にバーベキューパーティだぜ」
「はっ、やく、我々を解放しなさい……。い、今なら間に合いますっ……。このままでは、君たちは犯罪者として、全員捕まってしまいますよ……!」
ざわりと小さな騒めきが工場内に広がる。橋田徹はどくどくと火が血管を走るような苦痛に体を震わせながらも、順従にだけはなるまいと、何度も何度も布袋の下で唇を噛み締めた。この拉致監禁暴行の実行犯はまだ年若い地元の不良たちで、目的は学会の金だろうと思ったのだ。だが、それは不可能な話だった。
三人を乗せて学会裏の山道を走っていたセダンにはわずかな金も置かれておらず、手持ちの金もほとんどなかった。それでも大金を手に入れたいというのであれば、身代金の要求が最も現実的な手だろう。だが、それをしようとする気配は一切感じられず、そもそも人数が多すぎる為に足が付きやすく、たとえ大金に手を伸ばせたとしてもその後の実刑は免れない。橋田徹は、この若者たちはいわゆる軽虜浅謀で、ただ何となく、無鉄砲に、この凶悪な犯罪行為に手を染めてしまったのだろうと考えていた。その為、順従となるのは危険だった。
いついつまでに大金を用意しておけと、間抜けにも解放してくれるのであれば結構。だが、もし八田弘と大場亜香里が人質に取られた状態で、学会の金を持ってこいと命じられた場合、最悪二人が殺されてしまう可能性があった。学会の外に隠された金を動かすのは不可能であり、だがそれが不可能だという話をこの若者たちは信じないだろう。実行犯付き添いの元、山麓に向かった筈の自分が学会に戻れば、大事になるのは想像に難くない。そうなった場合、自暴自棄となった若者たちが何をするか想像もできない。その最悪の事態を避ける為にも、決して順従にはならず、およそ統率などとれていないだろう若者たちの良心に賭けてみた。ほんの小さな心の迷いが生じてくれればいい。それでこの無鉄砲な計画と共に集団は瓦解するだろう。そう思った橋田徹はただひたすら苦痛に耐えながら、黒い布袋の下から、くぐもった声を上げ続けた。
「ま、まだ、間に合います……。我々を解放しなさい……」
「めんどくせぇな、名前ぐらい早く言えや」
「我々を解放するのです……。こ、このままでは、君たちは犯罪者に……」
「犯罪者はテメェらだろうが! なぁおい、信者から金毟りとって、女囲って売春させて、そうして稼いだ金を家ん中に隠してんだろ? 脱税だって重罪だっつの。俺たち“鬼龍炎”はテメェらが汚ねぇことして集めた金を貧困家庭や宗教二世に配ってやろうと思ってんだ。義賊だよ、義賊。テメェもさっさと改心して、世の為人の為、善行に勤しめや」
「わ、我々は、宗教法人ではありません……。脱税など、出来るはずがない……。ば、売春などと、そんな謂れのない中傷は決して許しませんよ……! 分かったのなら、早く我々をっ……」
ジュッと皮膚の水が爆ぜる。橋田徹のくぐもった絶叫が火の爆ぜる音と重なる。
「たく、宗教関係者は息を吐くように嘘を吐きやがる。なんなら手じゃなくて、お前のアソコを焼いてやろうか」
「ほ、本当に、我々は……」
「なら舌だな。いや、目か。見て見ぬ振りも立派な罪だぜ。なぁ麗奈ちゃん、コイツらは女の敵だよな」
吉田障子はそう言って、背後を振り返った。脚の不揃いなテーブルが一つ。拷問を正面に見据えるようにキザキが、左右の椅子ではそれぞれ倉山仁と三原麗奈が体を震わせており、数人の男がテーブルを囲むようにして手を前に重ねている。
「麗奈ちゃんもやってみるか?」
赤く焼けた鉄の先がテーブルに向けられる。麗奈は首を振ることもできず、ただ耳をぎゅっと塞いだまま、喉を震わせ続けた。
吉田障子はやれやれと肩を落とした。そうして軽く頭を下げる。それは正面に座ったキザキに対して忠誠を示すような仕草で、工場に集まった暴走族たちの視線は、顔を紫色に腫らした麗奈にではなく、腫れぼったい瞼を下げようとしないキザキに向けられていた。
青く冷めていく鉄の先が下ろされる。向かう先は右端に座った老人の手だ。
「うわっ! うわあああああああああっ!」
八田弘は喚いた。老人のパンツは既に汚物に塗れており、吉田障子は眉を顰めると、老人の皮膚を掠めさせた鉄の棒をそのまま地面に叩き下ろした。
「名前は?」
「ぼ、ぼぼ、僕の名前は八田弘です!」
「お前じゃねーよ。隣の男だよ」
「か、彼は、彼、彼の名前は橋田徹! 橋田徹! 橋田徹です! ごめんなさいごめんなさい」
八田弘はそう叫ぶと、何度も何度も頭を下げた。その様はあまりにも滑稽で、不快で、哀れで、集まった若者たちは一様に言葉を失ってしまう。
吉田障子もまた呆気に取られていた。老人の態度に違和感があったのだ。もしや影武者ではないかと、目の前の老人の存在自体が疑わしかった。だが、もし本当に老人が影武者であるとするならば、既に舞台の全容が漏れていたということになる。それは流石にあり得ないと考えた。何より警察の気配が一切感じられない。実のところ警察の介入も彼の舞台の内にあった。だが結局、元“苦露蛆蚓”の山田春雄が警察に通報することはなく、それならそれでいいと、ここまでストーリーを進めてきたのだった。
間抜けな老人の態度は舞台の予定にはなかったことだ。それが彼を困惑させた。そしてもう一つ、彼を焦らせる要因があった。
吉田障子は工場の出入り口に目を細めた。現れるならば正面からだろうと。キザキと小森仁には事前に伝えてある。だが、待てども待てども吉田真智子の影は現れなかった。
鉄の棒をブリキ缶に落とした吉田障子は軽く舌打ちをした。そうして彼はそっと左の頬を薬指を当てた。
早瀬竜司の拳が潮風を切る。それを軽くかわした清水狂介はスマホでマップを開いた。山の奥へと続く細い道が記されている。おそらくはここが目的地の漁村なのだろうと、狂介は海岸を背に白い建物を見上げた。
「おい、この辺にお前たちの仲間は住んでないか」
「はあ?」
「溜まり場はあるかと聞いてるんだ」
「死ね!」
とっと息を吐いた早瀬竜司は右足を軸に腰を捻った。まるでジャブを放つような速さで左ハイキックが繰り出される。右腕でそれをガードした狂介はゆらりと左手を前に伸ばした。そのままの勢いで右のハイキックを入れようと上体を回した早瀬竜司は、咄嗟に腕を上げると体を後ろに倒した。掌底を警戒したのだ。清水狂介の打撃はゼロ距離から相手の意識を削いだ。
「曲芸師か」
早瀬竜司が軽やかなバク転で距離を取ると、狂介は左手を前に構えたまま、スマホを耳に傾けた。数十秒の沈黙。おもむろにスマホを下ろした狂介はふるふると首を振った。
「幸平と連絡がつかん」
「ああ?」
「とりあえず山道を進んでみるか」
「ああんっ?」
「それらしい場所を見つけたらすぐに知らせろ」
「殺すッ!」
再びハイキックが繰り出される。バックステップで距離をとる狂介に対して、回し蹴りを喰らわそうとした竜司は片足立ちのまま「あ?」と動きを止めてしまった。広い歩道先の空き地に緑色の軽自動車が停まっていたのだ。それは狂介が最近よく遊んでいた女友達の車だった。
「なんでアイツの車がここに……」
「どうした」
「うっせぇ!」
空中で止まっていた足が振り下される。狂介がそれを避けると、竜司もまた一歩距離を取り、緑色の車の影を横目に睨んだ。
「どうなってやがる」
金にがめつい女を紹介してくれと言ってきたのは吉田障子だった。“火龍炎”との抗争に協力してもらいたいからだと。竜司は特に躊躇うことなく、スマホにずらりと並んだ名前の中から、最近連絡を取り始めた風俗嬢の女を紹介したのだった。その女の車が、まさに抗争の最中にある今、決戦の街からは遠く離れた田舎の空き地に停めてある。よく見れば釣り人たちの錆びた車に混ざるように、見覚えのある車がチラホラと目に映る。あまりの怒りに歯を剥いた竜司はスマホを手に取ると、もはや狂介のことなどは視界に入っていないかのように、声を低く唸らせた。
「おいぃ、孝之助」
「──どうした。清水狂介はもう倒したのか」
「決戦はどうなった」
「──まさに佳境といったところだが」
「あのクソガキはどうした」
「──なんだ?」
「モチヅキとかいうキザキの下っ端野郎はどうした!」
「──アイツなら来ていない。それどころか“苦獰天”は六割も集まっていない。まったく困っ」
スマホが灰色の空に弾ける。道に叩き付けられたのだ。画面がステンドグラスのように薄い陽光を反射させると、それを海に向かって蹴り飛ばした竜司は猫のように身を翻し、バイクに飛び乗った。
「あの野郎、ぶっ殺してやる」
排気音が海岸線に轟く。黒い影が山に向かって動き出すと、清水狂介もまた白い波を背に、カワサキZ400GPのアクセルを捻った。
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