72 / 243
第二章
独り舞台
しおりを挟む「よく調べたな」
吉田障子は驚嘆の声を上げた。栗皮色のテーブルに広げられた大学ノートには十三ページに渡って文字が連ねてあり、ページの真ん中にはそれぞれ、グレースケールにコピーされた標的の写真が貼られてある。
「お前、忍び込んだだろ?」
平日の午後のカフェに客は少ない。喫茶はるのは昨日と変わらず静かだった。砂丘の表面を撫でるかのような滑らかなヴァイオリンの旋律が古風な店内の時間の流れを緩やかにする。キザキの手元に置かれたコーヒーは相変わらず冷めてしまっているようで、その視線は吉田障子が先ほど頼んだコーヒーのマグカップから立ち昇る仄白い線に向けられていた。
「調査費は20万と5800だ。初回割で5800はまけてやる」
「どういう計算だよ」
「9800を21時間だ」
そうキザキが水面模様のレトロガラスに視線を送ると、吉田障子は思わず口に含んだコーヒーを吹き出しそうになった。退屈な世界に対する倦怠か、はたまた寝不足による疲労か、キザキの前髪に隠れた腫れぼったい瞼は相変わらず暗鬱としていた。
伊万里焼のコーヒーカップから白い湯気が立ち昇る。
まだ熱いコーヒーを静かに啜った吉田障子はそれをコトリとテーブルの端に滑らせた。ピアニストが雪色の鍵盤を優しく弾くように、マグカップから指を離した吉田障子は薬指の腹で頬を撫でる。
「なぁキザキ、お前は1000万で人を殺せるか?」
シン、と店内の空気が動きを止めた。ヴァイオリンの音色が薄暗がりの奥に消えていくと、正面に視線を戻したキザキは冷めたコーヒーを口元に運んだ。
「いいや」
「なら、人を殺す手伝いならどうだ?」
「ああ」
「よし」
そう頷いた吉田障子は大学ノートを閉じた。キザキはふぅと肩を落とす。
「貴様の依頼では誰も殺らんぞ」
「はは、まだ何も言ってねーだろうが」
「なら、なんだ」
「お前の役を考えてるだけさ」
「いちいち芝居掛かった奴だな」
腫れぼったい目を見開いたキザキは黄ばんだ歯を剥き出しにした。暫しコーヒーから立ち昇る白い煙を眺めていた吉田障子は頬から指を離すと視線を上げた。
「なぁキザキ、お前って山麓の存在は知ってるか?」
「学会の宿か」
そうキザキが瞳を斜め上に動かすと、吉田障子の口元に満足げな笑みが浮かび上がった。
「知ってるなら話が早い。お前にはその現場を押さえて欲しい」
「なんだと」
「証拠を集めてくれ、写真や映像でな。数人でいいから客の情報も集めて欲しい、出来れば常連の。それがお前への一つ目の依頼だ」
「ちょっと待て、まさか貴様、学会を強請るつもりか?」
「ああ」
「はっ、やはりただのガキか」
一瞬、失笑したキザキはすぐに退屈そうに目を半開きにすると窓の外に視線を送った。野良猫が一匹、暗い路地裏を通り過ぎる。
「二つ目が人集めだ。なるべく燻ってる奴らを集めたい」
吉田障子は気にせず話を続けた。
「そして三つ目が……」
「おい、先ずは金が先だ」
キザキの腫れぼったい瞼が吉田障子に向けられる。その瞳の奥には明らかな侮蔑の光が宿っていた。
「払えんとは言わせんぞ」
「ああ」
吉田障子が鞄に入った封筒から大量の札束を取り出すと、キザキは僅かに表情を変えた。だが、瞳の奥の侮蔑の光は消えない。
「なんだ、金持ちのお坊ちゃんだったか。おおよそ、恐れや憂いとは無縁の人生を送って来たのだろうな」
「はあ?」
「学会に手を出すのは止めておけ。俺も貴様のようなガキの巻き添えはごめんだ」
「はは、やっぱりお前って暇人なんだな」
ニィ、と吉田障子の口が横に大きく裂ける。その瞳は冬の曇り空のように暗く陰鬱で、その唇は感情のない人形のように冷たかった。
キザキはそっとコーヒーカップに指を添えた。
「暇人だと?」
「お前が俺を調べなかった理由は、俺が何を仕出かしてくれるか楽しみだったからだろ?」
「……」
「そうだよな、あらすじ知っちまったら楽しみが激減するもんな。はは、大丈夫だって、楽しませてやるから。お前は黙って俺の言う通り役を演じてればいいんだよ。そうしたら、最高の舞台をお前の元に届けてやる」
「学会に強請りが通じると本気で思ってるのか?」
冷めたコーヒーの水面が波立つ。老女が三人、古風な扉の前の風鈴を鳴らした。キッチンで新聞を広げていた老オーナーは僅かにその重たい視線を持ち上げた。
「揺らしてから強請るんだよ。軽く押してやるだけでいい」
「揺らす?」
「もう皆んな舞台に上がっちまってんだ。俺の独り舞台だがな」
吉田障子はそう不敵に笑った。
冷めたコーヒーを啜ったキザキは、吉田障子の手元の大学ノートに視線を落とした。キザキが調べ上げたその十三人は本当に何処にでもいるような、ありふれた少年少女だった。平凡な家庭で育った平凡な子供たち。厳重な警備などは施されていない彼らの家に忍び込むのは安易であり、彼らの個人情報は隠される事なく彼らの部屋に置き去りにされていた。
ただ一人、祖父が議員である藤田優斗という少年の家にのみ多少の警戒がなされていた。だがそれも、立派な門構えに取り付けられた数台のカメラと数匹の犬が居たというだけで、キザキの障害とはなり得なかった。
「二つ目の人集めとやらだが、もっと具体的にどんな奴らを集めたいのかを言え」
マグカップをテーブルに置いたキザキは老オーナーに向かって追加のコーヒーを頼んだ。吉田障子は左の頬に薬指を当てる。
「馬鹿で欲深い奴らを十数人。そいつらを纏め上げられるリーダーを数人。そして、そいつらに逆らえない小心者かつ物覚えのいい役者を六人だ」
「注文が多い。猿山の大将と下衆どもならすぐに紹介してやれるが、役者六人は難しい」
「そっちが重要なんだよ」
「ならば実際に猿山の大将と会って尋ねてみればいい、奴等の方が交友関係が広いだろう」
「だな」
栗皮色のテーブルにコーヒーが運ばれる。その熱いマグカップから立ち昇る白い煙に、キザキは恍惚の表情をした。
「で、三つ目は何だ」
漆黒に揺らめく蒸気に見惚れていたキザキはそれに手を付けようとはしなかった。代わりに吉田障子が少し緩くなったコーヒーを飲み干してしまう。
「コイツを追い詰めろ」
そう言った吉田障子は大学ノートの二ページ目を開いた。中央に貼られたグレースケールのコピー紙には陰鬱そうな小太りの男が映し出されている。倉山仁という写真が趣味の男だった。
「コイツは盗撮が趣味の小物でな、俺の奴隷クンなんだよ」
吉田障子の薬指が倉山仁の顔を撫でる。
「精神的に追い込んでやってくれ。俺が憎くて憎くて、俺を殺したくて殺したくて堪らないと、常にナイフを持ち歩くようになるまで、徹底的にコイツを追い詰めろ」
「難しい。俺は人付き合いが苦手だ」
「お前も俺の奴隷だという役を演じればいい。小心者のコイツはそれだけでお前に親近感を抱くはずだ。そして、コイツの中に残忍で下劣な俺の像を育て上げろ。コイツは三原麗奈という女生徒に叶わぬ恋心を抱いている。それを利用すればいい」
「ふん」
「二つ目の依頼だけは早急に頼むぜ。他は九月くらいまでに仕上げてくれればいい。金は出来次第だ。上手く事が進めば莫大な報酬をお前にくれてやるよ」
大学ノートを鞄に仕舞った吉田障子はアンティークの壁掛け時計を見上げた。既に二日目のテストは終わりを迎えようかという時間帯である。
「明日、この時間に小坂通り前のファミレスに来い。猿山の大将を連れてきてやる」
熱いコーヒーを舌に乗せたキザキはレトログラスの外に視線を送った。白磁のカップから白い湯気が立ち昇る。二人の声が止むと、ヴァイオリンの音色がまた古風な店内の時間を動かし始めた。
鞄を肩に下げた吉田障子は一歩足を前に動かした。その洗練された歩行に音は無い。りん、と風鈴が夏の風に吹かれると、コーヒーの薫りを味わっていたキザキはゆっくりと腫れぼったい瞼を閉じた。
0
お気に入りに追加
7
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
令嬢の名門女学校で、パンツを初めて履くことになりました
フルーツパフェ
大衆娯楽
とある事件を受けて、財閥のご令嬢が数多く通う女学校で校則が改訂された。
曰く、全校生徒はパンツを履くこと。
生徒の安全を確保するための善意で制定されたこの校則だが、学校側の意図に反して事態は思わぬ方向に?
史実上の事件を元に描かれた近代歴史小説。
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
ハーレムに憧れてたけど僕が欲しいのはヤンデレハーレムじゃない!
いーじーしっくす
青春
赤坂拓真は漫画やアニメのハーレムという不健全なことに憧れる健全な普通の男子高校生。
しかし、ある日突然目の前に現れたクラスメイトから相談を受けた瞬間から、拓真の学園生活は予想もできない騒動に巻き込まれることになる。
その相談の理由は、【彼氏を女帝にNTRされたからその復讐を手伝って欲しい】とのこと。断ろうとしても断りきれない拓真は渋々手伝うことになったが、実はその女帝〘渡瀬彩音〙は拓真の想い人であった。そして拓真は「そんな訳が無い!」と手伝うふりをしながら彩音の潔白を証明しようとするが……。
証明しようとすればするほど増えていくNTR被害者の女の子達。
そしてなぜかその子達に付きまとわれる拓真の学園生活。
深まる彼女達の共通の【彼氏】の謎。
拓真の想いは届くのか? それとも……。
「ねぇ、拓真。好きって言って?」
「嫌だよ」
「お墓っていくらかしら?」
「なんで!?」
純粋で不純なほっこりラブコメ! ここに開幕!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる