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第三章
三人目の王子
しおりを挟む旧校舎の空気は乾いていた。木造の校舎は足音がよく響き、古びた窓ガラスの端は黄色く燻んでいる。それでも1979年の旧校舎にはまだ勉学に励む生徒たちの気配が染み付いていた。
小野寺文久は旧校舎の奥に向かって歩いていた。そこには演劇部の部室である大広間があり、またそこは彼の遊び場でもあったのだ。
「おい、手伝ってくれ」
小野寺文久はそう言って後ろを振り返ると、肩に担いでいた橋下里香のスキニーデニムに強調された下半身を叩いた。だらりと腕を下げた橋下里香は微かに眉を動かすのみで、はだけた白のブラウスは相変わらずそのままである。楽しげに口笛を吹いた小野寺文久は脱力した彼女を正面に下ろすと、その小柄な体を後ろから抱き締めるように、彼女の胸の下に腕を回した。そうして、その長い指で彼女の口の中を存分にかき回した小野寺文久は、彼のすぐ側に立ち竦んでいた男子生徒の目の前で、橋下里香の口から溢れ出る艶かしい粘液を伸ばしてみせた。
「おーい、聞こえてんの?」
木崎隆明は視線を逸らした。陰気な彼の顔は感情が見えづらく、その腫れぼったい目は橋下里香の体から少しずれた位置に向けられている。
小野寺文久は軽く鼻を鳴らすと、橋下里香の体を前に押し倒した。意識が定かではない里香は自分の身を守ることも出来ず、ただされるがままに目の前の少年の胸にも倒れ込む。その生々しい性の匂いに、木崎隆明はやっと狼狽したように乾いた唇を縦に開いた。
「よーし、そのまま支えてろ」
「あ、え……」
「今から脱がすからよ」
小野寺文久は声を弾ませた。キキョウの青い花弁を引き千切るように、橋下里香のスキニーデニムを下ろした小野寺文久は、その白い太ももに指を這わせていく。だが、その切れ長の目は、彼女のシルバーグレーの下着にではなく、彼女の体を支える木崎隆明の前髪に隠れた瞳に向けられていた。
「おい、どうした。まさか緊張してんの?」
そう笑った小野寺文久は口元にイヤらしい笑みを浮かべるも、その切れ長の目だけは動かさなかった。同様に、木崎隆明も腫れぼったい目を動かさない。軽く舌を打ち鳴らした文久は、橋下里香の顎に手を回すと、そのブラウスから覗く小ぶりな胸を強調するように彼女の首を手前に引いた。そうして、いつまでも陰気な表情を崩さない木崎隆明に向かって低い声を出した。
「お前が脱がせ」
木崎隆明は微かに肩を震わせた。怖かったのだ。その陰気な表情が崩れることはなかったが、それでも、小野寺文久の命令には逆らえなかった。橋下里香のふくらはぎの手を伸ばした木崎は、半分ほど脱げかけていた彼女のスキニーデニムを下ろしていった。
橋下里香の生足が旧校舎の床に触れると、満足げな表情をした小野寺文久が無抵抗の彼女の足を横に広げた。その透き通るような白い肌は古びた校舎には不釣り合いで、その歪さによる背徳感からか、より淫靡で生々しい熱が彼女の肢体から溢れ出ているようだった。
森に迷い込んだ蝶の羽が幾重もの糸に囚われていく。柔らかな太ももの肉に蜘蛛の手足が食い込む。蜘蛛の長い指が蝶の足を這い上がっていくと、もはや逃れられない蝶は美しい羽を閉じ、柔らかな腹の肉を蜘蛛の前に差し出した。
艶かしい弱者の光。厭らしい強者の影。
それはまさに真実の光景で、この世の摂理が表現されたようなそこには強烈な臭気が漂っていた。美と醜が完全に混ざり合うことはなく、不規則に重なり合った不純物に、音や、色や、匂いが歪んでしまっている。だが、その歪みこそが現実で、美しさと醜さが互いに干渉せず、弱者と強者に一切の差がない世界などは夢物語だったのだ。
何処までも単一な世界は幻想の中にある。醜さと美しさは切り離せない。
現実は複雑で退屈だった。そう察した木崎は腫れぼったい瞼を下ろしていった。強者に食われる弱者が、醜さに汚される美しさが、まさにその単純で複雑な現実の世界が、彼にとっては非常につまらないものに思えてしまったのだ。
「おい、どうした王子様? やっぱお前ってデブでブサイクなお姫様が好みだったりするのか?」
小野寺文久は嘲笑するように舌を伸ばした。白く濁った彼の唾液が橋下里香の胸の間を伝っていく。だが、木崎の陰気な表情は一向に変わらない。文久は露骨に眉を顰めると、橋下里香の下半身から濡れた指を離した。
「気色悪りぃ根暗野郎が」
そう言葉を吐き捨てた小野寺文久は、橋下里香の体を床に突き飛ばした。その瞳には他の一切を見下す冷たい光が宿っており、広い肩をそびやかすようにして立ち上がった小野寺文久は、いつまでも腫れぼったい瞼を開けようとしない陰気な男の顔を見下ろすと、その凹んだ腹に拳を入れた。
「おいてめぇ、出口知ってんだろ。早く案内しろ」
木崎は首を横に振った。二発目の拳がみぞおちを打つと、木崎は亀のように床に蹲ってしまう。
小野寺文久はイライラと頭を掻いた。ほぼ全てが思い通りになるこの学校において、この陰気な男と、そんな彼に付き纏う知恵の遅れた醜い女だけがどうしようもなかったのだ。
その時、床を擦るような足音が文久の耳に響いてきた。「誰だ?」と旧校舎の廊下を振り返った文久はギョッとする。目立ちの整った背の高い男が文久の顔を見据えていたのだ。その手に握られた不恰好な木剣に、文久は軽く舌打ちをした。
「……よう、お前もこいつとヤリてぇのか?」
特に慌てることなく口元に笑みを作った小野寺文久は、ゆらゆらと体を揺らしながら向かってくる田中太郎に向かって、橋下里香の上半身を持ち上げてみせた。はだけたブラウス以外ほぼ裸体となっていた橋下里香の体からは艶かしい匂いが漂っており、文久自身が口惜しいと思うほどに彼女の容姿は美しい。だが、木剣を斜め下に構えた田中太郎の表情に変化はなく、そのキリリと引き締まった眉は殺気だっているようだった。
文久はポケットから折り畳み式のナイフを取り出した。鈍い銀色をした刃は先が鋭く尖っており、田中太郎の不恰好な木剣とは比べるまでもなく、その殺傷能力の高さは安易に想像できる。だが、リーチに関しては木剣に分があるようで、一先ず盾が必要だと、文久はナイフの先を田中太郎に向けたまま、あられもない姿の橋下里香を左腕に抱いた。
「止まれ」
「勇者殿」
そう呟いた田中太郎はおもむろに片膝をついた。まさに木剣の間合いに入ろうかという距離においてである。
小野寺文久は呆気に取られた。フラッグ用の棒で作られた木剣は彼の膝元に置かれてあり、首を差し出すようにして頭を下げた田中太郎の姿はあまりにも無防備だった。
ナイフの先は田中太郎に向けたまま、橋下里香の体を床に下ろした文久は左足に体重を乗せた。その整った顔を蹴り上げてやろうと。だが、また予想に反して田中太郎が奇妙な動きをみせる。仰向けに倒れていた橋下里香の肩を激しく揺すり始めたのだ。
「勇者殿、勇者殿! おい、早く起きてくれ! つーかアンタ、“十握剣”はどうした?」
「……おい」
「またいつ“隻翼の赤龍”が現れるか分かんねーぞ。さぁ、ほら勇者殿、囚われの姫の救出に向かわねーと」
「何言ってんの、お前?」
小野寺文久はちょうどローキックの形で田中太郎の横顔に蹴りを入れた。それを田中太郎は一瞥もせずに片手で止める。文久は驚くも、それでも取り乱すことなく足を引き戻すと、ナイフの先は田中太郎に向けたまま、床に蹲ったままの木崎隆明に向かって目配せをした。
「お……」
だが、すぐに文久の表情が変わる。口をあんぐりと開けた文久はあまりの驚愕に目を見開いてしまった。
田中太郎がナイフの刃を握り締めたのだ。なんの躊躇いもなく、素手で。
これには小野寺文久も狼狽した。彼にとってのナイフは単に脅すための道具であり、それで他人の体を傷付けるなど愚の骨頂だった。
焦りのあまりナイフを強く手前に引いてしまった文久の頰が引き攣る。田中太郎の手から鮮血が飛び散ったのだ。だが、それでも田中太郎は表情を動かさず、溢れ出る血はそのままに両手を床についた彼は文久の顔を仰ぎ見た。
「その“エクスカリバー”を俺に貸してくれないか?」
「エクスカリバー……?」
「“五人の怨霊”を倒すのにその剣が必要なんだ」
「おいおい、お前それ、マジで言ってんの……?」
「“十握剣”は対火龍用の長剣だ。怨霊の魂を削るにはアンタの“エクスカリバー”が必要になるんだ。……そうだ、アンタ、俺たちのパーティに加わらねーか? ちょうど僧侶が必要だって思ってたところなんだよ」
「はは、本物じゃねーか」
小野寺文久はそう笑うと、切れ長の目を細めた。すぐに冷静さを取り戻した彼は、ナイフの切り傷などもはや気にする必要がないという事に気が付く。既に地獄のような惨劇が1年D組の周囲を赤く染めていたのだ。
鈍い銀色の刃先には赤い血が光っていた。それを橋下里香の白いブラウスで拭き取った文久は、未だに顔を上げようとしない木崎隆明の脇腹をつま先で蹴り上げた。
「行くぞ」
だが、木崎隆明は起き上がらない。酷く億劫そうな表情をした彼は、ただジッと床の木目を眺め続けるばかりだった。
小野寺文久はナイフを左手に持ち替えると、木崎の無造作に伸びた黒髪を引っ掴んだ。「うっ」と木崎は痛みに呻くも、その表情は依然として気怠げなままである。普段よりもさらに無気力な彼の影は旧校舎の闇に消えそうなほど薄く、文久は面倒臭そうに木崎の腹に膝蹴りを入れた。
「おい、いい加減に……」
ちょきん──。
小野寺文久は目を見開いた。急に体が、いや、右半身が軽くなったのだ。
ゴトリと木崎の体が床に倒れると、呆然と右腕を持ち上げた彼は、その手首から噴き出す赤い液体に鋭い悲鳴を上げた。
「あああっ、あああああっ……!」
鮮血が床の木目に沿って広がっていく。小野寺文久は額に大量の脂汗を浮かべながら、惨めな悲鳴を漏らし続けた。
だが、それでも文久はその本能で冷静さを失わなかった。脇の下に上履きを挟んで動脈を圧迫させた彼は、震える指先でなんとかナイフをポケットに仕舞うと、フラフラと足を動かし始める。手首を何かで縛るよりも先に、この場を離れなければならないと考えたのだ。不穏の影がすぐ側にまで迫っていた。また、あの舌足らずな声が自分に向けられるよりも前に、早く逃げ出さなければならない。小野寺文久はショックと痛みを思考から追い払うと、今や怪物となった知恵遅れの少女から逃げるように、フラつく足を前に引き摺り始めた。
木崎隆明はゆっくりと顔を上げた。
視界の端に見知った少女の影が映るも、木崎の視線はそちらには向けられない。およそ校舎には不釣り合いな血の海を越えた彼の視線は、木剣を下段に構えたまま固まっていた田中太郎の足元を横切ると、そのすぐ側に横たわっていた橋下里香の白い足に向けられた。
捕食者である蜘蛛が更に上の捕食者である鳥の奇襲を受けると、蝶はその美しい羽を輝かせながら大地に落ちた。退屈な現実が蝶に束の間の自由を与えたのだ。それでも蜘蛛の糸はまだ絡まったままで、羽を動かせない蝶はすぐにまた別の捕食者に狙われる可能性があった。
みぞおちの痛みに呻きつつ、剥ぎ捨てられた彼女の衣服を掴んだ木崎は、それを彼女の体に被せていった。だが、彼女の小ぶりな胸を隠すための下着と、濡れた肌にピッタリと張り付いてしまうスキニージーンズだけはどうしても着せられない。困惑の表情で視線を上げた木崎は、幼馴染の少女を探して旧校舎の廊下を振り返った。だが、既に彼女の影はない。仕方なく更に上に視線を動かしていった木崎は、指先から鮮血を滴らせる長身の男を恐る恐る見上げた。
「あ、あのさ」
木崎は声を震わせた。彫りの深い彼の端正な顔が怖かったのだ。その長身の体躯と合わせて、彼の容貌は何処か、捕食者である小野寺文久の雰囲気を備えていた。
「なぁ、ちょっと手伝ってくれないか?」
返事はない。
代わりに、田中太郎の首から上のみがグルンと床に向けられる。木崎は肩を震わせるも、その陰気な表情は崩すことなく、田中太郎の目をしっかりと見返した。
「き、着せかたが分からなくって……。この人って、あんたの知り合いだろ?」
「第三王子」
「え?」
「“エターナル・リッジ王国”の第三王子殿だな」
「はぁ……?」
「なぁ第三王子殿、“五人の怨霊”から姫を助け出すために、俺に手を貸して欲しい。“隻翼の赤龍”がここに迫ってきてるんだ」
そう言った田中太郎はスッと片膝をついた。その表情は滑稽なほどに神妙で、その瞳には一切の濁りが見えなかった。
クラシックピアノのゆったりとした音色が旧校舎に流れてくる。亡き王女のためのパヴァーヌ。繊細で優雅なその旋律は何処か物哀しげでもあった。
木崎は腫れぼったい瞼を見開いた。田中太郎の瞳に、幼馴染である村田みどりの瞳を見たのだ。それは眩しく透き通った光だった。その事に気が付いた木崎は、荒唐無稽に思えた彼の話に強い興味を覚えた。それはまるで夢物語のような。村田みどりの語る永遠の未来と同等に、彼の話は、何処までも単色で美しかった。
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