王子の苦悩

忍野木しか

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第三章

薄い月の明かり

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「そうか、春雄くんがやられたか」
 そう言った吉田障子はスマホを片手に左の頬を撫でた。
 夜の教室である。月は薄い雲のベールに隠れ、僅かばかり光芒が教室に並んだ机を照らしている。とうに日の暮れた校舎はただ街灯のない山奥よりも濃い暗闇の中で、確かに溢れていたはずの日常の記憶が夜を深まらせていた。
「──そうかじゃねーよ! もう我慢ならねぇ、今すぐ“火龍炎”のクソ野郎どもに思い知らせてやる!」
「落ち着けって竜司くん、あっちも主力メンバーの長谷部幸平を失ってんだ。状況的には五分だから、明日の決戦でキッチリと正面から奴らを潰してやろうぜ」
「──チッ」
 早瀬竜司の舌打ちがスマホ越しに生々しい感触を伝えてくる。憤ってはいるようだが、とりあえずは痛み分けということで納得してくれたらしい。
「それで竜司くん、明日は大丈夫なのか?」
「──ああ? 大丈夫なのかってそりゃどういう意味だ?」
「作戦の話だよ」
「──大丈夫に決まってんだろ! テメェの方こそ大丈夫なんだろうな?」
「俺は問題ない。作戦通り別行動させてもらうよ」
「──へ、作戦通りね。孝之助の指示だから大人しく従ってやってるけどよ、そもそもお前の作戦とやらはまったく意味が分からねぇ。どうしてそこまで細かくメンバーを分ける。わざわざ非力な女を使う。──てかよ、本当にあの女で大丈夫なのか? 確かにいい身体はしてるが、お世辞にも可愛いとは言えねぇぞ」
「身体が重要なんだ。それにあの女は性格もいい。しっかりと仕事はこなしてくれるさ」
「──金にがめついビッチの性格がいいって? へ、相変わらず意味のわかんねぇ野郎だぜ」
 声が途切れる。
 途端に時が止まったかのような静寂が夜の教室に訪れる。
 ふぅと息を吐いた吉田障子は制服のズボンにスマホを仕舞った。じっと暗闇に目を凝らしていると並んだ机が溶け合っていくような奇妙な錯覚に囚われてしまう。その不気味さが不安を生み、甚だしい寂寥感となって小さな胸を締め付けてくる。そんな寂しさが心地よいと、吉田障子は窓辺の机の上で自嘲気味な笑みを浮かべた。のそりと腰を上げた彼は誰もいない教室を後にする。大場亜香里からのラインメッセージがうるさかったのだ。


「もー吉田くん、遅いよ」
 大場亜香里のハスキーな声が四階の教室に響く。灯りはない。ただ普段であれば閉じられている筈の白いカーテンは開け放たれており、雲透きの月光が心霊現象研究部の部室の埃をほんのりと浮かび上がらせていた。
 吉田障子は唖然として言葉を失った。部室の中央の机に腰掛けていた大場亜香里の長い手足が白い光を放っていたのだ。ショートヘアの彼女はそのアーモンド型の目を気怠げに細めており、机に乗せた左足の太ももに頬を擦り寄せている。ほっそりとした指は深海を揺らめくクラゲの触手のようで、彼女の肢体から発せられる艶かしい匂いに、夜の教室は虚無的な悲嘆の間から官能的な欲望の間へと変貌を遂げていた。
「ねぇ、どーしたの?」
 彼女は裸だった。一糸まとわぬ純白の肌が夜闇に透けてみえる。乱暴に脱ぎ捨てられた制服が机の横に散らばっており、その歪さがまた男の情欲をそそった。大場亜香里は天性の才で、自身の色香を最大限に高めていた。
「いい女だ」
 吉田障子の口元に笑みが浮かび上がる。背筋を凍りつかせるような冷たい笑みが。
 大場亜香里は左足を下ろした。張りのある乳房が揺れる。肩から腰にかけてのシルエットは月の光に折れてしまいそうなほどに細く、なだらかで妖艶な影は夜の闇に消えてしまいそうなほどに儚い。
「ねぇ、どーしたいの?」
 大場亜香里の長い足がそっと床に触れる。微かな熱の波が乾いた夜の空気に広がる。赤いインクが水に溶け込むように。一雫の雨が水面に波紋を広げるように。
 吉田障子はゆっくりと首を横に動かした。その瞳には欲望の影が広がっている。それでも、彼の口元に浮かんだ笑みは冷静だった。抱きたいとは思うものの、胸を焦がすほどの激情とはならない。彼を突き動かす感情は怒りであり、焦りである。その根源たる感情は果てない恐怖であり、深く打ち込まれた楔が情欲の本能を抑え込んでいた。
「君って、本当に男の子?」
 大場亜香里は呆れたように腕を組んだ。無防備に開かれた足の隙間から薄い毛に隠された陰部が露わになっている。それは禁断の果実か。秘密のベールが男の本能をくすぐる。
 実の所、吉田障子は男としての感情の制御に自信がなかった。いつどこでまた抑えきれない感情の渦に飲まれてしまうか分からない。早いところ切り上げた方がよさそうだと、頭を掻いた吉田障子は肩をすくめてみせた。
「ああ、我慢できねぇよ」
「なら抱きしめて」
「いいぜ。ただし全てが終わってからな」
「あたしは今がいい」」
 大場亜香里の影がゆらりと揺れる。
 熱と熱が触れ合うのは流石に不味いと、吉田障子は左手を前に出した。
「今はダメだ」
「どうして?」
「俺が骨抜きにされちまう」
「ふっ、あはは、君ってほんとに面白いね。でも大丈夫だよ。明日はあたしが全部なんとかするからさ」
「へぇ、自信はあるようだな」
「だってあたしだから。あたしを無視できる男なんていないよ」
 そう言った大場亜香里は長い指で自らの乳房を撫で上げた。桃色の先端が彼女の赤い舌に向けられる。仄暗い月の光芒。むせかえるような妖美な匂いが吉田障子の腹の底を熱くする。
「……確かに、亜香里先輩に興味を示さない男なんてこの世に存在しねぇだろう」
「でしょ?」
「でも、明日はそれだけじゃねーんだ。亜香里先輩はあの野郎を上手く外に誘導しなきゃならねぇし、俺も俺で動かなきゃならねぇ」
 その言葉に大場亜香里は唇を閉じた。張りのある胸に指を食い込ませたまま、アーモンド型の目を細めてみせる。
「本当にあの引きこもりのお爺ちゃんを外に連れ出せるのかな?」
「ああ、俺の言う通りにすれば全て上手くいく」
「ふーん、どうだろうね。あたしはあそこで襲われそうな気がしてならないんだけど?」
「そうなっちまったら終わりだな。現場を押さえられなきゃ意味がない」
「なら」
「だからこそ俺は動き回った。あの野郎が外に出たくなるような状況を作り出した。あそこは今や、あの野郎にとっての安息の地ではない。折伏騒動で法華経の奴らが、イジメ騒動でマスコミの奴らが、心霊学会の本殿に連日のように詰め掛けている」
「ちょ、ちょっと待ってよ。まさか君があの折伏騒動を……」
「そして何より国税局の動きがある。いつ本殿に査察調査の捜査員がなだれ込んでくるか分からない。そんな状況であの野郎が呑気に先輩を抱けるはずがない。だからあの野郎は必ず先輩を外に連れ出す。先輩はあの野郎を落としてくれるだけでいいんだ。その天性の才能であの野郎の本能をくすぐってくれ。先輩の美しい身体を抱きたくて堪らないと、あの野郎の理性をぶち壊してくれ。それで俺たちの勝ちだ」
 黒い影が白い光を呑み込んでいく。大場亜香里はゆっくりと長い腕を下ろした。そうして彼女は神の使える淑女のようなたおやかな仕草で、足元の下着を拾い上げた。
「俺たちの勝ちか。ふふ──」
 ネイビーブルーの下着が大場亜香里のふくらはぎを撫でる。彼女の白い肌は鼓動に弾んでいるかのようで、その淫靡な光は隠されるほどに強い熱を帯びていった。
「ああ、先輩はいつも通りでいい」
「でも、もしもだよ。もしもあたしの身体があのお爺ちゃんに汚されちゃったら、それは君にとっての負けになるんじゃないかな?」
「だな。それだけは絶対に俺が許さねぇさ」
「うふふ、ならしっかりあたしを迎えに来てよね、王子様」
 赤い舌が黒い影を舐める。吉田障子はゾッと背筋を凍らせた。だが、すぐに冷静さを取り戻した彼は左の頬に指を当てる。今の彼女の言葉に他意はないと。ネイビーブルーの下着が彼女の陰部を覆い隠すと、その白い肌から視線を逸らすように、吉田障子は窓の外を見上げた。
「……ああ、そうだった。もう一つだけ先輩に大事な話があったんだ」
「何かな?」
「街には警察が多いと、あの野郎に伝えておいてくれ」
 吉田障子の漆黒の瞳に夜空の影が映る。大場亜香里は形の良い胸をブラジャーで上向きに支えながら、彼の口元に向かって首を傾げた。
「警察?」
「ほら、最近パトカーが多いだろ。万が一にも王子様が迎えに行く前に、お姫様の乗った馬車が近衛兵に止められちまえば、全てが台無しになっちまう。だからあの野郎には、街にパトカーが多いということをしっかりと伝えておいてほしいんだ」
「うん、分かった」
 大場亜香里はショートヘアの髪をかきあげると、ニッコリと楽しげな笑みを浮かべた。吉田障子も微かに頬を緩めると、自信に溢れたような男の微笑を彼女に返してやる。
 ちょうどその時、街に鳴り響くパトカーのサイレンが四階の校舎を震わせた。いや、今までさして意識を向けていなかった警戒音がやっと彼女の耳に届いたと言うべきか。吉田障子の言う通り、このところ街には白い車体が溢れかえっているようだった。いったい何があったのかと、大場亜香里は下着姿のまま教室の窓を振り返る。だが、窓の外は普段通りの様相で、薄い雲のベールに隠れた月が皓々と夜空を照らしているのみであった。

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