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第二章
蒼白い顔
しおりを挟む心霊現象研究部の足音が遠ざかっていく。
彼らの背中が廊下の陰に消えると、訪れた静寂と共に夏の午後の気怠さが張り詰めていた廊下の空気を解きほぐしていった。
田中太郎は意を決した。
勉強疲れに必要なものが酸素ではなくカフェインだと気が付いたのだ。自販機に並び立つ黒い缶。パイプを加えたダンディーなおじさんの横顔。その威圧感に負けじと太郎は深く息を吐く。上を目指す者として避けては通れぬ道であろう。自分は今日この場でブラックコーヒーデビューするのだと、太郎は千円札の端を強く握り締めた。震える指先。滴り落ちる汗。押し返される千円札に太郎の焦燥感が募る。そんな太郎の髪がそよ風に靡いたその時、午後の静寂を吹き飛ばす足音がまた二階の廊下を賑わせた。
「足田太志! 探したわよ!」
先ほどの規律ある響きとは違う豪快で野蛮な足音だ。小麦色の肌に血管を浮かばせた睦月花子の声に太郎はため息をついた。テスト期間中は喧騒に巻き込まれたくなかったのだ。
「あら、憂炎じゃないの、しかも八田英一までいるし。ちょうど良かったわ、今から超研の部活申請しようと思ってた所なのよ」
自販機前で腕を組んだ花子の口元に笑みが浮かび上がる。花子の後ろでは、頬を桜色に染めた三原麗奈がオロオロと前髪を弄っていた。
「やぁ睦月さん、昨日はありがとね」
コーヒーを飲み干した足田太志はそう優しげに微笑んだ。そしてコホンと咳払いした彼は、花子に向かって困ったような表情を浮かべてみせた。
「それでね睦月さん、部活申請という言葉が聞こえたんだけど、テスト期間中は仕事がオフなんだ。悪いけどその話は来週に回して貰えないかな?」
「はあん?」
「既に先生から話は伺ってるよ。確か超自然現象研究部だったか、八田先生が顧問となってくださるようだし、申請は通してあげようかと考えてるんだ」
「な、なんですってー!」
「部員は揃ってるんだよね?」
「もも、もちろんよ! そこの憂炎でしょ、それともう一人はコイツよ!」
嬉々として目を輝かせた花子が背後にいた三原麗奈の左腕を持ち上げる。麗奈は「え?」と困惑の声を漏らした。
「あの、部活申請って……?」
「超自然現象研究部の部活申請よ。アンタはもう既にね、超研の一員なの」
「ええ……?」
「いやいや睦月さん、ちょっと待ってくれ」
太志が二人の間に口を挟む。やっと千円札を自販機に押し込んだ太郎は、震え続ける指の先を黒い缶に向けた。
「三原さんは演劇部の部長じゃないか。それに睦月さんもだよ、将棋部の方はどうするつもりだ?」
「将棋部ですって? はん、そうね……」
将棋部など、と一笑に付そうとした花子は、一瞬の後にそれを躊躇した自分に驚いた。昨夜の事を思い出していたのだ。
三原麗奈もとい吉田障子と指した将棋は本当に楽しかった。素人だったとはいえ、王様一枚で打ち負かすには骨が折れる相手だったのだ。ましてや酒に酔った状態である。圧倒的不利な状況から、悶え、悩み、ギリギリの勝ちを掴む。その感覚が勝負師である花子の心を震わせた。
喧嘩やスポーツなどは、花子にとってはつまらぬ遊戯だった。圧倒的過ぎたからだ。弱者を相手に手にした勝利など花子には何の価値もなかった。その為、花子は運動系の部活には興味がなかったのだ。
将棋は楽しい。その事に気付いた花子はもっと将棋が指したいと思った。腹の底から湧き上がる勝負事への欲求に花子は戸惑っていた。
「兼部は禁止されてないのよね?」
「ああ、されてないよ」
「じゃあ掛け持ちね。将棋を止めるつもりはないわ」
そう花子が肩をすくめると、太志の瞳にキラキラとした眩い光が灯った。
「おお! 将棋を続ける気になってくれたんだね!」
「別にアンタに言われたからじゃないんだけど?」
「そんな事はどうだっていいさ! ただ君が将棋を続けてくれる事が、すごく嬉しいんだ!」
「たく、訳分かんない奴ね。私が将棋をやるやらないってアンタには全く関係のない話でしょーに。何がそんなに嬉しいってのよ?」
花子は首を捻った。そんな花子に向かって太志は何処か照れ臭そうな笑顔を見せる。
「俺には才能というものがないんだ。凡人なんだよ。でも、だからこそ、努力は決して怠らない。努力が裏切らないという事を誰よりもよく知ってるからね。俺は凡人だけど、自分が劣ってるなんて思った事は一度もないんだぜ?」
そう言った太志は尊大に胸を張った。はん、と花子は呆れたような笑みを返す。
「それでもさ、やっぱり努力だけじゃ敵わない奴らがこの世には存在するんだ。そいつらは、血が滲んで体がぶっ壊れるような俺の努力の先にも届かない遥かな高みを、軽々と越えていっちまうんだ。ほんと参るよ。でもさ、悔しいとか妬ましいとか、そういう事は思ったことがないんだぜ。ただ、眩しい。頂に立ったそいつらが後光にキラキラと煌めくのが美しい。もっともっと天高い、俺がどれほど願っても届かないような高みに立ったそいつらが、世界に向かって大きく手を振る姿が見てみたい。俺はただそう思ってるんだ。俺は、睦月さんに将棋の頂を上り詰めて欲しいんだよ」
太志の瞳の光は何処までも真っ直ぐだった。返す言葉を失ってしまった花子はポリポリと頭を掻く。太志の心からの言葉に深い感銘を受けた太郎は、腹の底から湧き上がってくる凄まじいエナジーに「くぅっ」と声を絞り出すと、ブラックコーヒーを勢いよく喉の奥に流し込んだ。そして、すぐに吐き出した。
「三原さん、君も掛け持ちかい?」
太志は優しげな笑みが麗奈に向けられる。その瞳には花子に向けられたものと同じような光が灯っていた。
「えっと……」
「君たち演劇部の夏がすごく楽しみなんだ。なんでも主演だけじゃなく、台本も君が務めたそうじゃないか。本当にすごい事さ。俺は心の底から君を、いや、君たちを応援しているよ。夏の大会、頑張れよ三原さん!」
「あ、ああ……あ、えっと……そ、その、僕、演劇部の大会には、出ない、かな……?」
そう呟いた麗奈の視線が明後日の方向に泳いでいく。夏の午後の日差し。騒がしい蝉の鳴き声が青い空を流れ続ける。
ピタリと口の動きを止めた太志の首が横に傾いた。その瞳は依然としてキラキラとした光を放っている。
「……ん?」
「そ、その、僕、部活は……その、辞めちゃう、かな……?」
「……んん?」
「そ、その、僕……。ご、ごめんなさい!」
取り敢えず謝っておこうと麗奈は勢いよく頭を下げた。ジジジ、と油を上げるような蝉の音がそよ風と共に麗奈の頬を撫でる。
静寂である。まるで深い森の中にいるような静けさだ。
腰を折ってリノリウムの深緑を見るともなく眺めていた麗奈は、突然訪れた沈黙に首を傾げた。もしかして皆んな帰っちゃったのかな、とそっと顔を上げた麗奈は軽い悲鳴を上げる。太志の顔が眼前に迫っていたのだ。
「な、な、な、何を言ってるんだ、三原さん……?」
「あ、あ……」
「き、君はプロの劇団員から目を付けられる程の実力を持っているんだぞ……? 富士歌劇団にもその実力を認められているんだぞ……?」
「ひぃぃ……!」
「だからアンタ、近いっつの!」
激しい恐怖に狼狽えた麗奈が廊下に蹲ると、フラフラと体を揺らす太志の頭に向かって花子は軽くチョップをお見舞いした。
ギロリと怒りの籠った生徒たちの視線が自販機前に集まってくる。ムスッと唇を結んだ彼らの顔には「静かにしろ」という文句の言葉が書かれてあり、苦笑した八田英一はそんな彼らに向かって申し訳なさそうに頭を下げた。
「あ、王子だ」
姫宮玲華と徳山吾郎が廊下の奥から顔を見せる。彼らの登場に、静けさを求める田中太郎は落胆を露わにした。自販機前に屯する不良たちを目にした徳山吾郎の顔にも落胆の色が溢れており、二人の背後で親指の爪を噛む宮田風花の瞳も何やら陰鬱である。ほんの僅かに二階の校舎の温度が下がると、八田英一はふぅと呼吸を楽にした。
「相変わらず君たちは、暇なのかね?」
自販機の前に立った吾郎は肩を落とした。その隣に髪の長い玲華が肩を並べると、足田太志はくわっと口を縦に開いた。
「徳山くん! 君こそ自分の暇潰しに姫宮さんを連れ回すのは止めにしろ!」
「は?」
「せめてテスト期間中は勉学に集中しろと言ってるんだ! 仮にも君は生徒会のメンバーだろ!」
そう人差し指を伸ばした太志の鋭い声に吾郎は戸惑ってしまった。吾郎は彼の姫宮玲華に対する淡い恋心を知らないのである。
やれやれと息を吐いた花子が憤怒の形相をした足田太志を宥める。肩をすくめた吾郎は、白い制服を黒く汚した田中太郎に向かって首を傾げた。
「テストは上手くいったのか?」
「え? あ、ああ、ボチボチだったよ」
「そうか。しかしまぁ、せっかく洗脳が解けて勉強に目覚めたというのに、田中くん、いい加減君も一人立ちしたらどうだね?」
「はああ? 俺は洗脳なんてされてねーし、とっくに一人立ちしてるっつの! テメェらが勝手にここに集まって来たんじゃねーか!」
そう憤った太郎はグイッと缶コーヒーを口に傾けた。そして、咳き込む。
「くそ、せっかく会長と二人きりで優雅な午後のコーヒーブレイクを満喫してたってのによ。いきなり軍隊みたいな奴らが現れたかと思えば、鬼が来て、終いにはお前らだよ。いい加減にしろっつの」
「軍隊みたいな奴ら?」
「ああ、確かオカ研だったか、吉田っつうガキもソイツらの中に紛れ込んでやがったぜ」
「吉田障子がオカ研に居たって?」
自販機から金の微糖を取り出した吾郎は驚いた顔をした。そうして甘いコーヒーを口に含んだ彼は、何かを考え込むように窓の外に視線を送った。
「なぁ、あの吉田って奴、ほんとに麗奈さんなのか? 俺にはただの思春期のガキにしか見えなかったが」
「君に何か言ったのか?」
「会長への態度が失礼だったから注意したんだよ。そしたら突っ掛かって来やがった。あのクソガキ、オカ研の先輩に憧れてんのか、ソイツにだけはオドオドとした内気な態度とりやがんだ。それにしてもあの女、マジで美人だったな」
「その美人とやら、まさか大場亜香里のことかい?」
「知り合いかよ」
「いいや、知り合いではないよ。ただ、大場亜香里がこの学校に残っていたと知って、すごく驚いてしまってね」
「はあ?」
「しかも、まさか彼女が部活動に励んでいるとは。まったく、どんな因果なのやら……」
そう呟いた吾郎はまた窓の外に視線を送った。すると突然、花子が嬉々とした大声を上げる。
「モブ男が憧れてるっつう先輩! アイツ、大場亜香里っていうのね!」
「んだよ、急に」
「憂炎、ライバルの登場よ! アイツが現れたおかげで相関図がすんごい事になってんの! ああ、憂炎と吉田何某を取り巻く恋模様……。新生超研の最初の仕事はアンタらの恋愛相談ね!」
ふん、と花子の鼻息は荒い。そんな花子の言葉に表情を曇らせた吾郎は黒縁メガネのブリッジを軽く押し上げた。
「花子くん、いったいそれはどういう……」
ピタリと吾郎の唇が凍り付く。廊下の奥を流し見たまま吾郎が動きを止めると、花子たちは怪訝そうな表情をした。
「麗奈ー!」
白い女生徒だった。人形のような純白の肌を持つ女生徒が廊下の向こうから現れると、麗奈はビクリと肩を震わせた。
「麗奈ったら、すぐに居なくなっちゃうんだから。もう無理に部活には誘わないからさ、そんなに警戒しないでよ」
学校中を駆け回っていたのだろうか、大野木紗夜は息を切らしていた。そんな紗夜の赤紫色の頬に八田英一の表情が曇る。不安げな表情をした麗奈が曖昧に頷いて見せると、ふぅと呼吸を整えた紗夜の顔に満面の笑みが浮かび上がった。
「あはは、皆んな勢揃いじゃん。あれ、吾郎くん?」
紗夜の瞳が上がる。その視線を追って徳山吾郎を見上げた麗奈はギョッとした。吾郎の顔から生気が失われていたのだ。
「どうしたの、吾郎くん?」
紗夜はキョトンと首を傾げた。だが、吾郎は返事を返さない。
まるで亡霊にでも出会ったかのような表情だった。紗夜の白い肌を横目に、顔面を蒼白とさせた吾郎はワナワナと唇を震わせ続けた。
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