王子の苦悩

忍野木しか

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第四章

現実証明

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 小野寺文久は考えた。
 失った右腕の感覚。自分という存在。黒色のリボルバーの重み。夜の校舎の空気。
 皮膚に鼓動を感じる。息を止めれば苦しくなる。右腕に痛みはない。目に見えるもの全てが現実的である。
 自分は生きていて、死ぬことができて、死なずともよくて、ここは自分の知る現実ではない。
 試したいと思った。考察を深めるには実験が不可欠だから。この未知の現実があの知恵遅れの妄言の証明となり得るか。小野寺文久は己が世界の広がりに心臓の高鳴りを抑えきれなかった。
 校舎に音はなかった。
 長い廊下は溢れんばかりの陽に暖かく、ただ、窓に映る景色は鉛筆で描かれた風景画のように寥々としている。過ぎ去っていく教室に見覚えはなく、ただ、それが教室だということに疑いはない。階段を下りた二階は夜闇に浮かんだ星々が美しく、一階は朝焼けの中で空気が冷たかった。
 鼻歌まじりにリボルバーを指で回しながら、職員室を覗き込んだ小野寺文久は、おや、と眉を上げた。髪を乱した女性が職員室の真ん中で膝を付いていたのだ。
 それは凄まじい光景だった。まるで爆撃にでもあったかのように教員机が四方八方に散乱しており、油性の絵の具でもぶちまけたかのように床がてらてらと赤黒い。血みどろの床に子供の手足胴体がバラバラと散らばった様は地獄の厨房とでも表現出来ようか。髪を乱した女性は何やら一心不乱で、子供たちの体を並べるのに忙しそうだった。よいしょ、よいしょと、大事そうに抱えた短い腕を、達磨となった男の子の肘に合わせる。両眼のない男の子にはビー玉を合わせ、女の子の足は何処だろうかと血の海に目を凝らす。
 小野寺文久は舌打ちした。担任である高野真由美の愚行に苛立ちを覚えたのだ。彼女は大真面目に肉塊となった教え子たちの体を繋げ合わせようとしていた。
「先生、何やってんすか」
 血がヒタヒタと文久の上靴の底を滑らせる。高野真由美は血の海を見渡すのに夢中なのか、彼の声に反応しない。仕方なく文久は、真由美の肩をリボルバーの銃口で突いてやった。
「おーい、何やってんのって」
「お、小野寺くん……?」
 高野真由美はあっとバランスを崩した。もう随分と長いこと下を向いたままだったのだろう、彼女の背中は丸く固まってしまっているようだった。
「どれがどれか、ちゃんと分かって並べてるんすよね」
 小野寺文久はそう言って顔を顰めた。悪臭が凄まじかったのだ。血と脂に塗れた高野真由美は感覚器が麻痺しているのか、臭いを気にする素振りもない。その表情は一見すると疲れ切った老女のようで、もはや彼女に惹かれるものはないと、文久はリボルバーの引き金に指を当てた。すると、高野真由美の赤黒く汚れた指先が文久の足に伸ばされる。
「小野寺くん……。小野寺くん……」
「おい離せや! 汚ねぇって!」
「くっつけるの、手伝って……。くっつけるの、手伝って……」
「はあ?」
「皆んな、困ってるの……。だから、くっつけてあげないと……」
 高野真由美はそう言うと、またヒタヒタと手を血に染めながら、生徒たちの体を並べ始めた。視力すらも鈍ってしまっているのか、せっせと女生徒の肘に男子生徒の足を合わせようとする様子は滑稽を通り越して腹立だしい。無能な大人は本当に救いようがなく、それでも文久は、一応は担任であった彼女に最後の希望でも持たせてあげようかと、その肩に優しく手を置いてやった。
「先生、先生」
「小野寺くん……?」
「これは夢です。ここは現実ではありません。だから皆んな大丈夫です」
 溢れんばかりの光が文久の顔に浮かび上がる。その自信に満ち溢れた笑顔には人を導く魅力が備わっており、文久自身がそれを十分に理解していた。
「夢……?」
「ええ、夢です。ほら見てくださいよ。はっはっは、僕の右腕も無くなっちゃってるでしょ? でも、夢だから大丈夫なんです!」
「夢……夢……」
 真由美の体から力が抜けていく。ヘタリと腰を血の海に沈めた真由美は脂まみれの手をおでこに当てると「ああ……」と安堵の息を吐いた。
「良かったぁ……。先生もね、おかしいなぁって思ってたの……。ああ、良かったぁ……」
「良かったですね。皆んな大丈夫です。だって夢の中だから」
「お、お、小野寺くんの腕も、探してあげなきゃだよね……。無くなってたら、お、お母さんが心配しちゃうから……」
「大丈夫ですって。目が覚めたら元通りですよ。夢の中なので何があっても大丈夫です」
「そっかぁ、夢なんだもんね……。ああ、早く朝にならないかなぁ……」
「大丈夫です。大丈夫ですよ。朝は来ますから」
 そう微笑んだ文久は、真由美の背中にリボルバーの銃口を合わせた。
 実験開始。果たして死を意識していない者に死は訪れるのか。肺を撃ち抜かれた彼女の生死は如何に。ここがそういう現実であるのならば、死を免れる可能性も大いにあり得ると、文久はそう考えていた。
「夢です。これは夢ですよ。先生」
「ああ、良かったぁ……」
 文久は笑いを堪えつつ、引き金に指を当てた。同時に凄まじい衝撃が文久の体を折り曲げる。痛みを感じる間もなかった。上下左右の感覚を失うと、自分の身に何が起こったのかさえ分からぬままに、文久の体が血の海に倒れ込んだ。まるで巨大な蛇に巻きつかれたかのような。血の海に額を擦り付けた文久は、とにかく苦しいと必死に空気を求めた。苦しい。苦しい。
 大蛇の力が緩む。浅い呼吸を繰り返した文久はその本能で冷静さを取り戻すと、いったい何が起こったのかをやっと理解した。誰かの足が、文久の首を左腕ごと締め上げていたのだ。うつ伏せに倒されていた文久は、その誰かの力によって完全に身動きが取れなくなっていた。もはやこの状態から反撃の術はないだろう。文久は強い恐怖心を覚えるも、それでも冷静に思考を働かせた。
「それを何処で手に入れた」
「はっ……はっ……?」
「それは俺の銃だ」
 左手からリボルバーがもぎ取られる。文久は何とか声を上げようと首の位置をズラした。
「あっ……はっ……あ、あの……! す、すいません、でしたっ……! ひ、拾っただけで……ぬ、盗むつもりなんて……はっ、はっ……なくって……!」
 スミス&ウェッソンM29のシリンダーに弾が込められていく。荻野新平は片手で器用に黒色のリボルバーを取り回しながら、締め上げていた少年の言葉の意味を考えた。
「ここで何をしていた」
「わっ……分かりません……! 皆んな、死んでてて……! 先生、動かなくって……! はっ、はっ、俺……ぼ、僕……どうすればいいか、分かんなくって……!」
「なぜ彼女に銃を向けた」
「せ、先生が……先生が疲れたって、言うから……! ぼ、僕も……ど、どうすればいいか、分かんなくって……! だから……ぐっ……ら、楽になりたいって、いうから……! ど、どうしようも、なくって……!」
 荻野新平は視線だけで職員室を見渡すと、その凄惨な光景に目を細めた。
 バラバラとなった子供たちの体が血溜まりに横たわっている。机等は壁際に弾き飛ばされており、凄まじい異臭が立ち込めている。ただ、床を濡らす血の量に関わらず、壁や天井は比較的綺麗だった。つまり、幸か不幸か、子供たちは逃げ惑うことすら許されず、一瞬のうちにその儚い命を絶たれたのだろう。
 床に向かって項垂れていた女性は全身が血に塗れていた。子供たちの体に触れて回った為だろうか。ただ、五体は無事のようで、ヤナギの霊である村田みどりと遭遇した可能性は少ない。ここを訪れたのは惨劇の後か。自分や、自分の真下にいる少年と同じように。
 少年の身なりは綺麗だった。床に倒しているために血と脂に塗れてはいるものの、髪には艶があり、肌には張りがある。
 左手でリボルバーを腰のホルスターに仕舞った新平は、少年の処遇を考えるよりも先に、少年の艶やかな黒髪を掴み上げた。それは怒りからだった。
「嘘を吐くな」
 野獣の唸り声が文久の頬を撫でる。うつ伏せの状態で髪を引っ張られた文久は瞳に涙を溜めつつ、それでも冷静に悲鳴を上げてみせた。
「う、嘘じゃないっ……です……! ぐっ……本当にっ……! せ……先生がっ……はっ、はっ……楽にしてっ……て……!」
 血と臭気の惨劇に動揺せず、同級生であろう子供たちの死体に一瞥もくれず、担任らしき女性の背中に銃口を向ける。強襲を受け、反撃不可能と見るが否や、何も知らない演技を始める。窒息ギリギリに首を締め上げられた状態で、一切の抵抗を見せず、投げ掛けられた質問に対して理路整然と嘘を並べていく。そんな少年の冷徹さに怒りが抑えられず、また、哀しかった。その一貫した行動は明らかに少年の本性によるもののようで、それが新平には可哀想に思えた。そのような性を背負わされた少年の人生が哀れだった。
「せ、先生っ……! 先生っ……助けてぇ……!」
「どうした」
「あ、悪魔に食われちゃうよぉ……!」
 文久は声を裏返らせると、バタバタと手足を動かし始めた。哀れな少年の心が崩壊寸前にあることを示唆するように。
 文久の脳裏にあったのは旧校舎の大広間で出会った彫りの深い青年の姿だった。自分と同じくらい長身で肩の広い彼が木剣を振り回す様には流石の文久も呆気に取られてしまい、その経験から気狂いの演技に賭けてみたのだ。無意味な質問を続ける新平に殺意がないことは既に分かっていた。拘束さえ緩めば体格差で何とかなるだろうと、油断させて後ろから首を掻っ切ってやろうと、文久はくねくねと体を動かしつつ、ポケットに入れてあったナイフの位置を確かめた。
「はっ……はっ……。い、嫌だぁ……! あ、悪魔に、食べられる……!」
「おい」
 文久の顔がグッと上に向けられる。そうして新平と目が合った文久は敢えて白目を剥いて見せるも、新平の口から飛び出してきた言葉に唖然として演技を中断してしまった。
「お前、小野寺文久か……?」
 新平もまた愕然と目を見開いていた。少年の顔が衆議院議員である小野寺文久の顔と重なったのだ。
「まさか……」
 小野寺文久が一年D組の生徒だったということは聞き知っていた。だが、集団失踪事件があった当日は風邪で学校を休んでいたという話で、新平はその事を疑いもしなかった。それは新平が心霊学会自体に何の関心も抱いていなかったからだ。学会を裏で操る小野寺文久の存在は確かに快く思っていなかった。ただ、彼の過去について興味を持ったことなどなく、集団失踪事件についても同様で、こうして巻き込まれて初めて多少の感懐を抱きはしたが、事件そのものについてはやはり興味を持てなかった。
 新平は瞬時に理解した。そして警戒した。悲劇の生き残りは一人ではなかったのだ。小野寺文久はまだ少年の時分で、世間を巻き込むような大規模な情報操作を行なっていた。
「あ、あの、もしかしてお父さんのお知り合いですか……?」
「なんだと?」
「僕のお父さんです……」
 小野寺文久は声色を変えた。動揺していたのだ。まさかこの野獣のような男が自分を知る人物だとは思いもしなかった。父親の知り合いか、もしくは学校の関係者か。哀れな少年の演技など不要だったかもしれない。そう思った文久は激しい屈辱感から血管を膨張させてしまうも、それでも冷静にこの場から逃れる方法を考え続けた。
「お、小野寺健文って、あの、お父さんは一応県議会の議長なんですが……。ご存知ありませんか……?」
 先程までとは打って変わった猫撫で声である。文久はその名に媚びる人間を幾人も見てきたのだ。
 新平の顔に再び憤怒の形相が浮かび上がる。後に国の支配者たる地位に就くこの小野寺文久という名の青年は、既に蛇が如き狡猾さを身につけようとしていた。ただ、再び首を締め上げるのは躊躇ってしまう。それは文久の処世術に少年の幼さが見え隠れしていたからだ。老獪さなどは微塵もない。背丈はあれど骨は柔らかい。彫りの深い顔を包む肌はもっちりと水を弾くようで、小野寺文久はほんの子供だった。
 新平は苦悩した。この青年の道を正してやることが出来るかもしれないと思ってしまったのだ。今まさに大人である自分が彼の進むべき道を率先して示してやるべきではないかと。容姿と体格に恵まれ、頭が良く、家柄も良い。その性根さえ立ち直らせることが出来たならば、自分のような野良犬が如き存在と違って、本当に皆から慕われる立派な大人へと成長を遂げてくれるかもしれないのだ。そんな彼の輝かしい未来を、新平は願ってしまった。
「ぐっ……」
 脇腹に鈍い痛みが走る。刺されたのだ。少年の右手に握られた折り畳み式のナイフで──。
「ははっ……! 思った通りだ……!」
 文久の高らかな笑い声が天井にぶつかる。首の拘束がさらに緩むと、そのバネのような筋肉を跳躍させた文久は、新平の体を横に突き飛ばした。
 新平は決して油断していなかった。常識ではあり得ないようなことが起こったのだ。小野寺文久は確かに右腕を失くしていた。それを見間違うほどに新平は冷静さを失ってはいなかった。だが、実際に失くしていた筈の文久の右腕は今やその位置に存在しており、文久の右手に握られていたナイフが新平の腹に突き刺さったのだ。
「死ねよ。おっさん」
 素早く体制を立て直した文久は、脇腹に左手を当てた新平の背中に飛び掛かると、その首に腕を回した。そのまま締め殺してしまおうと。だが、新平の背中に覆い被さるようにして前屈みになった文久は、背負い投げの形で簡単に投げ飛ばされてしまう。再び血の海に倒された文久は、抵抗する間も無く新平にマウントを取られると、怒りに任せて怒鳴り声を上げた。
「退けやテメェ! コラッ!」
 新平の左拳がゴッと文久の顔に入れられる。文久は呻くと、両手で鼻を抑えた。
「おい」
「ま、待って……」
「なぜ右手がある」
 奇妙な質問だと、新平は脇腹の痛みを堪えつつ、頬を引き締めた。新平の右手もまた家庭科室でヤナギの霊に切り落とされてしまっていたのだ。
「あ、あったら、おかしいですか……?」
「おかしいだろ。お前は確かに右腕を──」
 新平は咄嗟に左腕で頭をガードした。誰かが職員室に飛び込んできたのだ。その誰かが新平の背中に突進すると、傷を負った脇腹と頭を守りつつ、新平の体が血溜まりを転がった。
「新平ッ!」
 そう怒鳴り声を上げたのは八田英一だった。廊下に待機させておいた中間ツグミもいつの間にか職員室に足を踏み入れている。新平は瞬間、英一の無事に安堵の表情を見せるも、すぐに血まみれの床を蹴ると英一の腰に飛び掛かった。黒い光を見たのだ。英一の背後で立ち上がった小野寺文久の右手には黒色のリボルバーが握られていた。
 銃声が響き渡る。
 44レミントン・マグナムが職員室の壁を貫くと、次の銃声が轟く前に、新平の左手が文久の右手首を押さえた。だが、すぐに新平は異変に気がつく。文久の右腕が再び無くなっていたのだ。
 文久の左手が宙を切った。表情を変える間もなく、迫り来るナイフの切っ先を避けた新平は、腰のホルスターに指を触れた。確かにリボルバーはそこに仕舞われたままだった。
「どういうことだ」
「頭かてぇよ。おっさん」
 文久の右腕が現れる。まるで始めからそこにあったかのように。青年の右手に握られた黒色のリボルバーが火を吹くと、新平は咄嗟に英一の体を庇った。銃弾はあらぬ方向へと飛んでいく。「チッ」と舌打ちした文久は、銃撃の反動に痺れた腕を振ると、職員室を飛び出ていった。
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