王子の苦悩

忍野木しか

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第三章

王子様もどきクン

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 吉田障子は左の頬に指を当てた。徳山吾郎の方からこちらに接触してくる可能性は予想していなかったからだ。だが、別段に取り立てるほどの事でもないだろうと、腕を下ろした吉田障子は彼の元に歩み寄ってやった。
「あっれぇ、たしか徳山先輩っすよね? 俺になんか用っすか?」
「もう止めにしたまえよ」
 徳山吾郎は表情を変えない。冗談に付き合うつもりはないようだ。吉田障子は面倒臭そうに目を細めると、腹の底から低い声を出した。
「失せろ」
 吾郎の頬が引き攣る。それでも彼は拳を握り締めたまま引き下がらない。ふぅっと息を吐いた吾郎は黒縁メガネのブリッジに中指を当てると、冬の夜空のように冷え切った吉田障子の瞳を睨み下ろした。
「なぁ麗奈さん、僕には君が分からないよ。今の君は単なる破壊者だ」
「あ?」
「小さな世界を守る事こそが君の目的ではなかったのかね」
「よく分かってんじゃねーか」
「だからこそ分からないんだ。今のままでは最終的に君が愛してやまないその小さな世界すらも、君自身の手で焼き尽くしてしまうことになるぞ。それが分からぬ君ではないだろうに」
「お前程度の男に俺の舞台の何が分かる。俺はいつでも俺を守るためだけに働いてんだよ。だからなぁおい、これ以上余計な口出しするようならよ、お前のことも舞台から引き摺り下ろしちまうぞ」
 吾郎は足を震わせた。やはり諭すのは不可能かと。それだけ吉田障子の瞳の色は暗く、不安定で、女性だった頃よりも彼の心は自己を蝕む負の感情に呑まれてしまっているようだった。
 吾郎が黙り込むと、吉田障子の口元に冷たい笑みが浮かび上がった。弱者を痛ぶる嗜虐心に打ち震えているかのような。だが、それはまた彼自身の手首に浮かんだ血を嘲笑っているかのようでもあった。
「お前さ、こそこそといつもいつも俺の邪魔ばっかしてくるけどさ、そんなに俺のことが嫌いなのか?」
「いいや、ただ君が心配なだけだよ」
「はあっ? あっ、あははっ、超ウケるんですけど。心配だっつって邪魔ばっかしてくるとか」
「本当にそれだけなんだ」
「きもっ、それってただの綺麗ごとじゃん。ほんとは復讐のくせに」
「復讐だって?」
「紗夜のこと好きだったんだよね。だから俺のことが許せなかったんだ」
「好きだったなんて……。い、いやちょっと待て、許せなかったとは……? まさか、まさか、本当に君が彼女を……?」
「なわけないだろ!」
 甲高い絶叫が響き渡る。暗い雲を突き破るセイレーンの声が。今や吉田障子の瞳には憤怒の炎が燃え上がっていた。それは大地を黒く焼き尽くす業火のようで、また暗く凍てついた大地を溶かす太陽ようでもあった。
「なわけない! なわけないって!」
「す、すまない」
「なんでお前っ……! もう、もういいじゃん! 紗夜は生きてんのに!」
「ち、違うんだ。大野木さんのことは本当に何も関係ないんだ。ただ僕は君のことが心配で……」
「もういいって! お前が、お前程度の男が、調子に乗ってんじゃねーよ! 何が、何が心配だよ。心配って、心配くらい誰にでも出来るって。心配したいってんなら勝手に一人でしとけって! お前程度の男じゃ何も変えられないんだよ!」
「僕は何もそんな大層な話を……」
「お前、お前って前の時もそうだったよな。何でもありませんよみたいな顔して、こそこそこそこそと、ああもう鬱陶しい! 何だっけあれ、あの変な部活、幽霊研究部だっけ? 簡単に潰してやったかと思ったらさ、尻尾の切れ端がうにょうにょと動いてて、ほんっと気色悪かったし! なんなんだよお前、まさかあれも俺への当て付けだったのか? それともまさかあのバカ女、あの女に何かさせようって魂胆だったのか?」
「あ、あの女とは……? 僕は別に何も……。ただほら、ちょっと彼らが可哀想だったというか……」
「へたくそな惚け方してんじゃねーよ! ああ、そういえば前の時も、お前は誰だとか何とか惚けてやがったな……。はぁ、そういうことですか。なーんで知らないフリしてんだろって思ったけど、やっぱりあの女を使って俺を潰してやろうって腹だったわけですか」
 青い氷の影が吉田障子の瞳の炎を覆い隠していく。吾郎は足が凍りつくような恐怖を覚えると同時に、喉が焼け付くような激しい怒りに打ち震えた。
「違うぞ! それだけは断じて違う! 僕は本当にただ君が心配だっただけなんだ! どうして君はいつもいつもそうやって悪い方へ悪い方へと物事を考えていってしまうんだね。少しは他人の言葉を聞いてみる努力をしてみたまえよ!」
「あー、うるせぇうるせぇ、お前ってほんとうるせぇよ。他人の言葉なんて無価値だよ。自分の言葉でさえ吐かれた瞬間には過去の遺物だっつーの。たとえ自分を完全に理解出来てるような超人がこの世にいたとして、そいつの思考と感情がほんの一秒先の未来で狂っちまわない可能性が何処にある。自分のことすらも完全に信用できないってのに、どうすれば他人のことなんて信用できんだよ」
「それは屁理屈ってやつさ。君はただ臆病な自分を屁理屈で誤魔化してるだけなんだ。人は一人では生きていけないなんて、小学生の子供が道徳の授業で習うような話を今更するつもりはないがね、君もいい加減自分の殻から這い出る努力をしてみてはどうだ。誰でもいいから私を助けて、と一度大きく空に手を伸ばしてみるといい、そうすればきっと君も……」
「殺すぞ」
 吾郎はうっと押し黙ってしまった。調子に乗り過ぎたと後悔しても遅い。三原麗奈という人間は冷酷で非道で残忍な普通の少女だったのだ。睦月花子のような鋼の心を持っているわけではない。いいや、彼女の心はガラス細工の置物よりも脆い。ただただ彼女はその儚い心がために、情け容赦の一切を捨てる羽目に陥ってしまっているのだ。調子に乗り過ぎれば本当に自分も排除されてしまうだろうと後悔しても今さら遅い。
 いや、本当にそうなのだろうか。
 それならば、あまりにも遅過ぎるのではあるまいか。
 微かな疑問を覚えた吾郎はゆっくりと視線を上げると、鼻の上でズレた黒縁メガネの位置を直した。
「君は、君はどうして僕を舞台から下ろそうとしないんだ」
「はあ?」
「君がその気になれば、いつでも僕を排除出来ただろうに。ずっと前から僕が鬱陶しかったというのであれば、どうして僕を舞台の上に残し続けているんだね」
「なんなら今すぐにでもお前を引き摺り下ろしてやろうか──」
 そう声を低くした吉田障子の瞳の色が薄くなっていく。目の錯覚かと黒縁メガネを押し上げた吾郎は慌てたように大きく首を横に振った。
「い、いやいやいやいやいや、ま、待ちたまえ! 君ほどのお方が僕のような小物を気にする必要なんてないのさ!」
「カス野郎が」
「ふむ……。いやはや僕がカス野郎だというのには大いに同意させてもらうよ。ただね、いやこれは別に他意はないんだが、もしや君は止めてほしかったのではあるまいか」
「なんだって?」
「君の企みをこの僕に止めて欲しかったのではあるまいかね」
 そう言った吾郎はまた黒縁メガネのブリッジに中指を当てた。真剣な表情である。暫しポカンと口を半開きにしていた吉田障子は徐々に表情を崩していくと、突然腹を抱えて爆笑し始めた。
「ぷっ……! くっく、あはは、あはははは……! き、君が? 私を止めるって? それを私が期待してたって? あはは、もー、ありえないってば!」
 溢れ出る感情が抑えきれないのか、地面にしゃがみ込んだ彼はなんとか呼吸を整えようと下唇を噛み締めていた。その様は何処か滑稽で、哀れで、言葉を失った吾郎は呆然とした表情で彼の頬を流れる涙を見つめ続けた。
「あはは、あーもう、ほんとおっかしい……。君ごときに何が出来るってのよ……。君こそ誰かに助けを求めろって話よ……。あんなバカ女じゃなくってさ、もっと頼りになる人間が身近にいるでしょーに……」
「なぁ麗奈さん、もう一度だけ聞かせてもらうが、君の目的はいったいなんなんだ」
「あー、単なる破壊者ってのはいい線いってんじゃない? まー、君ごときじゃ私の舞台の全容は掴めないでしょうけどね」
「君が心霊学会を潰そうとしてるのだろうということは想像できる。だが、街の暴走族を従えてる理由は分からない」
「……それ、どうやって調べたわけ?」
「い、いや、単なる想像だよ。君が暴走族と繋がってるって話は相当な噂となっているからね。まぁ他の連中は君のことを暴走族のパシリか財布ぐらいにしか思っていないようだけど、ほら、僕の場合は君の正体を知っているからさ」
「ふーん」
「最大規模の抗争が今日起こるっていう話も聞いているよ。いや、どうにも話の広まり方が尋常ではないようだ。学生たちが噂に花を咲かせるどころか、警察までもが動き回っているそうではないか。まさかこれも君の計算の内だったりするのかね?」
「計算の内だったらどうだっていうの?」
「それは……。いや、やはり僕なんかでは見当もつかないな。どうかこの非力な僕に教えてみては貰えないだろうか?」
「あはは、ばーか、教えるわけないってば。君はただ指を咥えて見てなさいよ」
「心霊学会が潰れていくのをかい?」
「だーかーら、君は黙って見てろって話です。……あー、つーか、そろそろ時間だから行くわ」
 吉田障子の声に落ち着きが戻っていく。やっと呼吸が戻ったのか、背筋を伸ばした彼は曇り空を見上げると背後の黒いバンを振り返った。
「じゃあな、王子様もどきクン」
「ま、待ちたまえ! では、大場亜香里の存在はいったい何だと言うんだ!」
「ああ?」
「君は大場さんと仲が悪かっただろう。いったいどうして彼女と接触なんかを……」
「いい女だからさ」
 そう言った吉田障子は口元に冷たい笑みが浮かび上がる。彼が背中を向けると、吾郎はあらん限りの声を上げた。
「戻ってきなさい!」
 だが、吉田障子は振り返らない。吾郎にはそれ以上何も言うこと出来ず、ただ彼はジッと過ぎ去っていく黒い影を目で追い続けた。
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