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第三章
思春期の乙女の妄想
しおりを挟む木造の校舎はとうに寿命を迎えた大樹のように脆く、いつ底が抜けてもおかしくないような状態にあった。一階でありながらも体が沈んでいくような感覚を覚えた花子は壁に触れていた手に力を込める。旧校舎の道のりは記憶にあるものよりも長く感じられ、それを頭の中の地図に思い描きながら花子は足を急がせた。
「ここだ」
木崎隆明の声が旧校舎の広間に消えていく。彼に手を引かれながら広間へと足を踏み入れた花子は見えない背後を振り返った。どうにも旧校舎は縦にだけでなく横にも広いようで、もしやこの時代には裏の空き地が存在せず、中庭と呼ばれる場所にあのヤナギの巨木が存在しているのではないかと、花子は目元に巻かれた包帯を指でなぞった。
「出口はおそらく舞台の裏にある」
そう言った木崎は花子の手を引きながらゆっくりと広間の端のステージを上がっていった。その動作はまるで歩き始めたばかりの赤子を支える父親のようで、イライラと歯軋りした花子は大きく一歩足を踏み出すと、逆に木崎の体を引っ張ってやった。
「たく、アンタは介護士か」
「いや、危ないと思って」
「こんな低い階段の何が危ないってーのよ」
「いや舞台の裏が……って、ちょっと止まっ」
花子の重心がガクンと崩れる。急に左足の感覚がなくなったのだ。いや、沈んだというべきか。とにかく目の見えない花子には何が起こったのか分からず、木崎はといえば花子の圧倒的な腕力と体重に引き摺られるままに、二人の体がステージの裏側へと落ちていった。
「いったた……。なんだっつーのよ……?」
目元の包帯を押さえながら花子は手探りで状況を探った。どうやらそこは段ボールの上のようで、何やらフローラルな香りとともに埃っぽい臭いが鼻につく。木崎ものそりと起き上がると、無意識に手に取っていたカラフルな衣装を段ボールの中に押し込んだ。
「舞台裏には隙間があって、物置になってるんだ。衣装の上で助かったよ」
「それを早く言いなさいよね! 危うく間抜けな死に方するところだったじゃないの!」
なんとか立ち上がった花子は周囲に腕を伸ばした。幅はおよそ二メートルほどで、山積みの段ボールに足の踏み場がほとんどない。
「で、その出口ってのは何処にあんのよ?」
「壁の中だ」
そう言った木崎は正面の壁を叩いた。太い柱を叩いたような低い音が返ってくる。花子の手を引きながら狭い舞台裏を右に進んだ木崎はまた壁を叩いた。すると今度は高い振動音が返ってくる。まるで中に空洞があるかのような。
「戦前は体育館だったらしい」
「はあん?」
「空襲で焼け落ちたそうだ。だから新たにここが建てられた」
「新たにってどういうことよ。ここって旧校舎でしょ?」
「三十五年も前の話だ。急造だったらしいし、もう随分とガタが来てるから、五年ほど前に隣に新校舎が建てられたんだ」
「ふーん、この時代から五年前ってことは1974年か。てか、嘘でしょ? ここが旧校舎になってから四十年間ずっと取り壊されずに残り続けてたってこと?」
「なんの話をしてるんだ」
「私たちって2014年から来たのよ。その時代にもここはここのままってわけ」
「まさか……」
「信じられないでしょうけど事実よ。まぁ多少狭くなってたりもするけど」
「いや、信じるよ」
木崎の口元に小さな笑みが浮かぶ。それを見てやることは出来なかったが、彼の声に生まれた微かな抑揚に、花子はニヤリとした笑みを返した。
「アンタって意外といい男ね。顔を見られないのが残念だわ」
「顔を見たらそんな感想は生まれないだろう」
「はん、まぁなんだっていいわよ。てか、んなことよりもアンタ、ここが体育館だったって事と出口になんの関係があんのよ?」
「この壁の向こうは防空壕と繋がってる」
「防空壕ですって?」
「ああ、防空壕は校舎の外の用水路に続いている。だからこの壁を壊して防空壕の中を進んでいけば外に出られるかもしれない」
「……なんでそんなこと知ってんの?」
「この空洞が気になって調べた。ここで殴られてた時に偶然見つけてさ」
抑揚のない声だ。一切の感情が込められていないような。
花子は腕を組んだ。やはりこの男は何処か怪しいと。だが、自分達を助けようとしているのは事実のようで、邪念や敵意といった表面的な悪意は一切感じられない。おそらくはもっと根本的な何かが狂っているのだろうと、口を紡いだ花子は鼻から深く息を吐いた。
「それで君さ」
「花子よ」
「ああ、花子さんは未来から来たと言っていたか」
「言ったわね」
「何があったんだ」
ステージ裏を出た二人は保健室に戻ろうと足を急がせた。このまま荻野新平ほか二人の捜索に向かおうかとも思ったが、残してきた者たち安否が心配であり、また姫宮玲華の機嫌さえ戻れば捜索も安易になるだろうと考えたのだ。
「アンタってヤナギの霊は知ってるわよね?」
「戦前の霊がヤナギの木に出るっていう噂話なら」
「アンタの同級生がヤナギの霊のはずなんだけど、ほら、村田みどりって女よ」
「村田が幽霊だと?」
「アンタって確か王子って呼ばれてるのよね。てことは村田みどりとも仲がいいんでしょ。彼女、何か変なところはなかったかしら?」
「何も変なところなんてないさ」
その声には確かな抑揚があった。彼から伝わってきた憤りの気配に、思わず歩く速度を緩めた花子は壁に手をついたまま木崎の腕を軽く引いた。
「悪かったわね。アンタの友達を馬鹿にしようってつもりはなかったのよ」
「君は素直だな。俺も別に怒っているわけじゃないんだ。ただ彼女が普通の女の子だってことは分かって欲しい」
「へぇ、そう。なら少しだけ悪意のある質問をさせてもらうけど、ここにアンタらを連れ込んだのって村田みどりなのよね。もうその時点で普通じゃないし、もし村田みどりがアンタらを殺そうとしてるんだとしたら、それって相当ヤバい奴なんじゃないの?」
「村田に悪意はない。提案したのはウチのクラスの連中で、ただ彼女は純粋に遊んでいるだけなんだ」
「遊んでるだけって……。つーか、ここっていったい何なのよ?」
「さぁ、彼女は夢の中だと言っていたが」
「ふーん、随分とはっきりした夢ね。それに、やっぱりその村田みどりって女は普通じゃないわよ」
「彼女は普通だ」
「アンタって生まれ変わりの話とかは聞いてないの? 私らの時代だと、ヤナギの幽霊は戦中にこの学校で死んだ山本千代子の生まれ変わりだってのが定説になってんだけど。その千代子が十何年かの周期で生まれ変わりながら、この学校に現れ続けてるんだとか何とか」
「まさか村田の生まれ変わりがアンタの仲間の中にいるのか?」
そう言った木崎は立ち止まった。花子がそのまま数歩進むと、その凄まじい力に木崎の体が宙を舞ってしまう。
「やっぱアンタ何か知ってるのね」
「村田はよく永遠の未来の話を俺に聞かせてくれた」
「永遠の未来?」
「生まれ変わりだよ。彼女は俺と永遠の未来を生き続けるんだと、いつも目を輝かせていた」
「へぇ、ロマンチックじゃないの」
廊下の壁に背中を預けた花子は口元に笑みを浮かべた。ただ僅かに強張った笑みである。永遠の未来を二人で生き続けるなどと話自体はかなりロマンチックだったのだが、どうにもそれを話す木崎の口調が他人事のようだったのだ。その淡々とした口調から、彼が村田みどりの話を全く信じていないであろうことを花子は感じとっていた。
「私の仲間には……そうね、いるようないないような……」
「君の世代では誰がそのヤナギの霊とやらなんだ」
「色々と複雑なのよ。吉田って奴のお母さんがそうじゃないかって結論に至りそうだったんだけど、今のところはまだ探してる最中って感じかしら。ああ、それとさっき泣き喚いてた女がいたでしょ? あの女、姫宮玲華って言うんだけど、あれも自分のことをヤナギの霊だって言って聞かないのよ」
「あの人が村田の生まれ変わりだって?」
「あり得ないと思うでしょ。村田って女とは似ても似つかないとかね」
「いや」
「ヤナギの霊ってのはどうやら四人いるらしくって、山本千代子に、なんちゃら英子? そんで村田みどりでしょ、後は吉田のお母さん。五人目が姫宮玲華だの、六人目が何処かにいるだの、ほんっと私らの時代ってヤナギの霊問題で複雑になってんのよ。まぁ超研の部長である私としては張りのある毎日に満足してんだけどね」
花子の指の骨がバキバキと音を立てる。木崎は腫れぼったい瞼を徐々に閉じていくと、少し疲れたような笑みを浮かべながら、抑揚のない声を花子に返してやった。
「そうか、それは大変だな」
「大変だっつの。夏休みだってやる事が山積みだったってのにこんな所で両眼を潰されて、まぁ手足焼かれて腹刺された前回よりは軽傷だけども、アンタの友達も他の奴らと同じようにいっぺんシバいてやらなきゃならないわね」
「他の奴ら?」
「山本千代子と英子よ。てか、村田みどりもそうだけど、ヤナギの霊の生まれ変わりって皆んなここを彷徨っているらしいのよね」
「そうだったのか」
「アンタ、ぜんぜん信じてないでしょ……?」
「信じてるよ。さぁ、そろそろ皆んなのところに帰らないと」
木崎はそう言うと、目の見えない花子の腕を優しく引いていった。花子はといえば怪訝そうな表情で、それでもさして抵抗することはなく彼の後をついていった。
旧校舎を抜けると、花子たちの足音が体育館に続く渡り廊下へと流れていった。温かな日差しを頬に感じた花子は、校舎を包む静寂に耳を傾けながらため息に近い声を漏らした。
「なーんで信じてくれないのかしら。現に私たち、怪異に巻き込まれてるじゃないの」
「信じているとも。アイツは本当に生まれ変わっていたんだな」
「信じてるっつーか、信じようとしてあげてるって感じじゃない。もしかして何か引っ掛かることでもあんの?」
「別に、ただ俺はそういった話が好きなんだ。君は物語を読む際に、あえて矛盾を探すような野暮な真似をする人なのか」
「それって信じてないって意味じゃないのよ。いったい何が気に食わないっての?」
「気に食わないわけじゃない。俺は本当に村田の話が大好きだし、ただ、考え過ぎてしまう自分に嫌気がさしてるだけなんだ」
「まぁ確かに色々と矛盾は感じるわよね。なーんで四人目が生きてんのに五人目が出てくんのかとか」
「俺は彼女が彼女の望み通りに生まれ変わっていて欲しいと願ってるんだ」
「願ってるって、どういう意味よ?」
「そういう意味さ。ただもしかすると生まれ変わりではないのかもしれないとも考えてしまう」
「生まれ変わりじゃないですって? でも現に、千代子、英子、村田みどり、吉田ママってヤナギの霊たちが生まれ変わってるじゃないの」
「千代子と英子の話は俺も村田から聞いている。その霊たちがここを彷徨っていて、王子である俺を取り殺そうとしているという話も」
「らしいわね。私も実際に真っ黒な山本千代子ともっさりヘアの英子をぶっ倒してるわけだし、でもならやっぱり生まれ変わりは起こってるってわけじゃないのかしら?」
「では、彼女たちは誰だ」
「はあん?」
「魂が存在するとして、それが別の誰かに生まれ変わっているのだとして、どうして彼女たちの魂がここを彷徨い続けることになる。本当に生まれ変わっているのだとすれば、千代子と英子とはいったい誰なんだ」
木崎は立ち止まらない。だが、花子は足を止めそうになった。
確かに彼の言う通りである。生まれ変わっているというのであれば、山本千代子の魂がここを彷徨っている筈ないではないか。
「でも、それならヤナギの霊ってのはいったい何なのよ? 彼女たちの人格は同じなんでしょ?」
「分からない。ただあの人も、姫宮玲華さんもまた村田の生まれ変わりだというのであれば、俺はそれを信じるよ」
「はん……。まぁ、姫宮玲華に関しては再考の余地があるわけだけれど。現にあの子自身がそれを否定しちゃってるわけだしね。つーか、そうよね、よくよく考えてみれば全てが妄想だって可能性もあり得るのよね。思春期の乙女の妄想ってやつよ」
「いや、どうだろう」
「たわいもない話よ。別にいいじゃないのよ、妄想ぐらい」
花子はそう言うと、ニッと明るい笑みを口元に浮かべてみせた。それを横目に振り返った木崎は「そうだな」と優しげな笑みを返した。
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