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第三章
平静の焦燥
しおりを挟む長谷部幸平は近所の書店で参考書の青い背表紙を眺めていた。天井から流れてくる冷風は彼のマッシュヘアを靡かせないほどに微細で、クーラーの音は店内のBGMに完全に呑まれてしまっている。それでも平日の書店は、真夏の炎天下を忘れてしまいそうなほどに涼しかった。
棚を埋め尽くす参考書はどれもこれも似たり寄ったりだった。選ぶ時間が勿体ないと、適当に手に取った問題集の表紙に、長谷部幸平は首を捻ってしまう。本当に必要なのだろうかと。過去問であればネットで閲覧できるだろうし、それほど質に差がないように見える参考書も中古で構わないような気がする。であれば、わざわざ新品を買う必要はないだろう。そう思った幸平は首を捻ったまま問題集を棚に戻した。
書店は客が少なかった。店内を流れるラジオのポップは控えめで、紙に囲まれた乾いた空気が心地良い。目を惑わす陽炎も、耳を惑わす蝉の声も、冷房に遮断されたこの空間には届かない。幸平はここに涼みに来たと言っても過言ではなかった。
長谷部幸平はウロウロと店内を眺め歩いた。画一的な参考書コーナーとは違い、小説の新刊が並べられた棚は色とりどりである。その中の一つを適当に手に取った幸平は一ページ目を開いた。想像力を駆り立てる冒頭の一文。だが、幸平の思考はすぐに別の事柄へと移ってしまうのだった。
喉元に引っ掛かった違和感が消えてくれなかったのだ。暴走集団“火龍炎”の参謀である幸平は、新チーム“苦獰天”との抗争に微かな憂いを覚えていた。
「あ、あ、あ……、あの……」
幸平のうなじに鳥肌が立つ。吐息が彼の背中を撫でたのだ。それは微細な冷風に飛ばされそうなほどに微かな声だった。
「は、長谷部幸平、くん……、でしょうか……?」
だが、決して弱々しいというわけではない。俯きがちに吐き出されたその声は、それでも途中で消えてしまうことなく、幸平の耳にはっきりとした意思を伝えてきた。
三原麗奈のよく通る声は天性のものだった。
「あれ、麗奈ちゃん?」
「は、はい……!」
三原麗奈はコクコクと頷いた。アッシュブラウンの髪でおでこは隠されてしまっており、ほっそりとした肩は小さく丸められている。それでも、その華やかな容姿と相まって、彼女には陰気な影が見えなかった。お淑やかとまでは言えずとも、何やら透き通った彼女の雰囲気に、幸平はほんのりと頬を赤らめてしまうのだった。
「奇遇だね、こんな所で。麗奈ちゃんって読書家だったの?」
「あ、え……。ほ、本とかは、よく、読みますけど……」
「へぇ、そうなんだ。ジャンルはミステリー? あ、まさか歴女とか?」
「えっと、レキジョ……? あ、あ、あの、その……」
「歴史好きな女性って意味だよ、麗奈ちゃんって意外と落ち着いてるし。あ、別に大人しいって意味じゃなくってね、ほら、前に花子さんたちとバンド見にきてくれたでしょ。麗奈ちゃんって色んな顔があるからさ、はは、もしかしたら歴史好きっていう一面もあるのかなってさ」
「あ、ああぅ……、はぇ……」
いや、どうやら彼女は陰気なベールで美しい顔を隠してしまっているようだ。幸平は思わず苦笑してしまった。
「もしかして麗奈ちゃん、僕のこと怖がってる?」
「ええっ……? そ、それは……」
泳ぎ続けていた麗奈の視線が一瞬、長谷部幸平の左耳に向けられる。本屋ではピアスは外しておこうかなと、幸平は柔らかな髪を横に撫で付けた。
「はは、麗奈ちゃんってやっぱ面白いね。てゆーか、僕たち同い年なんだしさ、敬語は止めてよ」
「そ、そうだす、よね……」
「もしかして、僕に何か用事でもあったの?」
「あ、うん……! あ、あの……、は、花子さんの行方とか、知らないかなって……」
「花子さん?」
「うん……」
「いや、知らないけど、どうして僕に?」
「あ、あの、なんか花子さんの、こ、恋人だったって、話を聞いて……」
幸平は驚愕のあまりギョッと肩を跳ね上げた。とんでもない話だと。万が一にもその話が睦月花子の耳に伝わってしまったらと、そんな想像に頬を青ざめさせた幸平はアセアセと声を潜めた。
「ち、違うよ……! 何言ってんのさ……! 僕があの花子さんの恋人なわけがないだろ……!」
「そ、そうなの……?」
「そうだよ……! そんな突拍子もない話、いったい誰から聞いたのさ……?」
「誰って……」
麗奈はモゴモゴと言いにくそうに視線を落とした。その表情は何やら憤っているようで、もしかして友達に誤情報でも摑まされたのかな、と幸平は肩の力を抜いた。
「まぁ、いいや。僕が花子さんの恋人だったなんて、天地がひっくり返ってもありえないから、もうその話は止めてよね」
「あ、はい……。ごめんなさい……」
「いいって」
「あの、じゃ、じゃあ、その、鴨川新九郎って人に、その、連絡取ることって出来ますでしょうか……?」
「しんちゃんに?」
「その、鴨川新九郎って人なら、えっと、花子さんと友達だから、知ってるかもって……」
「……誰から聞いたの?」
「えっと、知り合いの男の子っていうか……、その、変な男……? 男じゃない男、みたいな……。なんか、変な……」
麗奈の声が天井からの冷風に押し流されていく。苦笑した幸平はやれやれとスマホを取り出した。
ラインにメッセージを送った幸平は手持ち無沙汰になると、通路側の棚に積まれてあった小説の新刊を麗奈に紹介した。麗奈は意外にも読書家のようで、会話が弾むと、二人の明るい声が静かな店内を流れ始める。そうして数分ほど後、既読の付いていないメッセージを確認した幸平は直接通話を試みた。だが、それでも鴨川新九郎が応える気配はなく、ライン通話の軽快な着信音が耳の奥に響き続けるのみだった。
再び何やら引っ掛かるものを感じた幸平は喉仏の真上を撫でた。何か奇妙だと思ったのだ。だが、あまりにも漠然としており、違和感の正体は掴めそうにない。
「うーん、出ないね。もしかしたら昼寝中かも」
「そ、そうですか……」
「どうしよ、何なら今からしんちゃんの家に行ってみる?」
「あ、その、鴨川さん、今日は川沿いのスタバにいるらしいんで、あの、そっちに行ってみようかと……」
「スタバ? しんちゃんが?」
「は、はい……」
「それ、誰から聞いたの?」
「し、知り合いの、男の子、かな……」
「名前は?」
「えっと、よ、吉田っていう男の子、です……」
「その吉田って奴、どうして僕やしんちゃんの居場所を知ってるの?」
「さぁ……?」
幸平は腕を組んだ。何やら怪しいと思ったのだ。だが、やはり憂いの影は掴めない。
麗奈はといえば今にも駆け出してしまいそうで、うずうずと栗色の瞳を揺らし続ける彼女は、早く睦月花子の行方が知りたいという焦燥感が抑えられない様子だった。
「まぁいいや。じゃあちょっとスタバまで行ってみようか」
「は、はい……!」
怪しいとは思った。だが、だからこそ、彼女を一人で行かせるのは不安だった。そして何より、それは薄情だろうと幸平は思ってしまった。
鴨川新九郎は親友であり、睦月花子とも安易ならざる関係である。親友である鴨川新九郎に会いたいと懇願してきた同級生の女の子の背中を見送るような真似は、流石に冷たいのではなかろうかと。睦月花子が行方不明だという話はとっくに耳にしており──別に珍しい話ではないが──、そんな彼女の身を本気で案じているらしい同級生の女の子に背中を向けるような真似は、果たして男としてどうなのだろうかと。
そんなことを考えながら小説の新刊を棚に戻した幸平は、麗奈の後を追って、真夏の陽光に目を細めた。
荻野新平は肩の力を抜いた。呼吸を乱さぬようにと。
およそ3・55秒の呼吸間隔のみが、この1979年の校舎においての唯一の指針だったのだ。
鮮血が壁に飛び散る。それは正面の男子生徒の眼球から飛散したもので、大きく腕を振り回す彼の意識は深い闇の底に沈んでしまっているようだった。
新平はグロッグ17の銃口を下げた。今やこの自動式拳銃は打撃の道具にすらなり得ず、それでも新平はそれを腰のホルダーに仕舞うのをためらった。弾は補充されていたのだ。弾詰まりの心配もないだろう。ただ、銃口を前に向けられなかった。
男子生徒のポッカリと開いた口が眼前に迫る。両眼の潰された彼の顔は血塗れで、血と唾液の混じった泡が顎から滴り落ちている。
新平は肩の力を抜いたまま男子生徒の右手首を掴んだ。およそ無意識に近い男子生徒には自己を防衛する本能がみられず、彼の動きに逆らわず腕を引いてやれば簡単に投げ飛ばすことが出来たのだ。当然ながら腕を振り回して走る男の速度を捉えるのは安易ではないが、荻野新平にとっては造作もないことだった。
男子生徒を後ろに投げ飛ばした新平はそのまま流れるような動きで重心を下げた。背後から迫る女生徒の腕が新平の頭上を切る。女生徒の手には小さなハサミが握り締められており、どういう訳か、この両眼が潰された生徒たちは新平の位置を正確に把握しているようだった。
「新平さん! 新平さん!」
うら若い女性の声が新平の耳に届く。ちょうど柔道の肩車の形で女生徒を投げ飛ばした新平は、不意に湧き上がった怒りに奥歯を噛み締めた。教室に隠れさせていた中間ツグミが廊下に飛び出してきたのだ。四階の廊下にはまだ両眼の潰れた“人形”たちが複数動き回っており、それらを制圧するまでは出てくるなと指示を出しておいたのだった。
坊主頭の男子生徒が新平に向かって両腕を広げる。その潰れた両眼は天井付近に向けられており、男子生徒の体には文鎮やカッターナイフ等の貴金属が張り付いていた。まるで磁力でも帯びているかのように。筋痙攣を起こしているのか、男子生徒の頬がピクピクと脈打っている。
「新平さん!」
およそ十三体の“人形”が四階の校舎を這いずり回っていた。当然ながら素手での制圧には限界があり、確実に動きを止めるには、人形の頭蓋を吹き飛ばす必要があった。
だが、どうしても銃口が上げられない。グロッグ17の矛先を生徒たちに合わせられない。
新平は微かに呼吸を乱した。
自分は冷静だと、その確信は揺るがない。自分は平常だと、新平は決して自分を見失わない。
平静だった。あまりにも平常だった。その心は何処までも穏やかで、新平は、長い時の果てに戦場での狂気を忘れかけていた。冷酷だった心が正常に戻りつつあったのだ。
「新平さん!」
新平の背後で二人の女生徒が腕を振り上げる。当然のごとく新平は背後の状況に気が付いていた。だが、中間ツグミの目に映るのは、血の涙を流す怪物に囲まれた新平の窮地のみである。女生徒たちに飛び掛かったツグミは、二人に折り重なるようにして廊下に倒れると、必死になって二人の体にしがみ付いた。女生徒たちの爪が、歯が、ツグミの肌を引き裂いていく。それでもツグミは懸命に女生徒たちの体を上から押さえ付けた。
新平は息を吐いた。
全身の力を極限まで抜いた彼は、坊主頭の男子生徒の重心を自分の元に誘導すると、その体を横に投げるようにして、迫り来る“人形”たちと衝突させた。そのままグロック17を腰のホルダーに差し込んだ新平は、二人の女生徒にしがみ付いていた中間ツグミのくびれた腹に腕を回す。そうして自身も回転するように、ツグミの体を回して女生徒たちから引き剥がした新平は、彼女を腕に抱いたままリノリウムの廊下を蹴った。前方では“人形”が二体、大きく口を広げている。正面の“人形”の胸に突進した新平は、その背後にいた“人形”ごと廊下を転がると、またすぐに体制を立て直した。
「新平さん……!」
「おい、立て」
「はい……!」
そう頷いた中間ツグミがフラフラと立ち上がった。その潤んだ瞳は濁った光に溢れており、暗く深い穴の淵から天に救いを求めるような彼女の瞳には、新平の姿しか映っていないようだった。
“人形”たちが迫り来る。
新平は軽く奥歯を噛み締めると、ツグミの手を引いて廊下を走り出した。
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