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第三章
夏の暮れ
しおりを挟む一学期の終わりは快晴だった。
茹だるような夏の暑さ。普段よりも大きな蝉の鳴き声が静かな校舎に響き渡っている。
終業式のために体育館に集まった生徒の大半は気怠げな表情をしていた。真昼間の学校は既に日常の外だったのだ。
ただ、一部の生徒の表情は険しい。何かに憂いているかのような。夏の暑さや、校長の話の長さに対する憂いではない。許容しきれない変化への鬱憤。自分達を取り巻く小さな世界に対する苦悩。
無数のバイクの排気音がグラウンドを震わせる。どうやら暴走族が正門前の道路を通り過ぎたらしい。
うるさいと眉を顰める生徒がいれば、怖いと肩を縮こめる生徒もいる。我関せずと欠伸をする生徒がいれば、警戒したように目を細める生徒もいる。反応はまちまちであるが、暴走集団の存在自体は知れ渡っているようだった。子供たちの情報網は案外広いのだ。彼らの大半は突然街に増え始めたバイク集団に辟易していた。
「なんか最近、物騒だよね」
「今朝も折伏があったらしいよ」
「制服掴まれて、腕を怪我したんだって」
「怖いよ。警察には通報したんでしょ?」
「分かんない。ただ、心霊学会は動いてるって噂だよ」
「八田先生たち、対策のために本殿に戻ってるんだってね──」
小さな工場の日陰で、山田春雄は腕を組んだ。
黒いつなぎを着た彼の表情は暗い。元暴走チーム“苦露蛆蚓”のリーダーである彼は現状を憂いていた。自分の工場に集まった荒くれ者ども。その中でも特に目立たない二人の男の存在に山田春雄は苦悩していた。
「なぁ、モチヅキくん。本当に大丈夫なんだろうな」
山田春雄の不安げな声に痩せた男が振り返る。猫っ毛の天パ。吉田障子はやれやれと肩をすくめた。
「今度は何だよ」
「何だよじゃないって、ちゃんと説明しろよ」
「何を?」
「新チームの件だ。お前はいったい何がしたい?」
首を傾げた山田春雄は足を小刻みに揺らし始めた。
“正獰会”、“紋天”、“苦露蛆蚓”による連合チームを今日この場で一つにする──。
野洲孝之助がそう宣言したのは先日の総会での事だ。
特に反対意見はなかった。そもそも野洲幸之助の元に集まった時点で、それが一つのチームであると疑う者はいなかったからだ。三つのチームの目的は“火龍炎”への報復であり、やがては街のトップに君臨する事である。今更宣言などと、正直の所どうでもいい、というのが彼らの本音であった。
新たなチーム名は“苦獰天”とするという。野洲孝之助の掲げた白い旗には金と赤でチーム名が刺繍されており、日光を弾く金色の光は鮮やかだった。
旗とチーム名は熱狂と共に迎えられた。らしくなってきたなと、前回のライブ会場襲撃の失敗に気落ちしていた彼らの心にやっとまた火がついたのだ。
だが、山田春雄は不安を隠せなかった。新チーム結成の背景に二人の男の存在があったからだ。どうにも野洲孝之助は、キザキが連れてきたモチヅキという男の助言に従って新チームを纏め上げる決心をつけたらしい。それが春雄には不満だった。モチヅキという男も、キザキという男も、春雄にとっては信用ならない存在だったからだ。新チーム結成の裏に何か思惑が隠されているのではないか。そう考えずにはいられなかった。
「なんでいきなり宣言なんだ。しかもチーム名を街中に知らしめるって。いったい何が目的だ?」
「おいおい目的って、新チーム結成は野洲クンの本意だっての。つーか、お前らもその為に集まったんだろーが」
「いや、まぁそれはそうだが。なんでお前の方から野洲くんにその助言をしたのか、理由を聞かせてくれ」
「ただの話の流れだっつの。まぁ当然理由はあるけど」
そう言って軽く周囲を見渡した吉田障子は、ほんの一瞬、工場の隅のハンモックで横になったキザキを横目に流し見た。
「どんな理由だ。アイツらを街で走らせてるのにも何か理由があるのか?」
「ああ、せっかく新チームが出来上がったんだし、すぐにでも名前を広めねーとさ」
「いや、急過ぎる。まだ出来上がったばかりで、流石に目立ち過ぎだ。この街には他のチームもいるし、“火龍炎”の奴らだってまた集まるかも知れないんだぞ?」
現在、新暴走チーム“苦獰天”は、野洲孝之助を頭に街を走り回っていた。低い排気音を上げながら白い旗を掲げるその姿は堂々としたもので、新チーム結成の宣言は確実に彼らの士気を上げているようだった。
だが、それは危うくもあると、山田春雄は気が気じゃなかった。他のチームの動きが気になったからだ。それでなくとも自分達は、心道霊法学会という異質な集団と暴力とはまた違った方法で関わっていかなければならないのである。今は他のチームとの抗争は避けるべきだ、と山田春雄は焦燥感に駆られていた。
「他は大丈夫だっつの。俺たちは三チームの連合だぜ? 巨大過ぎておいそれとは誰も手が出せねーよ」
「いいや、モチヅキくん、アンタは俺たちの事を知らな過ぎだ。俺たちを狙おうってチームは必ず出てくるんだよ。実際、“鬼麟”っていう名前のチームが“苦獰天”を狙ってるって噂もある」
「へぇ、キリンね。どんなチームなんだ?」
「どんなチームかは知らない。俺も“鬼麟”なんてチーム名は初めて聞いた。ただ、結構ヤバい奴らだって噂だ。何でも奴らは半グレ集団で、薬や売春なんかの犯罪行為にも手を染めてるらしい」
「はは、噂か。ま、でも大丈夫だよ」
「だから何が大丈夫だってんだよ!」
山田春雄は息を荒げた。だが、声は無意識に抑えているようで、その赤く染まった顔を振り返る者はいない。そんな山田春雄から視線を落とした吉田障子は、深いため息をつくと口元に冷たい笑みを浮かべた。
「仮想のチームだからさ」
「は?」
「俺が“鬼麟”を創ったんだ。まぁ噂を広めただけだがよ。あとは“苦獰天”が警察の目に止まり、“鬼麟”と“苦獰天”には何の繋がりもないということが周知の事実となるのを待つだけだ」
「いや、何で……?」
「──だよ」
吉田障子はニヤリと笑う。
山田春雄は絶句した。ゴクリと唾を飲み込んだ春雄は慌てたように周囲を確認する。ペンキに汚れた床に腰を下ろしてバカ騒ぎする者たち。トランプを囲む者たち。賭け麻雀に熱中する者たち。誰も二人の会話には意識を向けていない。いや、いつの間にかハンモックから下りていたキザキのみが、電気ケトルで湯を沸かしながらジッとこちらを見つめていた。
「じょ、冗談だろ……?」
そう呟いた山田春雄は笑ってしまった。笑わずにはいられなかったのだ。
「冗談じゃねーよ。いいか山田クン、絶対に誰にも言うんじゃねーぞ。特に野洲クンには気を付けろ」
「ま、待て待て待て、モチヅキくん、冗談だよな? そ、そんなこと、許されるわけがない……」
「ぷはっ、おいおいおい、冗談だろはこっちのセリフだって。許されねーことばっかやってんのがお前ら暴走族じゃねーか」
思わず吹き出した吉田障子はすぐに呆れたように肩を落とした。その瞳の冷たさに山田春雄は戦慄する。
「なぁ山田クン、俺はよ、その為にお前らを選んだんだぜ。頼むからしっかりしてくれ」
「だ、だけど、無理だろ、どうやってそんな事を……。い、いや、絶対に無理だ。俺たちが犯罪者になるだけだ!」
「大丈夫だって、俺たちなら絶対に上手くやれるからさ」
「無理だって! 第一、出て来ねーだろ?」
「いいや、出て来るさ。その為に大場亜香里がいるんだ」
「お……」
「この話はまた今度にしよう」
そう言った吉田障子は片手を上げた。キザキがこちらに歩み寄って来たのだ。彼の指に掛かった三つの赤いカップからは湯気が上がっており、熱いコーヒーをキザキから受け取った山田春雄はおずおずと側の転がっていたドラム缶に腰を下ろした。
「何だよ、キザキ?」
吉田障子はゆっくりと赤いカップを口に運んだ。苦味の強いインスタントのコーヒーだ。一口飲んで顔を顰めた彼はそれをコンクリートの床に置いた。
「山麓の件は調べがついたと、報告しておこうと思ってな」
「なんだと……?」
早過ぎる、と吉田障子は声を低くした。学会の山麓はそれほど頻繁に客が出入りするような宿ではない。一週間やそこらで情報を集めるのは不可能に近いだろう。嘘か、偶然か。はたまた想定外の何かがあったのか。警戒心を抱いた吉田障子は探るように目を細めた。
「へぇ、それは朗報だ……。で、どんな客だった?」
「普通の客さ。十人くらいは調べてある」
「おいおい、おいおいおい、馬鹿にしてんのか。一週間で十人も客が出入りするかよ!」
「この一週間は客がいなかった。だから、今まで出入りした客を調べたんだ」
「いや、まさか……、学会は一切の証拠を残していない筈だ」
「証拠を残さないなどと、土台無理な話だ。人と人が交わっている。例え紙や電子に残されておらずとも、証拠はいくらでも存在するんだ」
「紙や電子の証拠が欲しいんだよ」
「安心しろ。それも既に集めてある」
吉田障子は足元に視線を落とした。何か思案するように目を瞑った彼は左頬に薬指を当てる。鼻腔をくすぐるコーヒーの香り。仄白い湯気は昇り続けることを止めない。舞台の動きは止めるわけにはいかない。
「なぁキザキ、お前は人を殺せるか?」
「またその話か」
キザキはコーヒーを啜った。その腫れぼったい目は吉田障子の口元に向けられている。
「今のお前からの依頼であれば思案くらいはしてやろう」
「実行に移せるのはいつだ?」
「出来次第だ。心霊学会に対するお前の試みのな」
「それならもうすぐさ」
吉田障子の唇が大きく横に裂ける。そのあまりにも冷たい表情に山田春雄は背筋が寒くなった。
キザキは肩を落とした。腫れぼったい瞼。またコーヒーを啜った彼は酷く気怠げな息を吐いた。
「気は進まんがな。殺しの依頼など弱者の行為だ。それをするお前の程度が知れる」
「うるせーよ。一番手っ取り早い方法を選んだまでだ」
「ふん。で、殺したい相手は誰だ」
「母親」
ほんの一瞬、工場の時間が止まる。凍り付いたかのような静寂。コーヒーを片手に山田春雄が動きを止めると、キザキの薄い眉がピクリと縦に動いた。
「お前のか?」
「ああ、吉田真智子を始末してくれ」
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