王子の苦悩

忍野木しか

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第三章

厄介な男

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 心霊現象研究部の部室には古びた星図のポスターが貼られていた。そこはかつての天文部の部室であり、天体望遠鏡などの当時の備品は残されたままとなっている。陽光による備品の経年劣化を防ぐ為にカーテンは常に閉じられており、狭く薄暗い四階の部室に部員たちが集まることは少ない。稀にミーティングの場として使われるのみの部室である。

「それで、何か分かったの?」
 大場亜香里は長い足を組んだ。その表情はいつになく曇っている。部室には心霊現象研究部の主要メンバーたちが集まっており、彼らは亜香里の瞳から逃げるように視線を下げていた。
「亀田くん、貴方はどう考えてるのよ」
 亜香里の視線が横に動く。副部長の亀田正人は大柄の体を椅子に縮こめると、首を傾げるような仕草で亜香里のカールしたまつ毛を見返した。
「由々しき事態かと」
「どの辺りが?」
「放っておけば、ただでは済まないでしょう」
「だから、何がどう済まないのかを教えてくれる?」
 そう声を低くした亜香里はアーモンド型の目を見開いた。その眼光の強さに亀田正人はたじろいでしまう。亀田正人が押し黙ると、代わりに、同じく副部長である平野杏奈が高い声を上げた。
「つまりあれっしょ、ほら、あの信者増やす的なでっかいこーしん。ほっといたら皆んな、なんちゃらかんちゃらの信者になっちゃうってわけよ」
「いいや、流石にそれはないと思うよ」
 二年生の土井浩平が首を振る。そもそも彼は、折伏があったという話自体に懐疑的だった。
「聞いたところによると被害に遭ったのはこの学校の生徒だけらしい。しかも通学路で起こったという話だ。本当に折伏だったならば、学生じゃなく例えば貧困家庭とか、まだ一人暮らしに慣れてない若者なんかを狙う筈だよ。俺はさ、強引なナンパでもされた生徒たちが話を誇張しているだけだと思うんだ」
「でも、男子生徒だって被害に遭ってるんだよ。それに、声を掛けてきたのは地味な格好をした中年のおじさんだって話だし。だいたい、どうしてナンパなら、法華経を信じなきゃ不幸になるなんて脅し文句を言うのかな」
 その大場亜香里の言葉に土井浩平は口を紡いでしまう。
「この街には心道霊法学会という立派な宗教団体があります。それなのに何故この街で、なんでしたか、折伏とやらをするのでしょうか」
 亀田正人はその大きな体に似合わぬ小さな声を出した。折伏自体が何なのか、よく分かっていなかったのだ。だが、取り敢えず副部長として会話に参加しなければならないと彼は焦っていた。
「それに、そもそも何故この学校の生徒なのでしょう。ここは本殿と縦で繋がっていると言うのに」
「乗っ取るためっしょ!」
 平野杏奈が声を上げる。途端に大場亜香里の瞳の色が変わった。灰色から赤色へ。不安から怒りへ。テリトリーの侵害は彼女が最も嫌う行為の一つだったのだ。
「いやいや平野さん、乗っ取るって、漫画や小説じゃないんだから」
 土井浩平は声を絞り出した。他の部員たちも彼に同意するように頷いてみせる。皆、部長の表情の変化に肝を冷やしていたのだ。だが、場の空気を読まない平野杏奈のみが、ぷくりと頬を膨らませながら高い声を出し続けた。
「乗っ取る為だってば。なんちゃらかんちゃらは、せっぷくで、心霊なんちゃらを乗っ取ろーとしてるってわけ!」
「おいおい、心霊なんちゃらって。それに、切腹じゃなくて折伏だよ」
「そうそう、それ、しゃくぶく!」
「そもそも平野さんは折伏が何かを知ってるの?」
「知ってるよ! あの、なんちゃらかんちゃらが信者増やそうとするでっかいこーしんの事っしょ?」
「はは、随分と曖昧だね。因みに、その話は誰から聞いたの?」
「新聞部のおデブちゃん。やっぱ新聞部だし、めっちゃ色々と知ってんよね」
 平野杏奈は胸を張った。やれやれと土井浩平は肩をすくめる。
「新聞部か、確かにあいつらにとっては格好のネタだろうね。でも、そんな漫画みたいな事は絶対に起きないから大丈夫だよ。そもそもこの街では心霊学会の方が力は強いんだ。いったい何処の誰が何をしているのかは知らないけど、放っておけばすぐ噂も下火になるさ」
「どうしてそう言い切れるの?」
 大場亜香里が首を横に倒す。その瞳の炎に土井浩平は唾を飲み込んだ。
「心霊学会ってまだ法人化されてなかったよね。それってどうしてなの?」
「えっと、詳しくは知らないけど……」
「法華経を信じる宗教って沢山あるようだけど、彼らに何か妨害されてたんじゃないの?」
「いやいや妨害って、大場さん、それは無いよ。単にする気がなかっただけでしょ」
「だから、どうして君にそんな事が分かるのかなぁ。じゃあ、実際に今起きてる折伏騒動はどう説明するつもりなの?」
「それは……」
 土井浩平は視線を落とした。もうこれ以上何も言わない方がいいと思ったのだ。
 重く湿った空気が心霊現象研究部の部室を包み込む。腕を組んだ大場亜香里は椅子に背中を預けた。凍えたように静かな吐息。対照的に、彼女の瞳から飛び散る火花がバチバチとした激しい音を立てていた。


 吉田障子は歩調を速めた。
 舞台の動きが予想したよりも遥かに速かったのだ。ストーリーを止めるわけにはいかないと、物語を終わらせるわけにはいかないと、吉田障子は大忙しだった。

「何をしている」
 放課後の教室での事だ。日暮れ前の夏空はまだ明るい。グラウンドでは生徒たちが部活動に精を出しており、カーテンの閉じられた一年B組は薄暗く静まり返っていた。
 吉田障子はポケットに左手を入れた。ちょうど机の中を覗き込むような体勢である。机にはプリントが数枚残っているのみであり、藤田優斗は既に帰宅してるようだった。
「またお前かよ」
 吉田障子は体を起こした。視線の先には小柄な男が立っている。灰色の作業着を着た無精髭の男。廊下から暗い教室を覗き込む荻野新平の瞳は、夜行性の獣のように野生的だった。
「何をしているのか、と聞いてるんだ」
「何もしてねーよ。つーかテメェこそ何してんだよ」
「ネズミ捕りだ」
「ネズミ?」
「チョロチョロと彷徨くネズミの動きが気になってな」
「テメェ……」
 荻野新平の体が前に出る。上半身を動かさない歩行。吉田障子はポケットからナイフを取り出した。
「動くな」
 薄明かりにぼんやりと光る白銀の刃。足の動きを止めた新平は肩を落とした。
「それを出した時点で、お前は終わりだ」
「終わらねーよ」
「勝っても負けても、お前は終わりだ」
「残念ながら、俺は終わらねーんだよ」
 吉田障子の唇が横に裂ける。それは何処までも不敵な笑みだった。
 新平は意外そうに目を細めた。吉田障子が本気だということが分かったからだ。
 頭がイカれてしまっているのか。それとも他に何かあるのか。兎にも角にも、と新平は前から後ろに体重を移動させた。仄暗い教室での事である。吉田障子の足が一歩前に出ると、全身の力を抜いた新平は正面を向いたまま、ほんの僅かに上体を前に倒した。
「止めて!」
 絶叫が放課後の校舎を木霊する。吉田障子は驚いたように視線を横に動かした。ショートヘアの女生徒が一人、薄暗い教室を覗き込んでいたのだ。三原麗奈の表情は悲痛に歪んでいた。
「喧嘩は止めてよ!」
 三原麗奈の声が教室のカーテンを揺らした。よく通る声である。
 新平もまた驚いていた。そして感心してしまう。ナイフを握った相手に向かって喧嘩を止めろとはこれ如何に。尋常ではあるまい。よほど頭がイカれていない限り、そんな言葉は選ばないだろう。つまり廊下側からは吉田障子のナイフが見えていないという事なのだ。
「そういう事か」
 ならばお望み通りに、と新平は上半身を前に揺らした。それに合わせてナイフを前に出した吉田障子は思わず「クソッ」と声を漏らす。感情的になってしまったのだ。だが、すぐに冷静になった彼は異変に気がついた。
 前に突き出した筈のナイフが何処にも見当たらないのだ。そして、ナイフが刺さった筈の新平の体には、ほんの僅かなブレも見られなかった。
 いったい何が起こったのかも分からないままに、瞬きする間もなく、強い衝撃に意識を飛ばした吉田障子の体が後ろに倒れた。
「かっ……はっ……」
 吉田障子は浅い呼吸を繰り返した。上下左右に揺れる視界。前後に定まらない思考。訳が分からないままに彼は床の上で視線を動かし続けた。
「いやあああああ!」
 誰かの声が吉田障子の鼓膜を震わせる。やっと視点が定まってきた吉田障子は口の中に溢れる生暖かい液体に顔を顰めた。そうして顔を上げた吉田障子は、荻野新平の右手に握られたナイフに目を細めた。
 この厄介な野郎を早く舞台から降ろさねぇと……。
 ゆっくりと立ち上がった吉田障子はハンカチで口元の血を拭った。だが、口の中が裂けているのか、一向に血が止まらない。三原麗奈の絶叫を聞き付けた生徒たちが廊下に集まってくると、新平は素早くナイフを作業着の袖に隠した。そうして新平が何事も無かったかのように背中を向けると、同様に背中を向けた吉田障子は三原麗奈の手を掴んだ。
「ほら、麗奈ちゃん」
「ひっ……ひっぐ……ぅ……?」
「逃げるぞ」
 集まった生徒たちの声が白いカーテンを揺らす。吉田障子の血を見た女性教諭の一人が悲鳴に近い声を上げると、麗奈の手を握り締めた吉田障子は走り出した。

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