王子の苦悩

忍野木しか

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第三章

幻想の火種

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 夏休みの街に風はなかった。
 冷房に凍えるような書店から猛暑に焼けような炎天下への移動は長谷部幸平の気力を十分に削いでしまい、それでも幾日かの晴天のおかげか、もわりと立ち昇るような湿気はそれほど感じられず、歩道の影に隠れることさえ可能ならば若干の涼しさは感じられた。
 長谷部幸平は足を急がせた。影から影へ。だが、その不規則な動きがまた体を熱らせてしまう。幸平は、ズンズンとスタバに向かって歩みを進める三原麗奈を横目に軽く息を吐いた。視線を上げれば陽炎。視線を落とせば蝉の声。隣を歩く三原麗奈も茹だるような暑さに参ってきているようで、静かな歩道の木影で二人は暫しの休憩をとった。
 川沿いのスタバに向かうに連れて、涼しげな影が二人の歩く道を覆っていった。道幅も狭くなり、古びたアパートやらシャッターの閉じられた商店に囲まれた小道はまるで谷底のようである。その静けさがまた不気味とも思え、何やら胸騒ぎを覚えた幸平はスマホのマップを閉じると、スタバへと急ぐ麗奈のアッシュブラウンの髪を振り返った。
「ねぇ麗奈ちゃ……」
 幸平は口を紡いだ。麗奈の後方に黒いつなぎ服の集団が見えたのだ。やはり罠だったか、と視線を前に戻した幸平は、路地の影から現れたスキンヘッドの集団に目を細めた。その中に純白の特攻服は見えず、それでも彼らが“苦獰天”のメンバーだという事に気が付いた幸平はスマホをポケットに仕舞い込んだ。
「……あのさぁ、小坂川沿いのスタバから山王書店までのエリアって、僕たちのテリトリーなんだけど?」
 “火龍炎”のメンバーの一人に通話を繋げながら、そう声を張り上げた幸平は隣を歩いていた麗奈を庇うような格好で、古びたアパートの側のゴミ置き場の辺りに後退していった。もちろん、三原麗奈が“苦獰天”と手を組んで自分を嵌めた可能性もあった。だが、例えそうだったとしても、今自分がすべきことは隣を歩く女を守ることだろうと、幸平は冷静に思考を働かせた。いや、麗奈の怯えきった表情から察するに、彼女が“苦獰天”と繋がっている可能性は皆無だろう。であれば、先ほど麗奈が口にした吉田という名前の男が怪しい。そんな事を考えながら、麗奈をゴミ置き場の裏に回らせた幸平は、問答無用で襲い掛かってきた黒いつなぎの男の頬に拳を入れた。だが、集団の暴力に敵う筈もなく、すぐに膝をつかされた幸平は、背後のゴミの山に投げ捨てられるようにして地面に殴り倒されるのだった。
「お、い……。野洲、孝之助は、どこだ……?」
 幸平は視線だけを上に向ける。麗奈の存在が気掛かりだった。もしこの場に“苦獰天”の総長である野洲孝之助がいれば、一般人の、それも女性である麗奈に危害が加えられる心配はないだろうと考えたのだ。潔癖で有名な彼がそんな行為を許すはずないだろうと。だが、野洲孝之助の象徴とも言える純白の特攻服は何処にも見当たらず、幸平はなんとか時間を稼ごうと、自分を冷たく見下ろす荒くれ者たちに向かって声を絞り出した。
「はは……、なん、だよ……、お前ら、まだまだ元気そうじゃん……」
 金属バットを右手に握ったスキンヘッドの男が幸平の腹に蹴りを入れる。だが、その蹴りからは明確な悪意が感じられず、幸平は片腕で腹を押さえながらも、微かな違和感に眉を顰めてしまった。
「ま、まさか……、これ、も……お前らの、背後に……いる奴、の……作戦、なのか……?」
「やれ」
 力士のように胸板の厚いスキンヘッドの大男が冷たい声を出す。荒くれ者たちはその声に従うようにして、もはや動くこともままならない幸平の体を踏み潰していった。
「や、や、やめぇ……」
「太地ッ!」
 恐怖に喉を震わせたような三原麗奈の声が地面に届くと、幸平は、あらん限りの怒鳴り声をスキンヘッドの大男に向けた。彼らの視線を麗奈に向けさせまいとしたのだ。元“紋天”の副総長だった大杉田太地は力無く地面に横たわった幸平に冷たい視線を落とした。
「なんだ」
「お、お前……、お前ら……、どういう、つもりだよ……?」
「どうもこうも、なぁ幸平、お前たちが先に仕掛けてきた抗争だろう」
「そ、ういう……意味じゃない……。お、お前らの、戦い方の、話さ……」
 時間を稼がないといけない。自分達の争いに三原麗奈を巻き込むわけにはいかない。
 だが、何よりも幸平の本能が質問を駆り立てた。恐らくはこの幸平個人を狙った襲撃も“苦獰天”の背後にいる誰かの作戦だろう。そう考えた幸平は好奇心が抑えられなくなってしまった。
 もしもこれが作戦の内だったとすれば、少人数で逃げ回っていたのも作戦だったといえ、これまでの連敗の全てが作戦だったといえる。それはもはや大局的な視点においての「戦略」といえ、個々の戦いにおいての「戦術」を得意とする幸平としては、是非ともその概要を学ばせてもらいたく、また、その「戦略」を立てたであろう“苦獰天”の背後にいる人物に会ってみたくなってしまった。長谷部幸平が鴨川新九郎らと共に暴走集団“火龍炎”を結成したのは、こういった過酷な闘争においての頭脳戦を楽しむためでもあったのだ。
「ほ、ほんと……元気そう、だね……お前ら……。はぁ、はぁ……。ま、まさか、敗北、を演じてたなんて……、や、やるじゃん……」
「なんの話だ」
「う、噂、まで流して……。く、“苦獰天”が、劣勢だなんて……、はは……、危うく、だ、騙される所、だったよ……」
「だから一体なんの話を」
「ねぇ太地……、“鬼麟”って、何なのさ……」
「“鬼麟”?」
「“鬼麟”と、“火龍炎”が、同盟を結んだって……、どういうつもり、だよ……」
「それはこちらのセリフだ。お前たちこそ、自分たちのことを“鬼龍炎”などと、いったいどういうつもりだ」
「は……?」
「“鬼麟”などという存在しないチーム名まで使って、まさかそんなことで俺たちが怯むとでも思っていたのか?」
 そう言った大杉田太地の四角い顔に嫌悪の表情が浮かび上がる。幸平はポカンと口を開いたまま言葉を止めた。
 やはり何かがおかしい。
 そう思った幸平は視線を下げると、“苦獰天”の背後にいるであろう誰かの「戦略」の先に思考を巡らせながら、口を紡いだ。
 

「おい、早くトドメを刺せ」
 そう言った吉田障子はスマホに耳を傾けたまま、黒のワゴン車の助手席で目を細めた。ワゴン車は狭い路地に面したアパートの駐車場内に停めてあり、ゴミ置き場での喧騒は彼の目と鼻の先にある。
「──でも、もうコイツ、動けないですよ?」
「いいや、そいつはまだ動ける。腕か足をバットでへし折ってやれ」
 その吉田障子の言葉に、ゴミ置き場の前で携帯に耳を傾けていたスキンヘッドの小男は頬を引き攣らせる
「おい、聞いてんのか?」
 スキンヘッドの小男は返事を返さない。吉田障子は舌打ちをすると、運転席に座っていた山田春雄に向かって冷たい声を出した。
「春雄クンなら出来るよな?」
「……いや」
「なぁ春雄クン、皆んなに手本を見せてやってくれよ」
 冷たい汗が山田春雄の背中を伝う。夏場にも関わらずペンキに汚れた黒のつなぎ服を手放さない春雄は、いったいこの場で自分がどう動くべきかを必死に考えながら、ポケットに仕舞ってあった特殊警棒にそっと指を伸ばした。
 確かに吉田障子の言う通り、地面に横たわった長谷部幸平はそれでもまだ余力を残しているように思え、作戦通りに事を運ぶというのであれば、もっと徹底的に痛め付けておく必要があった。ゴミ置き場の前に集まった“苦獰天”のメンバーたちは既に拳を下げてしまっており、その行為は誰か別の人間によって遂行されるべきであろう。だが、果たして自分にそんな残酷な行為が出来るだろうか。
 額に汗を浮かばせながら、しばらく特殊警棒の握りに親指を当てていた山田春雄は、突如として周囲に轟き始めたバイクの排気音に顔を上げた。
「──ヤ、ヤベェ!」
 焦ったような声がスマホ越しに吉田障子の耳に届く。軽く首を傾げた吉田障子は、川沿いの道へと続く路地の向こう側にジッと目を細めた。大型のバイクに跨った長身の男が一人。黒いタンクトップを着たその男の腕にはブラックアンドグレーの髑髏のタトゥーが掘られていた。
「── “インフェルノ”の清水狂介だ!」
「清水狂介?」
 吉田障子はスマホに耳を傾けたまま、運転席の山田春雄に向かって眉を顰めた。
「“火龍炎”の元特攻隊長だ」
「じゃあ“インフェルノ”ってのは?」
「“火龍炎”解散後に清水狂介が新たに結成したバイクチームだ。大半が元“火龍炎”のメンバーだってこともあるけど、清水狂介が恐ろしすぎて誰も手が出せないんだ」
「はは、あっちには役者が揃ってんな。つーか、あいつらの総勢って三十人ほどじゃなかったっけ?」
「“インフェルノ”は十五人ほどの少数チームだから、再結成した“火龍炎”十五人と“インフェルノ”十五人で今のところは総勢三十人ほどだ。だけど、元々“火龍炎”は五十人以上のメンバーを抱えてたし、このままだと数の優位すら保てなくなるぞ」
 排気音が重なり合う。髑髏のタトゥーを入れた清水狂介の背後から更に三台、そして路地の反対方向から六台のバイクが現れると、数で優っているはずの“苦獰天”のメンバーたちは戦意を喪失したかのように頬を青白くさせた。
「クソッ」とドアを殴り開けた山田春雄がワゴン車から飛び降りる。やれやれとスマホを下ろした吉田障子は110番をタップした。そうして、ゴミ置き場からは離れた路地の入り口あたりで喧嘩が起こっていると通報した吉田障子は、後席の坊主頭の男に向かって顎をしゃくった。
「なぁ小森クン、頼めるか?」
「はい」
 小森仁は表情を変えることなく頷くと、足元の金属バットを拾い上げた。一見すると何処にでもいるような普通の男である。だが、吉田障子は、この元“正獰会”のメンバーである小森仁という男の本質には信頼を置いていた。
 小森仁がワゴン車を下りると、助手席の窓から顔を出した吉田障子は「警察が来るぞ!」と怒鳴り声を上げた。そのよく通る声に、ゴミ置き場に集まっていた荒くれ者だちはギョッと肩を跳ね上げる。既に山田春雄は“インフェルノ”の清水狂介と対峙しており、顎の前に右拳を構えた山田春雄とは対照的に、ジーンズのポケットに手を突っ込んだ清水狂介の表情は静かだった。だが、殴り合いは一向に始まる気配がなく、何やら対話を始めた二人に拍子抜けをした吉田障子はゴミ置き場を振り返って目を細めた。ちょうど小森仁の金属バットが長谷部幸平の額に振り下ろされるハイライトシーンだったのだ。ゴトリと幸平の頭が地面に打ち付けられると、僅かに視線を逸らした吉田障子は胸の鼓動を鎮めようと深く息を吐いた。
 三原麗奈の絶叫が薄暗い路地に響き渡る。
 視線を上げた吉田障子は、時が止まったかのように固まってしまった荒くれ者たちを車内から一瞥すると、ただ一人動きに無駄のない小森仁に向かって「良くやった」と無言で頷いてみせた。
「出せ」
「何方へ?」
「あの女だ」
 小森仁を運転席に迎え入れた吉田障子はゴミ置き場に向かって顎をしゃくった。
「あの女を連れていく」
「お知り合いで?」
「ああ、俺の女だ。ただ抵抗はされるだろうから、多少の暴力は大目に見てやるよ」
「分かりました」
 小森仁は表情を動かさない。ワゴン車のアクセルを踏んだ小森仁は無表情のままにクラクションを鳴らし始める。呆然と固まっていた“苦獰天”のメンバーたちが慌てたように道を開けると、ゴミ置き場に前にワゴン車を止めた小森仁は緩やかな動きで後席のドアを開けた。同じタイミングで助手席を降りた吉田障子はスッと左の頬に薬指を当てる。
「やぁ麗奈ちゃん。こんな所で奇遇だね」
 三原麗奈のローズピンクの唇が縦に開かれる。だが、その口から言葉が発せられることはなく、ただ彼女は呆然とした表情で、ゴミ置き場の影から吉田障子の瞳の影を凝視し続けるのだった。
 パトカーのサイレンが薄暗い路地に響いてくる。その不穏な音にやっと“苦獰天”のメンバーたちが動きを見せ始めると、吉田障子はこの場においての優先順位を頭の中で組み立てていった。
 当初の目的である長谷部幸平への襲撃は既に果たせている。額を鮮血で赤く染めた長谷部幸平の側では“インフェルノ”の清水狂介とそのメンバーたちが鬼の形相をしており、彼らの矛先がいつ吉田障子に向けられるか予断を許さない状態にある。今すべきことは速やかなる逃走であり、もはや三原麗奈などに構っている暇はなかった。
 だが、それでも吉田障子は三原麗奈から視線を外せなかった。彼女への嗜虐心を抑えられなかったのだ。小森仁に腕を掴まれた三原麗奈が泣き喚き始めると、吉田障子の口元に薄ら笑いが浮かんだ。
 いい気味だと思ったのだ。もっと恐怖しろと。その純粋無垢な心を壊してしまえと。そうして、ほんの少しでもいいから私の苦しみを理解しろと、吉田障子は自分の姿をした他人に向かって唾を吐き出した。
 それは舞台の上のストーリーから逸脱した行為だった。そこに演技はなく、溢れ出る感情によってのみ現実が表現されていく。早くこの場を離れろと、理性が叫んだ。大丈夫だと、吉田障子は今まさにワゴン車の中に連れ込まれようとしている三原麗奈に向かって、冷たい笑みを浮かべた。
「な、なん、で……」
 吉田障子は危うく悲鳴を上げそうになった。血塗れの長谷部幸平が微かに目を開いたのだ。
「どう、して……、け、けい、さつを……?」
 長谷部幸平の唇が震える。そのうっすらと開けられた瞳に揺れ動いていたのは果てしない困惑の光だった。
 とりあえず彼の生存は確認出来たと、そう安堵の息を吐き出した吉田障子は、長谷部幸平に向かって軽く首を傾げてみせた。
「んだよ、警察がどうかした……」
 そうして吉田障子は激しいショックに言葉を失ってしまう。まるで死んだ母親の亡霊にでも出会ってしまったかのように。
 青いジャージ姿の女生徒が血塗れの長谷部幸平を見下ろしていたのだ。その女生徒の顔は人形のように整っており、彼女の薄い唇のみが、彼女の表情とは不釣り合いに大きく横に広げられていた。
「王子──」
 大野木紗夜の白魚のような指先がワゴン車に向けられる。すると小森仁の白目が赤黒く充血を始めた。
「王子──」
 サイレンの音が消える。
 日が沈んだかのような暗い影が路地を覆っていくと、赤い涙で頬を濡らした荒くれ者たちの絶叫が辺りに響き渡った。
「ねぇ、王子──」
「どうして……」
 そう呟いた吉田障子の瞳の色が徐々に薄くなっていった。黒色から青みがかった鉛色に。灰色から透き通るような空色に。それは以前に白髪の老婆が戸田和夫に見せた瞳の色を思わせ、ワゴン車の前に立ち竦んでいた三原麗奈は彼の瞳の変化に唖然とした。
 蝉の声が狭い道に戻ってくる。はっと叫び声を止めた荒くれ者たちが呆然と空を見上げると、長谷部幸平に折り重なるようにして、大野木紗夜の体が崩れ落ちた。
「おい、行くぞ」
「彼女は?」
 小森仁は何事もなかったかのように視線を横に動かした。
「もういい、放っておけ」
 吉田障子の額に汗が光る。軽く瞳を押さえた彼は、大野木紗夜の元に駆け寄る三原麗奈の背中に目を細めると、ワゴン車のドアに手を伸ばした。

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