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第三章
秘密の扉
しおりを挟む光が迫っている。
漆黒の影を呑み込む純白の光が。
八田英一は走った。脇目も振らず、ただただ必死に、フラつく体を前に引き摺っていった。右手に握り締められた女性の手のひらが熱い。黒い影とも白い光とも違う赤い熱。その熱が英一に残された僅かばかり正気を保たせていた。
出口はあるのだ。そうだ、それはおそらくは体育館にある。
英一はかつての記憶を呼び覚ましながら階段を駆け下りていった。青い光に包まれた体育館。バトミントンの羽を飛ばす女生徒たち。突如として現れた長身の浮浪者──。
父のかつての親友である戸田和夫は“抜け穴”からこの学校に侵入したと言っていた。心道霊法学会の教祖であり、この学校の教師でもあった父がその存在を認知すらしていなかった“抜け穴”がここにはあると。それは恐らくヤナギの霊たちも認知していない秘密の扉であろう。誰も知り得ぬその“抜け穴”こそが夢と現実を繋ぐ唯一の架け橋となっているのだ。この真っ赤な桃源郷から、黒い影から、迫り来る純白の光から、生徒たちを、仲間たちを、愛すべき人たちを救い出せるノアの方舟となっているのだ。
西日が階段の一段目を照らしていた。転ばぬようにと手すりに掴まりながら、一階の廊下に下り立った英一は昇降口の日差しに目を細める。決して手の届かぬ光。下駄箱に並んだ上履きが陽光に浮かび上がって見える。その中にひっそりと自分の名前が隠れているのではないか。そんなことを思った英一は足を止めてしまった。睦月花子の手によって破壊された筈の美術室の壁には亀裂の一つも見られない。理科室へと続く廊下は舞い散る埃に静かだった。
「こ、こっちだ!」
英一は慌てたように校舎の東側に視線を動かした。体育館に繋がる渡り廊下は旧校舎との間にあり、そこにいく前に職員室に隠れさせていた生徒たちを助け出さなければならない。
英一は背後の女性の手を引いた。女性の手のひらは夏の日差しを十分に浴びた大理石ように熱く、その絶え間ない鼓動が英一の胸を痺れさせた。
「さぁ早く!」
英一は足を踏み出した。影が廊下の壁に伸びていく。陽光に煌めく埃は空中で動きを止めてしまっており、完全なる静寂の中で黒い影のみが形を変えていった。
女性は動かなかった。だらりと力のない腕はされるがままに、足を前には踏み出さない。英一は焦ったように後ろを振り返った。
「真由美せんっ……」
そうして英一は絶句した。見知らぬ女生徒が背後に立っていたのだ。見覚えのない誰かが上目遣いにこちらを見つめている。決して離すまいと握り締めていた手の温もりは高野真由美のものではなかった。上下が黒で統一されたセーラー服。前髪を散切りに揃えられたような彼女の表情は古ぼけた写真のように色褪せている。
「ああ、やっぱり。八田くん、あなたが王子だったのね──」
女生徒の瞳に涙が浮かび上がる。左右に盛り上がった髪を大きく揺らした彼女は恍惚とした表情をしており、手のひらの熱は細かく脈打っている。
「大人になったんだね──」
「き、君は……」
「ああ、王子──」
女生徒の唇が近づく。張りのある瑞々しい唇が。
吐息が頬を撫でる。鼓動に茹でられたような熱い吐息が。
彼女の純白の光には若々しい情熱が溢れていた。ただ、その表情とは裏腹に、彼女の声は捻れ絡み合った枯れ木のごとく黄昏れている。
英一は恐怖した。彼女の口調から、表情から、影から。彼の置かれた状況から、時間から、領域から。彼女がヤナギの霊である事を察したからだ。
「誰なんだ……?」
だが、分からない。彼女の言葉の意味が分からない。彼女の手のひらの熱が理解できない。
女生徒は一瞬、虚をつかれたような表情をした。ゆっくりと目を細めていった彼女は悲しげに首を振ると、抑え切れない怒りに悶えるかのように、厚い唇の内側で奥歯を噛み締めた。
「あの女なのね──」
「女……?」
「あの女、あの魔女、あの悪魔──。あの女が王子の心を操っているのね──」
厚く瑞々しい唇の底から、細く乾いた声が巻き上がる。木枯らしに舞い散る紅葉のように。
「それともまさか、あの男が──。あの男が王子に何かしたの──」
「い、いったい何の……」
「だから、だから言ったのに──、あの二人を入れるのは止めにしましょうよって、お願いしたのに──」
「だから、君はいったい何の話を……」
「姫宮さんと戸田くん──。あの二人を天文部に入れるのは止めにしましょうよって、あたし、王子にお願いしたの──」
英一は言葉を失った。様々な記憶が頭の中に入り乱れる。正気と狂気の狭間で思考が揺れ動く。天文部とは……。王子とは……。
「君は……、君はもしや……、鈴木英子さん……?」
「ああ、王子──。やっと、やっとあたしのことを思い出してくれたのね──」
鈴木英子の言葉が英一の脳裏を反復する。ほんの刹那の、無限の時の中で、彼女の熱が英一の手のひらを焦がした。彼女の瞳には純白の光が瞬いていた。およそ51年前に行方不明となった女生徒は、その表情を変えることなく、夜の校舎を彷徨い続けていた。
ヤナギの霊は勘違いをしている。自分を、学生時代の父が成長した姿だと勘違いをしている。
英一は慄いた。そして考えた。
鈴木英子がヤナギの霊であっただろうことは既に聞き知っていた。彼の父である八田弘はその話を忌み嫌っていたが、代わりに、父の後輩だった戸田和夫がよく聞かせてくれた。
そうだ、戸田くんとは恐らく、戸田和夫のことだ。では、姫宮さんとはいったい。それほどポピュラーな苗字ではないだろう。その響きからどうしても姫宮玲華の端正な顔を思い浮かべてしまう。それに鈴木英子は先ほどその人物のことを魔女や悪魔と呼んでいた。心を操っているとも。もしやあの神秘的な存在である姫宮玲華という女生徒は、51年前からこの学校にその魔性の微笑を湛えていたのだろうか。
「ああ、ああ、王子──」
震えた声。英一の肌が泡立つ。思わずその熱い手を振り払った英一は、彼女の黒い影から逃げるように後ろに下がっていくと、首を横に振った。
「ぼ、僕は王子ではないんだ……。僕は八田英一なんだ……」
「いいえ、あなたは王子よ。あたしの王子様。あたしたちはずっと、永遠に、一緒なの──」
「違うんだ。き、君は、君は勘違いをしている。僕は八田弘ではないんだ。八田弘は僕の父で、僕は、僕の名前は英一なんだ!」
「あなたは王子なのよ。大丈夫、大丈夫だから、あたしが守るから。あたしが悪い魔女からあなたを守り続けるから──」
「違うんだ!」
叫び声が校舎に響き渡る。気が付けば英一は走っていた。自分は八田英一だと、自分には守るべき生徒たちがいるのだと、英一は永遠の校舎を走った。生徒たちは何処だと、迷い込んだ者たちの影を探しながら、何度も何度も同じ言葉を呟き続ける。
僕は王子ではない、と──。
「うるさいってのよ!」
睦月花子の怒鳴り声が職員室の壁を突き抜けていった。その細かな反響音から扉の位置を把握した花子は、正面に並んでいた教師の机を蹴り避けると、握り締めていた鋼鉄の拳を振り下ろした。
「きゃああ!」
職員室の扉が廊下の壁に叩きつけられる。同時に、風鈴の弾けるような悲鳴がリコーダーの不快音を掻き消してしまう。今まさに職員室の前を横切ろうとしていた姫宮玲華は、突然目の前を横切った扉に戦々恐々とした面持ちである。
リノリウムの廊下に足を踏み下ろした花子は「チッ」と舌を打ち鳴らした。潰れた両眼を押さえつけるようにして巻かれた白い布が青い陽に照らされる。既に花子はその野生的本能でエコーロケーションを体得しており、舌打ちの反響音から廊下を歩いていた人物が二人であることを把握していた。その内の一人が姫宮玲華であろうことも察しがついている。だが、もう一人の人物については検討がつかない。何やら女性的な匂いが漂ってはくるものの、息遣いや足音は男性的である。再びリコーダーの不快音が辺りに響き始めると、取り敢えずその性別すらも分からぬ誰かにローキックを食らわせた花子は、姫宮玲華らしき人物に向かって声を荒げた。
「いったい何だっつーのよ、このドアホ!」
「え、部長さん……?」
「アンタって姫宮玲華でしょ。この非常事態にリコーダーなんかで遊んでんじゃないわよ!」
「ち、違うもん!」
「何が違うってのよ?」
「その変態が、あたしの言うこと聞いてくれないだもん!」
姫宮玲華の白い頬がほんのりと赤くなる。その様子は見えないものの、花子は全てを察したように腰に手を当てた。この女性的な石鹸の香りは水口誠也が掴んで離さなかったセーラー服によるもので、耳をつんざくような不快音も彼が拾ってきた誰かの縦笛によるものだろうと。
姫宮玲華は「Arrête! Un cochon!」とよく分からない言葉を叫び続けており、いつまでも鳴り止まない笛の音にうんざりした花子は、左のハイキックを水口誠也の頬に軽く叩き込んだ。
「たく、変態が。余計な仕事を増やすんじゃないっつの」
残心。目の見えない花子に油断はない。
「うわっ、すっごーい! 部長さんのその目って、みどりに潰されたんだよね? やっぱり記憶がリンクしてるの?」
「はあん?」
「記憶で見てるんでしょ? でも、その状態でどうやって意識を保っていられるのでしょう……」
姫宮玲華の声色が変わっていく。何が何やらと、再び頭痛を覚えた花子は額に手を置いた。
「何も見えてなんかないっつの。音と匂いで物と位置を把握してるだけよ」
「へー、そんなんで簡単に変態を倒せちゃうんだ」
「つーか、記憶って何よ、記憶って」
「記憶は記憶だよ。誰の記憶かは分かんないんだけど、なんかこの校舎で意識を失うとね、誰かの記憶と脳がリンクしちゃうの」
「リンクしちゃうってアンタねぇ、ただでさえ頭が痛いってのに、訳わかんないこと言ってんじゃないわよ」
「ほら、あたしって一千年くらい前にさ、戦前の高峰茉莉の記憶を思い出して死の淵を彷徨ってたことあったじゃん」
「……それって、まさかアンタが知恵熱で倒れた時の話?」
そう首を傾げた花子は額に手を置いたまま、ひと月ほど前の夜の教室での出来事を回想した。
「その時にね、誰かの記憶があたしの頭の中に流れ込んできたんだよ。初めは他の魔女の攻撃を受けてるのかなって思ったんだけど、どーにもそんな感じじゃなくって、あ、これってもしかして誰かの記憶とリンクしてるのかなって」
「いや、全く意味が分かんないんだけど……。なんで意識を失うと誰かの記憶とリンクしちゃうのよ」
「あたしにだって分かんないもん。でも記憶がリンクしてるからこそ、目が潰されちゃったお人形さんたちも動けてるわけで……。ああ! そういえば伝えなきゃいけないことがあるんだった! あのね部長さん、校舎の時間が動き始めてるから、皆んなで一緒に行動しないと迷子になって危険なの!」
「分かったから、その高い声で叫ぶのだけはもう止めなさい。アンタの声ってほんっと頭に響くのよ……。てかさ、それって単にアンタがそういう夢を見てたってだけの話じゃない?」
「ううん、あたしもそれを疑って、色々と実験してみたの。そうしたらやっぱり皆んな夢の中で誰かの記憶を見てるみたいで、あたしの仮説は正しかったんだなって確信を持ったんだよ」
「実験?」
「うん! ほら変態さん、réveille-toi,Un cochon!」
姫宮玲華の細い指の先が水口誠也の額に向けられる。すると、パチリと目を見開いた彼はキョロキョロと辺りを見渡し始めた。その様子を視認できない花子は首をかしげるばかりである。
「いや、アンタはさっきから何語を話して……」
「Fais de beaux rêves,mon cochon chouchou!」
バタリと水口誠也の体が廊下に倒れる。その音に花子はビクリと肩を跳ね上がらせた。
「アンタ、まさか……」
姫宮玲華の弾けるような声に、水口誠也の体がのそりと起き上がる。バタリと倒れる。のそりと起き上がる。倒れる。起き上がる。倒れる……。風鈴のような音色。まるで歌でも歌っているかのような。対照的に水口誠也の声は一向に聞こえてこない。
コイツ、まさか人体実験を……。
ゾッと口を紡いだ花子は肩を落とすと、哀れな変態に同情しつつ、見えない光に向かって深く息を吐き出した。
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