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第三章
トラウマ
しおりを挟む心道霊法学会の本殿から二台の乗用車が遠ざかっていく。
正門前で姿勢を正した幹部たちがそれを丁寧に見送ると、本殿の最上階でその様子を眺めていた八田弘はモニターの電源を切った。
ちょうど太陽が西に傾き始める時間帯だ。急な来訪者に寝覚めの悪い八田弘は乱れたベットの上でイライラと呼び鈴を鳴らすと、薄い羽織りはそのままに腹巻きの位置を直した。健康だけが取り柄だと彼はヘソまで伸びた自分の顎髭を愛おしそうに撫でる。盛り上がった腹の肉は気になるが、それ以外は若い頃とさほど変わりない。いや、むしろ若い頃よりも元気かも知れない。そんな薄ら笑いを浮かべた八田弘は、寝室の扉を叩く静かな音を耳にすると「入れ」と掠れた声を出した。
「失礼いたします」
給仕の小野美咲が頭を下げる。艶やかな黒髪を後ろに纏めた彼女の表情は雪解けの清流のように涼やかだ。先ほどの来訪者とは大違いだな、と八田弘はほんの僅かに口角を持ち上げた。
「遅かったではないか」
「申し訳ございません。先方から尊師へと贈り物を頂いていたものでして」
「ふん、対面ばかり気にする奴らだ」
確か日創会の奴らだったか、と八田弘は先ほど連絡を受けた際に聞いた名前を思い出そうとした。日創会は法華経系の宗教法人で、平和党という政党の支持団体でもある。全国規模の彼らは未だ普及活動に精力的であり、徐々に規模を拡大しつつある心道霊法学会とは折り合いが悪かった。
そんな彼らが何故突然こちらに来訪したのか。気にはなったが調べる気にはならない。それは彼らに興味が無かったからというわけではなく、来訪者の中年女性が見るに堪えない不快な容姿をしていたからだ。ブクブクと肥えた身体。パグ犬のように締まりのない表情。思い出すのも忌まわしいと、八田弘は白い床に痰を吐いた。
「何をしている?」
視線を上げた八田弘はこちらに背を向ける小野美咲の身体を舐めるように見回した。ピタリと張り付いた純白のロングシャツワンピースが均整のとれた彼女の肢体を強調し、纏められた艶やかな黒髪が彼女の白いうなじを輝かせている。先ほどの醜い女とは大違いだ、と八田弘は下半身の熱に目が覚める思いがした。
「申し訳ありません。包装のリボンが上手く解けず……」
「ふは、そんなもの切ればよかろう」
「よ、宜しいのですか?」
「よい。とっとと済ませろ」
そう言葉を吐き捨てた八田弘は湧き上がる情欲に微かな違和感を覚えた。まだ目覚めたばかりである。それにもかかわらず高ぶりが抑えられない。純白の女の肢体から目が離せない。そして、先ほどの醜い女の身体もまた頭から離れない。
いったいどうしたというのか。八田弘は自分の腰を見下ろして眉を顰めた。
ちょきん──。
その音に八田弘は体を硬直させた。どっど、と彼の心臓が胸の内側を殴り始める。それは懐かしい音だった。ハサミの刃が擦れ合う音──。
せんせい──。
八田弘は慌てて顔を上げた。そうして広い寝室を見渡した彼はベットの上からズレ落ちそうになる。確かに声を聞いたのだ。舌足らずな少女の声を。
「お、おい」
「はい」
「今、何か妙な声が聞こえなかったか?」
「声、ですか?」
小野美咲はキョトンとした表情で首を傾げた。その手に握れられた布切りバサミに八田弘は息を止める。
「そ、そ、それを仕舞え」
「え……?」
「その手の物を二度とワタシに見せるな!」
「は、はい」
小野美咲は慌ててハサミを背中に隠した。だが、八田弘の動悸は止まらない。先ほどの醜い女の顔が頭から離れない。先ほどの音が耳から離れない。
「新平を呼べ!」
八田弘は叫んだ。その口から泡の混じった唾が飛び散ると、小野美咲は激しい恐怖に足を震わせ始めた。
「お、荻野様を、今、この場にでしょうか?」
「そうだ。はやく呼べ」
「で、ですが荻野様は現在、富士峰高校の方に……」
「くっ……。な、ならば誰でもよい。幹部の者を早くここに連れて来い!」
「はい」
小野美咲は転がるようにして寝室を飛び出した。廊下の白い光が寝室に流れ込む。八田弘は小刻みに震える両手を顔の前に合わせた。そうして彼は祈りの言葉を唱え始める。
祓え給え……。
祓え給え……。
祓え給え……。
ちょきん──。
少女の声だった。舌足らずな少女の声。
「は、祓え給え……。祓え給え……。祓え給え……」
荻野新平はここに残して置くべきだった、と八田弘は激しく後悔した。あの夜の校舎から生還し、そして、戦場を経験したあの男ほど頼りになる者は他にいない。
睦月花子を早くこちらに迎え入れて置くべきだった、と八田弘は恐怖に震えた。かつて自分を救った女。あの恐れを知らぬ鬼ほど心強い存在は他にいない。
せんせい──。
足元を影が走る。恐る恐る視線を下げた八田弘はベットの影からこちらを見つめる手縫いの人形に低い悲鳴を上げた。
「や、やめ、やめ、も、もうやめてくれ。む、む、村田さん、もうやめてくれ。僕はもう君の先生じゃないんだ」
ベットに這い上がった八田弘は頭から布団を被った。だが、舌足らずな少女の声は消えてくれない。ジョキジョキと布を切るハサミの音は消えてくれない。
布団の中でガタガタと体を震わせながら、八田弘は懸命に教師時代の記憶を頭から追い払おうとした。受け持った生徒たちの顔。想いを寄せた同僚の女性の顔。知恵の遅れた醜い少女の顔。
村田みどりは彼が受け持った生徒ではなかった。だが、彼女は彼の事を知っていた。「懐かしいね」と言い「久しぶりだね」と笑った。知的機能に障害があった彼女は教師であった彼を同級生の友達だと認識していた。
村田みどりはイジメられていた。だが、彼女は奇怪な言動をやめなかった。幼馴染を「王子様」と呼び、自分を「お姫様」と呼んだ。
醜い容姿。太った体。その舌足らずの声のみが異様に甲高い。
「もうやめてくれ……もうやめてくれ……」
八田弘は耳を塞いだ。だが、目は瞑らなかった。
怖かったからだ。彼の瞼の裏には醜い少女の潰れた肉塊がこびりついていた。
二年C組の扉の前で、三原麗奈はため息をついた。
睦月花子を呼びたかったのだが、声が喉につっかえて出てこなかったのだ。原因は、花子の隣で参考書を広げる背の高い男子生徒の存在である。田中太郎の端正な横顔が麗奈の声を奪ってしまっていた。
放課後の校舎は騒がしい。廊下を行き交う生徒たちは絶え間なく、麗奈の小鳥の囀りのような声などすぐに飲まれてしまう。声を届かせる行為を諦めた麗奈は、早くこちらに気が付いてくれと、花子に向かって祈るように下唇を噛んだ。
「三原先輩、何してんすか」
背後からの突然の声に「ぎゃあ」と悲鳴を上げた麗奈は背筋を伸ばした。ひっくり返るようにして後ろを振り返った麗奈は、広いおでこに皺を寄せた短髪の男子生徒に向かって首を傾げる。
「た、田川くん」
「くん?」
「ど、どうかしたの?」
「いや、三原先輩の方こそどうしちゃったんすか。らしくないっすね」
「あ、えっと、別に……」
麗奈は頰を赤くした。そんな麗奈の瞳を覗き込む田川明彦の表情は訝しげである。モジモジと指を重ね合わせた麗奈は窓の向こうに視線を泳がせていった。
「まぁいいや。あー、三原先輩、ちょっといいすか」
「え?」
「あの突然なんすけど、三原先輩って、その、吉田障子って名前の一年のことは知ってますか。あー、いや、マジ突然ですいません。そいつ俺と同じクラスの奴なんすけど……」
「あ、う、うん。知ってるけど……」
「マ、マジすか。実は、そいつがちょっと今から三原先輩と話し合いがしたいって、いや、そのっすね、花子先輩も一緒になんすけど……」
明彦の声が段々と小さくなっていく。その瞳に溢れる明らかな恐怖の色に、何事かと麗奈は眉を顰めた。
「なーに騒いでんのよ」
先ほどの麗奈の悲鳴を聞きつけたのか、気怠そうな表情をした睦月花子が廊下に足を出した。花子に続くようにして田中太郎も教室を後にする。
「田川明彦、アンタの方から私を訪ねに来るなんて珍しいじゃない」
「い、いえ、その、ちょっと花子さんを呼ぶように頼まれたんすよ」
「私を呼ぶようにですって」
「そっす」
「はん、この私を呼び出すなんていい度胸してんじゃないの。いったい何処の何奴よ」
そう指の骨を鳴らした花子の瞳が微かに赤く燃え上がる。だが、明彦が「吉田障子っす」と表情を険しくすると、途端に興味を失った花子は肩を落とした。
「たく、異常性癖モブウサギと関わってる暇なんて私にはないっつの。今日も秀吉の家に行かなきゃならないんだから」
「はぁ、今日も行くのか」
田中太郎は露骨に肩を落とした。そんな太郎に向かって花子は鬼の形相を浮かべる。
「アンタねぇ、私たちの大事な後輩が苦しんでんのよ。何を押してでも駆けつけてやんのが先輩の役目ってもんでしょ!」
「いや、アンタがドアを破壊しちまったせいで顔を出しづらいんだよ。申し訳なくってな」
「はあん、あれは不可抗力でしょーが」
「何が不可抗力だよ。警察沙汰だっつーの」
「あ、あの……」
二人の会話に挟まるように麗奈は片手を上げた。恐る恐るといった態度だ。やっと麗奈の存在に気が付いたのか、花子と太郎は目を丸めた。
「吉田何某じゃない。なによ、また私と将棋が指したいっての」
そう指先を伸ばした花子の瞳にまた赤い炎が燃え上がる。だが、「姫宮さんが……」と麗奈が背中を丸めると、途端に肩を落とした花子はまた興味を失ったようにため息をついた。
「あのねぇ」
「昼休みの終わりに、その、姫宮さんがまた緊急会議を開かなきゃって騒ぎ始めて……」
「緊急会議って、これ以上何の会議をするってのよ」
「さぁ……」
「あー、ちょっといいすか」
田川明彦も片手を上げた。先ほどまでの恐怖の色が消えたその瞳には、代わりに困惑の色が溢れている。
「実は、姫宮さんも吉田の奴に呼ばれてて、その、心霊学会との話し合いと一緒に、何だっけ、あー、なんかの幽霊の話し合いもするとか何とかって」
「まさかヤナギの幽霊のこと?」
「ああ、それっす」
「はん、まぁ姫宮玲華のドアホは置いといて、アイツらがこの私よりヤナギの幽霊に詳しいとは思えないわね」
「はぁ、そうなんすか。ああ、それと吉田の奴、何かイジメについて花子さんに相談があるとも言ってましたね」
その言葉に花子の表情が変わった。
「イジメですって?」
「そっす。何かイジメが起こってるとかで、その主犯格に心当たりがあるって吉田の奴が……」
そう言った明彦は肩をすくめた。いったい何が何なのか、分からない事ばかりだといった表情だ。
そんな明彦を無視して太郎と顔を見合わせた花子は口元に指を当てた。
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