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第三章
青い拳
しおりを挟む赤い拳が空を舞う。その動きは変幻自在で何よりも速い。
山田春雄はひたすらに青いグローブで顔をガードし続けた。眼前に迫り来る兄の拳が怖い。そして、陽光を透かす清流のような兄の残影から目が離せない。
まだ朝早い工場はまるで見知らぬ世界のように静かだった。リングのないコンクリートの床が素足に冷たい。普段よりも広々とした工場内の空気は軽く、だが、兄である山田夏貴の間合いの内側は狭く重苦しい。16オンスの赤い拳が重かった。春雄はただひたすらに背中を丸め続けた。
兄の右フックが春雄のボディを撃ちぬく。「コホッ」と息を吐き出した春雄は工場の床に膝をついた。
軽くマススパーリングでもやろうかという程度の話だったのに。軽く汗でも流そうかという程度の気持ちだったのに。兄の拳はあまりにも重く、速く、そして熱かった。
膝をついた弟に対して山田夏貴は何も言わなかった。ただ兄はステップを休めず、浮かび上がった汗を拭う素振りすら見せない。春雄は青いグローブで腹を押さえたまま、恐る恐る兄の顔を仰ぎ見た。兄の鋭い眼光と春雄の視線が重なる。兄は無言だった。ただジッと、拳は冷まさぬようにと、弟が立ち上がるのを待ち続けた。
春雄はゆっくりと立ち上がった。青いグローブを顎の前に。ただひたすらに赤い拳から身を守り続ける。ボディブローは食らわぬようにと、青いグローブを僅かに下げた春雄のテンプルに赤い拳が突き刺さる。脳を揺らされた春雄はフラフラと後退すると、冷たい床に尻餅をついた。だが、それでも兄は何も言わない。ただジッと、弟が拳を構えるのを待ち続ける。
赤い拳が春雄の顎を撃つ。みぞおちを貫く。頬を薙ぎ払う。山田夏貴の左ジャブが空を切る。ステップが大地を揺らす。右ストレートが火を放つ。
それでも春雄は立ち上がった。何度も、何時迄も、春雄は青いグローブを前に構え続けた。
左ジャブが眼前に迫る。春雄の体が後ろに下がっていく。赤い残影が後を追う。春雄はスウェーバックで兄の右フックをかわした。気が付けば春雄の青い拳が風を切っていた。夏の朝日に眩しい工場で、赤い拳と青い拳が無限の時を交差する。
春雄の左フックが大きく空を舞った。無防備となった春雄の顔面に兄の軽いジャブが入れられる。勇猛と無謀は違うぞと、教えてあげるように。再びガードを固めた春雄はそれでも足の動きを止めなかった。赤く重い拳を受けながら、青く未熟な拳を振り回しながら、春雄はがむしゃらに前に進み続けた。
それほど長い時間ではなかっただろう。三分十二ラウンドには遠く及ばないような殴り合いである。それでも春雄は息も絶え絶えで、足元はおぼつかず、目元には青あざが出来ていた。それでも春雄は決して青い拳を下ろそうとはしなかった。ふっと笑った山田夏貴は額の汗を拭うと、だらりと腕を下げながら、弟の間合いの中に足を踏み入れた。そうして、春雄の青々とした右ストレートをスリッピングアウェイでいなした夏貴は、鋭い左ジャブを春雄の額に撃ち込んでやった。
「根性あんじゃねーか」
そう言った兄はコンクリートの床に大の字に倒れ込んだ弟に向かってニッと優しげな笑みを送る。春雄はただひたすらに疲れ切った体で、それでも顔だけは持ち上げてみせると、兄に向かって強気な笑みを返した。
鴨川新九郎はまだ少し涼しい朝の風に目を細めた。
バイクの排気音が青々とした空の向こうに消えていく。“火龍炎”の総長である彼は、決戦を前に高ぶる心を落ち着かせようと、いつもと変わらぬ街の穏やかな景色を眺めていた。
燃え上がる赤い炎を抑えようと、黒く乾いた感情を潤そうと、見慣れた街をゆっくりとバイクで走り抜けていく。すると何やら胸の内が騒めくような寂しさに似た感情が湧き上がってくる。それは郷愁のような。莫大で漠然とした不安感だった。
いったいなぜそんな感情を覚えてしまうのか新九郎には分からなかった。分からないだけに抑えきれず、新九郎はよく見知った道に目を細めながら、記憶には新しく、そして何故だか懐かしい、睦月花子の家を目指してバイクを走らせた。睦月花子に会いさえすれば、この郷愁の正体が掴めるような気がしたのだ。睦月花子の声さえ聞ければ、この莫大で漠然とした不安感を消し去れるような気がしたのだ。
睦月花子の家は低い丘に面した坂道の途中にあった。それほど広くはない普通の一軒家である。その家に日本人離れした体格を持つ巨人のような家族が住んでいるなどと、誰も想像は出来ないだろう。もっとも、新九郎の親友である睦月花子に関してのみ、一見すると何処にでもいるような小柄で華奢な普通の少女のようではあったが。
丘の上から坂道を見下ろした新九郎はふと細く整えられた眉を顰めた。睦月花子の家の前に誰かが立っていたのだ。その誰かは遠目に見ても小柄で、柔らかそうなおかっぱ頭が風に乱れている。オドオドと落ち着きのない彼の手足はいかにも俊敏そうで、思わず「秀吉」という単語を頭に思い浮かべた新九郎は慌ててアクセルを握り締めると、坂道を走り下りていった。
「のぶくん!」
その新九郎の声に、小田信長は丸い大きな目を瞬かせた。聞き覚えのある野太い声だったからだ。だが、振り向いた先に現れたのはバイクに跨った金髪の不良であり、困惑と恐怖に足を震わせた信長は、睦月花子の家に逃げ込もうと後退を始めた。
「待ってよ、のぶくん!」
バイクを降りた新九郎はまた声を上げた。その野太い声にはやはり聞き覚えがあり、よく見れば顔の作りや表情、そして何よりその大柄な体が、信長の先輩であり親友でもある鴨川新九郎と寸分違わぬように思える。だが、新九郎の象徴とも云うべき太い眉は細く整えられてしまっており、陽に煌めく長い金髪や赤と黒の派手な特攻服などは、どちらかといえば地味な印象の新九郎とは合っていないように思えた。信長は酷く混乱してしまい、キョロキョロと辺りを見渡しながら頭を抱えてしまった。
「のぶくん、大丈夫かいっ?」
そう叫んだ新九郎は慌てた様子で信長の元に駆け寄った。大切な後輩がもしや熱中症にでも罹ったのではないかと。そうして信長の背中に手を当てた新九郎は、自身の肩にかかった長い金髪や目の前のバイク、赤と黒の特攻服に激しい違和感を覚えてしまった。いったい自分はこんな所で何をやっているのかと。自分は超自然現象研究部の副部長ではなかったのかと。
いや、思い出そうとすれば思い出せた。今日は“苦獰天”との決戦の日である。自分は大切な仲間である長谷部幸平を闇討ちした卑怯な者どもを成敗するために、バイクを走らせていたのだ。自分は「The・ライト・グリーンキューピッド」のボーカルで、暴走集団“火龍炎”の総長なのだ。そう頷いた新九郎の瞳に赤い炎が宿った。
すると、今度は目の前のおかっぱの少年に困惑してしまう。超研の頃の記憶は遠い遠い過去の出来事のようで、おかっぱの少年の名前までもを再び忘れそうになった新九郎は口元を押さえた。吐き気を覚えたのだ。記憶と感情の混在が、新九郎の心を激しくかき乱していた。
「先輩、大丈夫ですか……?」
睦月花子の家の前で新九郎がその大きな背中を丸めてしまうと、今度は信長の方が新九郎を心配し始めた。「なんでもないよ」と優しげに微笑んだ新九郎はこめかみに手を当てたまま立ち上がった。
「もしかして……のぶくん、部長を探しにここに?」
「は、はい! 部長が行方不明だって聞いて、そ、それに姫宮さんも……」
「ああ、そう言えばのぶくんって、姫宮さんの事が好きだったよね」
「ええっ!」
信長は飛び上がった。その事実を誰かに伝えたことなどなかったからだ。
信長の丸い顔から真夏の太陽よりも真っ赤な熱が放たれ始めると、新九郎は苦笑しながら坂の上に視線を送った。誰かの影が見えたのだ。此方を見下ろす長身の男の影が。バイクの排気音が響いてくると、首の骨を鳴らした新九郎は軽く拳を握り締めた。
「のぶくん、ごめん。ちょっと待っててくれる」
「え?」
「お客さんだ」
新九郎はそう言って目を細めると、赤と黒の特攻服をはためかせながらバイクに跨った。すると、新九郎の後に続くようにして、信長の小さな体が俊敏な動きを見せる。
「敵ですか?」
「の、のぶくん、降りて」
「僕も闘います!」
「ダメだ、のぶくん。本当に危険なんだ」
「僕も超研のメンバーです! 僕と先輩と部長は一蓮托生なんです! だから僕にも闘わせてください!」
信長の目は何処までも真剣だった。その瞳の光には本当に懐かしいものがあり、それが郷愁の正体ではないかと、そう思った新九郎は莫大で漠然とした不安感を胸の奥から消し去り、信長の小さな肩に手を置いた。
「分かった。なら超研の副部長として、のぶくんに重大な任務を授けよう」
「じゅ、重大な任務ですか?」
信長の表情がにわかに強張っていく。そんな後輩に向かって新九郎は優しくも力強い声を出した。
「部長を探し出してくれ」
「部長を……?」
「そう。行方不明の部長を見つけ出して、僕の前に連れてきてくれ。頼めるかな?」
「分かりました!」
そう腹の底から声を絞り出した小田信長は、ピョンとバイクから飛び降りると、歩道の木影に止めてあった自転車に飛び乗った。そうしてサッと敬礼のポーズをとった信長は颯爽と坂道を下っていった。
「待たせたな」
信長の背中を見送った新九郎はそう声を上げると、坂の上から此方を見下ろしていた山田春雄に向かって中指を立てた。
「春雄くんが一人なんて、珍しいじゃねーか」
そう言った新九郎は太い腕を上げると背中の筋肉を伸ばした。丘の上には人の気配がなく、乾いた砂と雑草に荒涼とした空き地では、派手なバイクが浮かび上がって見える。
山田春雄は無言だった。黒のつなぎ服はいつも通りペンキに汚れており、肩の力は完全に抜けてしまっている。ただその顔は青あざだらけで、迷いのない真っ直ぐな視線と共に、彼の表情は引き締められていた。新九郎もまた表情を引き締めると、軽く肩を回しながら、春雄の瞳をギロリと睨み返した。
「仲間割れでもしたのか? 春雄くん、もうすでにボロボロじゃん」
返事はない。代わりに、春雄は左拳を前に構えた。その拳に何やら青い光を見た新九郎は目を細める。
ふっと前にステップ踏んだ春雄の左ジャブが新九郎の頬を捉えた。そのままワン、ツー、スリーと目にも止まらぬ速さで春雄の拳が風を切っていく。青い拳は闇夜に揺れる炎のように澱みなく新九郎の体を撃ち抜いていった。
「へへっ、春雄くんとは一度正面からぶん殴りあってみたかったんだよな」
新九郎の巨大な拳が振り下ろされる。その動きは遅く、軽いステップを踏み続ける春雄の体には擦りもしなかった。だが、それでも新九郎は動きを止めない。ブンブンと腕を振り回す新九郎の身体に青い拳が次々と入れられていく。それでも新九郎の動きは止まらない。
背丈は同じくらいだった──新九郎の方が数センチ高い──。違うのは体格だった。体重が七十キロにも満たない細身の春雄に対して、新九郎はゆうに九十キロを超える巨漢だったのだ。技術とスピードは違えども、腕力と体力の差があまりにも大きい。その上、先ほどの兄との殴り合いで春雄は既に満身創痍だった。その拳に普段の力はなく、やがて新九郎の拳が僅かながらも春雄の体を捉え始めると、何やら不快そうな顔をした新九郎は拳を下ろした。
「つまんねーって。今の春雄くんぶっ倒しても何も面白くねーよ」
「ならお前の負けだな」
「あ?」
「お前じゃ勝てねぇよ」
再び春雄の猛攻が始まる。反応すら出来ない最速のパンチ。春雄の左ジャブが新九郎の唇を切る。春雄の右ストレートが新九郎の頬に青あざをつける。
「てめぇ……」
「どうして拳を構える。なんで慣れないステップを踏む。それで俺に勝てるって、お前は本気でそう思ってんのか?」
「なんだと?」
「どうしてタックルを仕掛けてこない。お前のその体格で取っ組み合いに持ち込めば、簡単に俺を倒せんだろ。どうしてボクサーの俺と正面から殴り合おうとする」
「へっ、その方が楽しいからに決まってんだろ。つーか、殴り合いでも俺の方が強いっての」
「ならお前の負けだ。お前らじゃ勝てない」
春雄の左フックが新九郎のテンプルを捉えた。視界が揺れるような衝撃を受けた新九郎は微かに足を震わせる。だが、新九郎は踏み止まった。激しい怒りが湧いたからだ。お前らじゃ勝てないとは“火龍炎”が“苦獰天”よりも下だという意味か。その侮辱だけは“火龍炎”の総長として絶対に許すことが出来ないと、新九郎は野獣のような咆哮を上げた。
「俺らが勝てないだと? ただ逃げ回ってただけのお前らに俺らが負けるって? はっ、笑わせんな! この卑怯者どもが!」
「間抜けが。なぜ逃げ回ってたのかを考えようともしない。やっぱお前らじゃ勝てないさ」
「呆れたぜ春雄くん、戦う前から勝てるだの勝てないだのと勝手に決めつけやがって。お前は漢じゃねぇよ」
「殴り合うだけが戦いじゃないのさ。なぁ新九郎、お前はガキだよ。前しか見えてないお前らはガキなんだ。俺たちもガキだった。だから利用された。このままじゃお前らも利用されるぞ」
「はあ?」
「俺たち“苦獰天”の敵はお前らだけじゃない。いいや、そもそもお前らなんて眼中にない。俺たちの最大の関心は心道霊法学会なんだ」
「心道霊法学会……?」
新九郎は拳を前に構えたまま眉を顰めた。その隙に、春雄の右フックが新九郎のボディを貫く。
「俺たちの戦いはあらかじめ予定された舞台の上での演劇なんだ。今日が決戦の日とはならないのがその証拠だ。決戦は明日行われ、俺たちの役目はそこで終わる」
「なんだよ、今日が決戦の日じゃない……? 役目だと……? 意味わかんねーって、それを決めんのはお前らじゃねぇよ!」
「お前の学校にいる大場亜香里が白雪姫の役だ。明日は大場亜香里が動く日だ。俺たちの戦いとは別の場所でストーリーが動いていく。だからお前らは勝てないんだ。だってお前は、お前らは、俺たちは、リングの上にすら立てていないんだから」
春雄の右ストレートが新九郎の頬に突き刺さる。だが、新九郎の太い首は動かせず、更にボディブローを入れてやろうと腰を捻った春雄の顎が僅かに持ち上がった。
巨大な拳が空を切り裂く。新九郎の青い拳が春雄の顎を撃ち抜く。そうして、岩と岩がぶつかるような激しい衝撃音と共に、春雄の体が地面に叩き付けられた。
「……なんだってんだよ、チクショウ」
そう呟いた新九郎は肩を落とすと、青い拳は握り締めたまま、春雄の目元に広がった青あざを見下ろした。
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