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第二章
青いラケットの亡霊
しおりを挟む女生徒たちの笑い声が夏の校舎に響き渡る。それは黄金色の花弁のような明るい声だった。
八田英一は頬を緩めた。彼女たちの笑顔が彼に若き日の青春を思い出させたのだ。シーブリーズの爽やかな匂い。空き教室に差し込む日差し。開け放たれた窓の向こうは紺碧の空だ。ふわりふわりと白いカーテンが弧を描く。
最終日のテスト終えた女生徒たちが英一に向かって大きく腕を振った。英一が手を振り返すと、顔を見合わせた女生徒たちは黄色い声を上げる。腕を下げた英一は軽く息を吐き出した。
信用されど信用する事勿れ。
古参の幹部から言われた言葉である。彼の目的は富士峰高校に現れているであろうヤナギの霊を探し出す事なのだ。
誰がヤナギの霊かも分からない状況で生徒に心を許すことなど決してあってはならない。それは分かっていた。だが、どうにも人を疑うという行為に対しての抵抗感が抑えられない。裕福な家庭でのびのびと育ったせいか、英一は陽気でおおらかな性格をしていた。心霊学会を背負うという立場から、時に非情な一面を見せる事もある。それでも、その性根の優しさは変えることが出来なかった。無邪気な子供たちを欺くような行為には耐えられない。英一は良心の呵責に苛まれていた。
白い雲が青空を流れる。止まらない蝉の声。ちょうど旧校舎との境目にある渡り廊下は日陰に涼しかった。
校内を巡回していた英一は、おや、と首を傾げた。鈴を転がすような笑い声が体育館から響いてきたのだ。テストを終えた生徒たちだろうか。若さゆえにエネルギーが有り余っているのかもしれない。顔を綻ばせた英一は手を後ろに組むと、体育館の中を覗き込んだ。
「そりゃあ!」
「きゃあ!」
体育館で遊んでいたのは制服姿の女生徒たちだった。その楽しげな声の響きにステージの袖幕が揺らめいている。青いラケットの残影。ふわりと浮かび上がる長い黒髪。どうやら二人はバトミントンに熱中しているらしい。広い体育館に彼女たち以外の声はなく、黄金色の笑顔に眩しい二人の周囲は、まるで時が止まっているかのような静寂に包まれていた。光芒に照らされた丁子色の床。ゆっくりと舞い落ちる埃。
英一は言葉を失ってしまった。
夢の世界に迷い込んだような錯覚を覚えたのだ。磨かれ昇華された記憶の像。学生時代の幻想風景と目の前の光景が重なり合う。二人の女生徒の長い黒髪から英一は目が離せなかった。そんな英一の額にコツンと軽い何かが衝突する。いてて、と頭を抑えた英一は床に落ちたバトミントンの白い羽を見た。
「あ、先生だ」
「先生ー!」
やっと夢から目覚めた英一は白い羽を拾おうと腰を屈めた。女生徒たちが英一の元に駆け寄ってくる。
「先生、大丈夫ですか?」
花が咲くような声だ。
水を弾く白い肌。三原千夏の栗色の瞳が午後の陽に眩しい。
「大丈夫だよ」
英一は微笑んだ。そんな英一を見上げる姫宮玲華の瞳は夏の夜空のように澄み切っていた。
「おでこ、赤くなってるよ」と玲華の細い指の先が英一の額を撫でる。思わず首筋を赤くしてしまった英一は、照れ臭さを隠すように「うほん」と咳払いすると、白い羽を玲華の手に乗せた。
「バトミントンかね?」
聞かずとも分かるだろうと、英一は自分の言葉に思わず苦笑してしまった。まだ動揺しているのだろうか、二人の女生徒は桃源郷に咲く花のように美しく、またこの体育館の光景は楽園の丘のように幻想的だった。
「うん」
玲華の赤い唇が横に広がる。そんな彼女の幼くも妖艶な表情に、引き込まれるような感覚を覚えた英一はギュッと目を瞑った。仮にも教師である自分が、特定の生徒に個人的な好意を抱くなど、絶対にあってはならない事だ。そう自らを戒めた英一は両手でピシャリと自分の頬を叩いた。すると、斜め前に立っていた三原千夏の瞳にイタズラ好きの少女の光が瞬き始める。
「え、え? そんな、まさか先生……」
「なんだい?」
「まさか禁断の恋……?」
「禁断の恋?」
玲華の瞳がキョトンと丸くなる。英一は首をかぶり振った。
「な、な、何を言ってるんだ!」
「へー、ほー、先生と玲華ちゃんって確かにお似合いかも?」
「こ、こら! 変な勘繰りは止めなさい!」
「いひひ」
「まったく、先生はもういい歳なんだよ?」
「恋に年齢は関係ないよ。そもそも八田先生ってまだ若いじゃん」
「いやいやいや、君たちからすれば、先生はもう立派なおじさんさ」
「ねぇ、何の話なの?」
青いラケットに白い羽を乗せた玲華は手持ち無沙汰な様子である。にひひ、と千夏は意味ありげな笑みを英一に向けた。
「先生、玲華ちゃんが何の話かって聞いてるよ?」
「はっはっは、べ、別に何でもない話さ。そんな事より、あー、君たちはバトミントン部だったのかね?」
そう無理やり笑顔を作った英一は額に浮かんだ汗をハンカチで拭った。玲華の細い首が「うん」と前に倒れる。「私は演劇部です!」と敬礼した千夏は、またニヤリとした笑みを浮かべると、胸の前で両手を合わせて頭を下げた。
「ねぇねぇ先生、ほら見て、祓え給え」
「うん?」
「先生ってオカ研の顧問になんでしょ?」
「オカ研? ああ、いやね、先生は超自然現象研究部の顧問だよ」
「チョウシゼン……?」
「新しい部活動でね、部長の花子さんがすごく熱心なんだ」
「へー、じゃあオカ研はどうするの? 先生って心霊学会の人なんでしょ?」
「オカ研にはしっかりとした顧問の先生がついているよ」
「じゃあ先生はもう祓え給えって言わないの?」
「はっはっは、もちろん言うとも。祓え給え、祓え給え」
「わー!」
千夏は嬉しそうだった。いったいその言葉の何処に心を躍らせているのだろうか。英一は思わず苦笑してしまう。二人の話について行けなかった玲華は、むー、と頬を膨らませた。
「ねぇ、その祓え給えって何なの?」
「えー、まさか玲華ちゃん知らないの?」
「知らないよ! だから早く教えてよ!」
「いひひ、まったくもう、玲華ちゃんったら。おほん、あのね、祓え給えっていうのはね、えっとね、うーんとね……。えっと……?」
千夏の首がキョトンと横に倒れる。英一は思わず吹き出してしまった。
「そうか、何も知らずに唱えていたのか」
「し、知ってるもん! ただちょっと忘れちゃっただけだもん!」
「ははは、いや、別に知らなくてもいいんだ。それほど深い意味は込められてないからね。これを最初に唱え始めた人も、別段の意味は込めていなかったそうさ。その人はね、三原さん、君と同じように、ただ唱えたいから唱えていただけなんだよ」
そう両手を合わせた英一は昔を懐かしむように「祓え給え」と声を絞り出した。へー、と頷いた千夏も「祓え給え」と手を合わせる。玲華のみが訝しげな表情のままである。
「で、何を祓うの?」
「ん?」
「どんな時に使うの?」
「ああ、この唱え言葉は、ヤナギの霊に対して使う言葉なんだ」
「えー! じゃあそれって、あたしを祓う為の言葉ってことじゃん!」
「……は?」
むすっと玲華の頬がまた丸みを帯びた。それを面白がってか、玲華に向かって千夏が両手を合わせる。
「いひひ、玲華ちゃん、祓え給え!」
「千夏ちゃんのバカ!」
宙を舞う白い羽。千夏の笑い声が開け放たれた扉の向こうの青い空を駆け抜ける。
「ヤナギの霊……?」
ポカンと口を半開きにした英一の首が横に倒れる。そんな英一に向かって玲華は赤い舌を伸ばした。
「ベー!」
「ああ、はっはっは、なんだ冗談か」
そう英一がほっと息を吐くと、眉を顰めた玲華は英一を睨み付けた。
「冗談じゃないもん!」
「止めたまえ、それはいけないよ姫宮さん。冗談ではすまなくなる場合もあるんだ」
「むー! どうして誰もあたしの話を信じてくれないの!」
「いやいや、信じる信じないの話ではなくてだね」
「あたしはヤナギの霊だもん! 山本千代子の生まれ変わりだもん!」
「山本千代子……? な、なぜ千代子の存在を君が知ってるんだ……?」
「ヤナギの霊だからに決まってんじゃん! 王子を守る為にあたしはこの学校にやって来たの!」
「お、王子だって……?」
英一は絶句した。血管を駆け巡る思考と感情。否定と肯定が頭の中を交差する。
「そ、それは本当か……?」
「本当だってば!」
玲華の長い黒髪が体育館に吹き込む夏風にふわりと浮かび上がる。その漆黒の瞳には強い光が宿っていた。
英一は首を横に振った。信じれなかったからではない、信じたからこそ、どうすればいいか分からなくなったのだ。怒れる玲華に向かって千夏がバトミントンの羽を飛ばす。それを玲華が打ち返すと、高らかな笑い声を上げた二人はまたバトミントンを再開した。夏の午後の一ページ。無邪気な二人の笑い声が静かな体育館を木霊する。
英一は苦渋に顔を歪ませた。彼は今日までヤナギの霊を恐れ続けてきたのだ。ヤナギの霊が邪悪な存在であると、その容姿も思考も行動も、その全てが人の常識では測れないほどに恐ろしい何かであると、彼は信じて疑わなかった。
だが、目の前で朗らかな笑い声を上げる女生徒はどうだ。どうにも普通の女の子にしか見えないではないか。美しく無邪気で活発な女生徒。姫宮玲華は、自分をヤナギの霊だと言い張る彼女は、愛すべき生徒の一人ではないのか。
つっと汗が頬を伝う。英一は奥歯を噛み締めた。報告すればただでは済まないだろう。避けられない不幸が姫宮玲華の身に降り掛かる事となるのだ。
「姫宮さん、それは本当か?」
同じ質問が繰り返される。白い羽が千夏の頭上を越えていく。玲華は青いラケットを振り上げた。
「だから、本当だってば!」
「君は、王子を守る為にこの学校に来たと言っていたよね。その王子とは、いったい誰の事なんだ?」
「先生には教えないよーだ!」
「はは、そうか……。話は変わるが、テストはどうだったかね?」
「テスト? んーと、数学はバッチリだね。でも国語は知りませーん!」
「はっはっは、そうかそうか。姫宮さん、バトミントン部はどうだい?」
「楽しいよ! だから先生、早く部活再開してよ!」
光芒が青いラケットを照らす。玲華の赤い唇に明るい笑みが浮かび上がる。
英一は決心した。この問題は自分一人で解決しよう、と。
誰も不幸にしたくなかったのだ。皆が幸せになる未来。それこそが彼の願いであり、およそ憂いというものを知らずに育ってきた彼は、それが叶うと信じて疑わなかった。
「楽しそうじゃの」
英一は飛び上がった。突然、しわがれた老人の声が背後から響いてきたのだ。
慌てて後ろを振り返った英一は、そこに立っていた背の高い老人に眉を顰めた。
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