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第三章
セイレーンの銃弾
しおりを挟む吉田障子はスマホの画面を見つめたまま意外そうな顔をした。
折伏騒動の際に活躍してもらった役者たちに更なる稽古を積ませていた吉田障子は、クラスメイトの藤田優斗からのメッセージに思わず左の頬を撫でてしまう。彼の祖父である藤田泰三がイジメの件で心道霊法学会に抗議に赴くと言って聞かないそうなのだ。そちらの動きには何ら期待をしていなかった吉田障子は、せっせと入信者の演技に勤しんでいた役者たちを一瞥すると、軽くため息をついた。
「どうした」
“苦獰天”の総長、野洲孝之助は低い声を出した。元“苦露蛆蚓”のリーダーである山田春雄の実家の狭い工場ではそのため息に近い声がよく響いた。純白の特攻服に身を包んだ彼の表情は険しく、もう今日はバイクを走らせるつもりはないと、彼は工場の窓から見える曇り空に一瞥もくれない。
暴走チーム"苦獰天"は苦境に立たされていた。
吉田障子の指示で少人数を走らせ続けた彼らは、再び街に君臨し始めた“火龍炎”を相手に連戦連敗の憂き目にあい、その評判は今や地の底に落ちている。目に見えて士気の落ちた“苦獰天”とは対照的に、もう解散したはずの“火龍炎”が勢いを増す始末。野洲孝之助は自分の愚かさを呪うと共に、この事態に導いたであろう吉田障子という少年に対して言いようのない怒りを覚えていた。
「ちょっと出かけてくるわ。おいお前ら、練習は一旦お開きだ」
吉田障子はそう言ってスマホをポケットに仕舞った。地主の息子役の一人が怪訝そうな表情で吉田障子を振り返ると、野洲孝之助は目尻を吊り上げる。
「おい!」
「んだよ」
「どうしたと聞いてるんだ!」
「急用だよ」
吉田障子は面倒臭そうに片手を上げると、野洲孝之助に背中を向けた。怒りが沸点に達した野洲孝之助は呼吸すらもままならなくなり、般若の形相で吉田障子の肩を引くと、その胸ぐらを掴み上げた。
「おい」
「落ち着けって、“火龍炎”を潰すプランはもう立ててあるからよ」
「ならそのプランとやらを今すぐ言え」
「参謀の長谷部幸平をやる」
「長谷部幸平?」
「奴を誘き出して撃つ。無情に。残忍に。脳天を撃ち抜いてやる。それで俺たちの勝ちだ」
そう言った吉田障子はバンッと鉄砲を撃つ仕草をした。ただ、胸ぐらを掴み上げられた彼の表情は苦しげで、その瞳には焦りの影がチラついて見える。
野洲孝之助は拳を振り上げなかった。彼にとっては最悪とも言える現況において、それでも彼はその全て吉田障子のせいにするほどに理性を失ってはいなかったのだ。吉田障子をパートナーにすると決めたのは彼自身で、吉田障子の提案を受け入れたのも彼自身である。その作戦が失敗だったからといって、じゃあ他に案があったのかと問われれば首を傾げるしかなく、そもそも少人数だったとはいえ十五人のメンバーを率いて“火龍炎”を相手に大敗を喫したのは彼自身の責任だった。
「……例えそれが上手くいったとして、長谷部幸平一人をやったくらいで“火龍炎”を潰せるとは思えんが」
野洲孝之助は努めて冷静に息を吐いた。感情的になれば、またこの見た目は大人しい少年のセイレーンの歌声に惑わされてしまうと思ったのだ。
「長谷部幸平を撃ち抜いた銃弾が“火龍炎”を動かすんだよ。いきり立ったアイツらは激しい攻勢を仕掛けてくるはずだ。余力なんて残さない、メンバー全員による一斉攻撃。仲間への涙でアイツらは前が見えなくなる」
「……希望的観測だな。確かに長谷部幸平を個人的に狙えば、“火龍炎”は怒り狂うだろう。だが、それが一斉攻撃に繋がるとは思えん」
「八割を動かせればこちらの勝ちだ。参謀と共にメンバーの大半を失った“火龍炎”は再起不能になる。逆転の一手で俺たちがこの街の王になれんだよ」
「……そもそも、奴らに勝てる保証がないだろ。俺たちは連戦連敗を続けてるんだぞ?」
「野洲くんほどの男でさえ、少人数で逃げ回っているだけのアレを敗北と見ている。それが重要なんだ。俺たちがいつでも走り出せるという事実にアイツらは気づいていない」
セイレーンの歌声が荒海に方角を示す。
その先に陸地がある保証はないと、船長は、延々と広がる水平線の彼方に目を凝らす。
荒波が船底を削り、水飛沫が視界を遮る。
敵船の旗が視界の端に揺れる。船員たちの不安げな声が船長の焦燥感を駆り立てる。
歌声は美しかった。
船員たちの運命を導く光たらんと、セイレーンは歌うのを止めなかった。
船長は知っていた。人を惑わすのは美しさだということを。人を惑わす美しさの裏には醜さが隠れているということを。
だが、それでも抗えない。先の見えない荒海において、セイレーンの歌声はより一層の魅力を備えていた。
ほんの少しだけなら耳を傾けてみるのもいいかもしれない。船の進路を決めるのは歌声じゃない。ただ、ほんの少しだけなら、歌声のする方角に目を凝らしてみてもいいかもしれない。
「……敗北は敗北だろう。実際に奴らは強いぞ」
「戦いは数さ。実際のところアイツらは、十五人の俺たちを相手に、それを上回る数で囲い込んでいるだけなんだ。はは、そりゃあ勝てるって。まぁ俺たちはまともに戦う気なんてなかったわけだし、軽いフットワークで逃げ出した俺たちの背中に、アイツらの高笑いが届いたのだとすれば万々歳だ」
「アイツらの総勢は三十人ほどだが……」
「俺たちの総勢は七十を超える」
セイレーンの歌声が波の音を呑み込む。今や船長の視線はその声を追って荒海を彷徨っていた。
「だが、アイツらはその事実に目を向けていない。勝利の宴に酔っ払ったアイツらの頭の中には花畑が広がってるんだ。何処までも青々と美しい花に囲まれた“火龍炎”に憂いはない。たった一枚でいい。青い花弁を一枚、アイツら目の前で毟り取ってやるんだ。それだけでアイツらは猛り狂う。連戦連勝の相手にまさか負けるなどとは微塵も思わず、その大多数が脇目も振らず、俺たちを潰そうと花畑を走り始めるはずだ。まさか俺たちが無傷だとは思わず、倍以上の数がいる敵地に向かって、アイツらの無謀な進軍が始まるんだ。たった一発の銃弾が、アイツらを最後の進軍へと誘う」
そう言った吉田障子は人差し指の先を野洲孝之助の額に向ける。「バンッ」という声と共にセイレーンの銃弾が野洲孝之助の額を撃ち抜いた。
三原麗奈は半分意識を失ったような状態にあった。
夏の高校演劇地区大会が再来週に迫る中、演劇部の部員たちは額に汗を光らせつつ、最後の追い込みに必死の形相である。それぞれがそれぞれの役に没頭し、舞台には上がらない一年生たちも機材の準備や先輩たちのフォローに忙しい。そんな中で、部長である三原麗奈の動きのみが何処が怠慢だった。
役の練習に入ればまるで人が変わったかのように完璧な演技をこなしてみせるのだが、それはあくまでも自分の演技に没頭しているというのみで、他の役との協調はおろか、コミュニケーションを取ることすらままならなくなってしまう。演技練習以外となると今度は内気なお姫様のようにしおらしくなってしまい、副部長である笹原美波は頭痛薬が手放せなくなっていた。主人公の代役は既に用意してあり、高校演劇地区大会に向けての準備は整ってはいたが、部長抜きで挑むこととなる舞台は万全とは言い難い。何よりも笹原美波は、部長であり親友でもある三原麗奈の身を本気で案じていた。
そしてもう一つ、頭痛の種というほどでもないが、微かに首を傾げてしまうような奇妙な変化があった。
三原麗奈の幼馴染である大野木紗夜の様子がどうにもおかしいのだ。元々世話焼きな大野木紗夜は、コロコロとその性格や行動に一貫性のない親友の三原麗奈に対して、やんちゃな弟に手を煩わす姉のような優しげな眼差し惜しまなかった。だが、最近の大野木紗夜が幼馴染の麗奈に対して向ける感情は何処か歪んでいるようで、その眼差しは恋人に向けられるそれと同等のように思えた。
笹原美波の深いため息に、すぐ側でダンボールに色を塗っていた一年生たちが顔を見合わせる。なんでもないと微笑みを浮かべた美波は、旧校舎の大広間の端で一人ポツンと窓の外を眺めている三原麗奈の元に歩み寄った。麗奈の真横では彼女の妹である三原千夏が何やらキッとその栗色の瞳を細めており、副部長の笹原美波の気配に気が付いた千夏はサッと敬礼のポーズをとった。
「監視は順調であります!」
「そう、ありがとね」
千夏は、ふふん、と鼻から息を吐いた。なんでも「先生」と呼ばれる老人とその友人である老女から、姉である三原麗奈を監視するよう指令を受けているらしい。それにいったいどんな意味が込められているのかは分からなかったが、姉と同じように一貫性のない千夏の行動に今更どうこう言うつもりもなく、ただただ可愛らしい後輩に向かって笹原美波は優しげな笑みを浮かべてあげるのみだった。
「麗奈、大丈夫?」
笹原美波はあえて「部長」という言葉は使わなかった。もしやその重圧が彼女の心をより不安定にしているのではないかと考えたからだ。だが、麗奈はといえば口を半開き首を振るばかりで、いったい何を考えているのかも定かではない。
「あ、そうだ! 麗奈さ、部活終わったら私と本屋さんに行かない? ちょうど欲しい本があったの!」
ふるふると麗奈のアッシュブラウンの髪が揺れ動く。笹原美波は額に手を当ててため息をついた。
「ねぇ、王子──」
それは背後からの声だった。ゾッと笹原美波のうなじの毛が逆立つ。その声は冬の川を流れる雪の塊のように不安定に濁っていた。
「寒くない──?」
大野木紗夜の薄い唇が横に開く。何処か別の世界を見つめているかのように虚ろな瞳である。
笹原美波は思わず息を呑んでしまった。演劇部の王子役で有名な麗奈が「王子」と呼ばれるのはこの学校において別段に珍しいことではなかった。それでも、部長である麗奈のことを「王子」と呼ぶ部員は一人としておらず、それは大野木紗夜も同様で、親友である麗奈のことは「麗奈」と呼び捨てにしていたのだ。
だが、笹原美波は覚えていた。大野木紗夜が彼女のことを「王子」と呼んでいた頃のことを。ちょうど中学2年生のある日、大野木紗夜が冬の川に転落したあの日を境に、大野木紗夜は三原麗奈のことを「麗奈」と呼ぶようになったのだ。三原麗奈に「王子」というあだ名をつけたのが大野木紗夜だということを笹原美波は知っていた。
「あのね、王子──」
三原麗奈の頬が引き攣る。まるで怨霊にでも出会ったかのように。
いったいどうしてそんな表情をするのか笹原美波には分からなかったが、取り敢えず同性間での色恋沙汰などはあまりよろしくないだろうと、一人勝手に頷いてみせた彼女は二人の間に手を伸ばした。凛と長い黒髪を揺らした三原千夏が飛び込むのと同時の事である。
「祓え給え!」
そう叫んだ千夏は栗色の瞳を細めると、大野木紗夜の虚ろな瞳の中を覗き込んだ。その奥に潜む何かを睨み付けるように。すると、ピタリと動きを止めた大野木紗夜の目に普段通りの明るい光が宿り始める。そうして「ん?」と首を傾げた大野木紗夜は、何やら自分を睨み付けている後輩に困惑したような笑みを浮かべると、その背後で肩を震わせていた親友に向かって心配そうな声を上げた。
「麗奈、大丈夫?」
三原麗奈のアッシュブラウンの髪がふるふるとした動きを見せる。
いったい何が何やらと、額に手を当てた笹原美波はポケットから頭痛薬を取り出した。
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