王子の苦悩

忍野木しか

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第三章

王子の苦悩

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 三原麗奈は降参のポーズを取ったまま、ゆっくりと腰を上げていった。夏の校舎に透けるアッシュブラウンのショートヘアは薄い羽衣のように涼やかで、前髪でおでこを隠した彼女はそれでも、その明るい栗色の瞳に陽気な雰囲気を備えさせていた。
 対照的に、吉田障子という男は何処までも陰気だった。ワックスで髪を整え、服装をわざとらしく乱れさせた彼はそれでも、その線の細い体つきと、やや中性的な顔立ちから大人しい男の子という印象が拭えない。ただ、その瞳の暗さは尋常ではなく、彼の声には人の心を打ち震わせるセイレーンの魂が宿っていた。
「あ、あ、あの……」
 三原麗奈はおずおずと声を絞り出した。
 そのキョロキョロと落ち着きのない視線の大半は窓の外へと泳いでいっており、白い紙の束を抱えた足田太志は紺碧の空にも負けない眩しい笑みを浮かべながら「どうかしたか?」と優しげな声を出した。
「そ、その、あの、花子さんたちの事で……」
 にわかに足田太志の表情が強張る。紙の束を小脇に彼は苦悶の表情をみせた。
「睦月さんたちの行方は未だに分からないそうなんだ。それと、どうにも睦月さんたち四人だけじゃなく、八田先生を含めた心霊学会の人たちもいなくなってるらしい」
「警察は動いてるんですよね……?」
「ああ、もうとっくに動いてる。先生方も寝る間を惜しんで彼らを探してるよ。俺にも何か出来ることはないかって彼らの家を訪ねてみたんだけど、結局、何の手掛かりも掴めなかった」
「そ、そうだったんですか……」
「まぁ、睦月さんと田中くんに関しては大丈夫だろうと俺は信じてるよ。彼らは俺なんかよりもずっとしっかりしているからね。ただ、姫宮さんと田川くんが心配だ。あの二人はまだ一年生だし、二人の無事を祈る事しか出来ない自分に哀しくなるよ」
「……君が気にする必要なんてないってば」
 ボソリと陽が沈むような声が足田太志の耳に届く。おや、と視線を上げた足田太志は、未だに俯いたままの吉田障子の不満げな口元に首を傾げた。
「あ、あの、その……、でも、なんか皆んな普通の事みたいな……」
 もじもじと手をこまねく麗奈の声はうっすらと街を照らす朝日のようで、陰気な少年から視線を戻した足田太志は「ん?」と努めて優しげに目を細めた。
「なんか、あんまり騒ぎになってないような……」
「ああ、うむ……。いや、これは聞いた話なんだが、どうにも心霊学会の方たちの失踪は口外が控えられているらしいんだ。なんでも、信者たちの大半がそういった事件に敏感らしくて、学会の幹部が行方不明になったなんて話は表沙汰に出来ないそうなんだ」
「そ、そんな……」
「それは絶対におかしいと俺も思ってる」
 そう言って足田太志は口を紡いだ。
 生徒会室から顔だけを覗かせていた副会長の宮田風花と書記の徳山吾郎の表情も不安げで、ただ、二人の懸念はどうにも失踪者たちの安否に対してではなく、生徒会室を訪れた三原麗奈と吉田障子の存在に向けられているようだった。
「あの、お二人は何か知りませんか……?」
 藁にもすがる想いで麗奈はそう首を傾げる。慌てて視線を逸らした徳山吾郎の体がスッと生徒会室の奥に消えると、極寒の風のような視線を彼に送った宮田風花は申し訳なさそうに肩を落とした。
「三原さん、ごめんなさい。私にも何も分からなくって」
「そ、そうですか……」
 麗奈がそう落胆したように俯くと、宮田風花は居た堪れないような罪悪感を覚えてしまい、麗奈と同じように視線を落としてしまった。吉田障子は相変わらず不貞腐れたような表情のままで、気まずい沈黙が夏休みの校舎を漂い始める。
 ふと足田太志は強張っていた頬を緩めた。
 人の機微には鈍感、良く言えば大らかな足田太志はそれでも、目の前の幼馴染の様子に何やら違和感を感じてしまったのだ。
 足田太志に対しての三原麗奈の態度は小学生の頃から様々だった。大抵は不機嫌そうに腕を組み、不貞腐れたように唇を尖らせ、いつも何やら気まずそうに俯くばかり。ごく稀に本当に嬉しそうな笑顔を見せるも、彼女はすぐにそれを否定し、その後しばらくの間はよそよそしい態度でツンと目を合わせようともしなくなる。彼女の敬語口調は足田太志にとっては別段に珍しいものでもなく、むしろコロコロと入れ替わる彼女の表情の変化に、関心の念すら抱くことがあった。
 天性の才か、はたまた、努力の賜物か。普段から役作りに徹しているのだろうと、鈍感で唐変木で前向きな彼なりに、幼馴染である彼女のことは理解してあげようと努めてきたのだった。
 そんな足田太志が抱いた違和感は、麗奈の宮田風花に対する態度である。彼女が同性に対して敬語を使うのを見るのはこれが初めてだったのだ。よく見れば腰が引けた麗奈の態度はよそよそしいと言うよりも弱々しい。いったい何があったのかと、足田太志は頬を緩めたまま首を傾げた。
「あ、そっか! 今の三原さんって吉田くんだったんだ!」
 宮田風花が素っ頓狂な声を上げる。足田太志と同様に麗奈の様子に違和感を抱いていた風花は、つい最近の出来事を思い出すと、合点がいったように手のひらを合わせた。
 俯きがちに唇を結んでいた吉田障子の目の色が変わる。同時に、生徒会室に隠れていた徳山吾郎が廊下に飛び出してきた。
「じゃあ、何だか不機嫌そうな彼が三原さんってわけで……」
「おおおーいっ、宮田くーんっ! いったい君は何度口を滑らせば気が済むんだねっ!」
 徳山吾郎の手が、宮田風花の唇を覆い隠す。
 吾郎の勢いに押されるようにしてバランスを崩した風花は「痴漢ッ!」と鋭い声を上げると、ボディブロー、肘打ち、両手突き、手刀、と吾郎の体に目にも止まらぬ連打を入れていった。
 そんな二人の喧騒は見慣れた光景なのか、足田太志はさして気に留めることもなく、麗奈に向かって何やら興味深げに目配せをした。
「まさかそれも役作りの一環なのか?」
「へ……?」
「いや、君が宮田さんにまで敬語を使うなんて珍しいんじゃないかと思ってね」
「あ……」
 麗奈の背筋に冷たいものが走る。
 確かに同級生を相手に敬語は不自然だろうと思ったのだ。つい先程の宮田風花の失言と相まって、頬を真っ青にした麗奈はそれでも懸命に何でもないような笑顔を作った。
「あはは……」
「夏に入った辺りからかな、何処かおかしな君の様子に疑問を覚えていたんだよ。ほら、俺たちってもう随分と付き合いが長いじゃないか。だからこそ、不思議に思ったりすることもあってね。もしかして再来週の地区予選に向けての役作りだったりするのかな?」
「えへへ……」
「おっと、それを聞くのは野暮ってもんだね。はは、せっかちで済まない。君の舞台、本当に楽しみにしてるよ。なぁ吉田くん?」
 足田太志の青々とした視線が吉田障子に向けられる。だが、吉田障子が視線を上げる気配はなく、リノリウムの廊下を蹴りながら彼は「付き合ってなんか……」と何やらブツブツ呟き続けるのだった。
「それで三原さん、体調の方は大丈夫なのか? 何せこの暑さだ、また熱中症にでもなってしまったら大変だよ」
「あ、へへ……。ま、ままぁ、そうっす、だよね……な……」
「ん?」
「えぁ……、ね、熱中症は、き、きき気をつけないと、だよ、な……」
「んん?」
「あぅ、う……、あ、あの……、あ、危ない……だもん、な……」
「三原さん?」
 足田太志の眉があからさまに顰められる。もはや何が何だか分からなくなった麗奈はぐるぐると目を回しながら「あれぇ?」と鞄の中をかき回し始めた。気が動転してしまい、止まってはいられなくなったのだ。
 探し物が見つからないという態で「あれぇ? あれぇ?」と声を上げ続ける麗奈の元に視線が集まってくる。そんな視線から逃れるように、鞄の奥底に目を凝らしていった麗奈はふと手の動きを止めた。何か硬い物が指先に触れたのだ。いったい何だろうかと、白い体操着をかき分けた麗奈は「ぎゃあ!」鋭い悲鳴をあげた。
「おい三原さん、どうかしたのか?」
 紙の束を投げ捨てた足田太志が慌てた様子で麗奈の元に駆け寄ってくる。
 麗奈はといえば、すっかりその存在を忘れてしまっていた改造スタンガンの黒い表面に狼狽してしまい、あわわ、と首を横に振ることしか出来なかった。
「な、ななな、な、な……! なんれもないですぅ……!」
「なんでもなくはないだろう! まさか指でも切ってしまったのか?」
「ほ、ほほほ、本当に、なんでもないんれすからぁ……!」
 麗奈はあたふたとその場に倒れそうになった。そんな麗奈のほっそりとした背中に足田太志が腕を回す。その様はまるでお姫様の体を支える王子様のようで、そっと視線を上げた吉田障子はその光景に固まってしまった。夏の日差しに明るい四階の廊下は今や、物語に登場するお城のバルコニーのように華やかだった。
「ほら、手を見せてみろ!」
 足田太志はそう怒鳴ると、鞄の中に沈んでいた麗奈の手を引き抜いた。そうして、麗奈の細長い指をまじまじと見つめた太志は安堵のため息をつく。見たところ怪我の心配は無さそうで、ほんのりと湿った彼女の手は春の陽気のように温かった。
「うん、怪我はしていないようだね」
「は、はいぃ……」
「はは、まったく人騒がせな。急に叫んで、いったい何があったというんだ?」
「は、はぇ……え、ええっと、その……、ス、スス、スズメがぁ……」
「スズメ?」
「い、い、いえ……その……、ス、スズメじゃなくってぇ……」
「なぁ三原さん、ちょっと鞄の中を見せてくれないか?」
 そう言うが否や、足田太志は有無を言わせず麗奈の鞄に手を突っ込んだ。「だ、だめですぅ……!」と麗奈は懸命に太志の腕にしがみ付く。だが、太志は気にせず麗奈の鞄の中を掻き回し続け、そうして何やら神妙な顔をした太志が青いハーフパンツを引っ張り出すと、真冬の冷気を瞳に宿した宮田風花のハイキックが彼の頚椎に振り下ろされた。
「会長には失望しました」
「み、宮田さん、違うんだ! ただ俺は、彼女のことが心配で!」
「言い訳は聞きたくないです。死んでください」
 宮田風花のアイアンクローが足田太志のこめかみに食い込む。その隙にハーフパンツを奪い返した麗奈はほっと鞄のチャックを閉じた。だが、まだ足田太志の手は麗奈の手を掴んだままで、その手を振り払うのを躊躇ってしまった麗奈は仕方なく宮田風花による裁きが終わるのを待つことにした。
 日暮れにはまだ早い夏空を白い雲が流れていく。四階の校舎から見える街の景色は青々とした静寂に包まれており、その夢を誘うような長閑さに、麗奈の意識はゆったりと薄れていった。
 彼の手を握りしめたまま、麗奈は夢見心地に頬を緩めた。そうして、そっと鞄を下ろした麗奈は、目の前の彼の肩を優しく撫で始める。慰めるように。愛おしむように。
 吉田障子は呼吸を止めた。
 すると、四階の校舎の空気が変わる。
 夏休みの校舎は劇場の座席のように静かだった。ただ、生徒会室前の廊下だけが舞台の上のように騒がしい。それは眺めることしか出来ない夢の光景であり、客席からは決して届かない物語の情景であった。
 眩しかった。
 その美しさに吉田障子は呼吸を忘れてしまった。
 彼と彼女はこれほどまでに優雅に交われるのかと、吉田障子は、決して届かぬ物語の情景に儚い夢を見た。見上げることしか出来ない舞台の上に。ほんの数メートル先の、永遠の夢に。
 四階の校舎の空気が変わる。
 それに気が付いた者はいない。
 吉田障子は胸の奥底で涙を流した。眩しく、美しく、儚い夢に、吉田障子は絶望の涙を流した。
 それは決して手の届かない夢の光景だった。それは彼と彼女の純心が織りなす夢の舞台だった。
 邪心に汚れた自分がどれほど望んでも手に入らぬ夢の舞台に、自分の姿をした他人が立っている。ただ眺めることしか出来ない舞台の上で、自分の姿をしたお姫様が王子様と手を繋いでいる。
 その純心は祝福か。ならば邪心は呪いなのか。王子とは呪われた存在なのだろうか。純粋たる姫を守るのは邪悪たる王子の役目なのだろうか。
 いいや、違う。王子が邪悪なのではない。自分が邪悪なのだ。邪悪な自分が王子に選ばれてしまったのだ。
 姫を守る王子は純粋でもいい。王子に守られる姫は邪悪でもいい。純粋な王子と邪悪な姫で美しい物語を紡ぎ上げられる。それなのに、どうして自分は王子に選ばれたのか。どうして自分は姫に選ばれなかったのか。
 王子は苦悩した。
 吉田障子は胸を渦巻く黒い影に瞳を閉じた。
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