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第二章
会合への誘い
しおりを挟む足田太志のため息が赤茶けた絨毯を揺らした。
いったい何度目のため息だろうか。彼の吐く息に生徒会室の朝の空気は重く停滞している。濡れた綿に潰されたような静寂。参考書を片手に終わりの見えない雑務をこなしていた太志は、初夏の薔薇よりも鮮やかな赤い唇を思い出しては深いため息をついた。
「足田太志!」
生徒会室の扉が叩き開けられると薄暗い部屋に溜まった埃が舞い上がった。困り顔の八田英一と意識の無い田中太郎を引き連れた睦月花子の不遜な笑みが澱んだ空気を吹き飛ばす。参考書を閉じた太志はそんな突然の来訪者に優しげな笑みを浮かべた。
「睦月さんじゃないか、どうしたんだ?」
表情を緩めた太志の頰は寝たきりの病人のように痩せこけていた。落ち窪んだ目の下には青黒いくまが出来ており、普段から痩身な彼の体は今やそよ風に飛ばされそうな程に弱々しい。そんな太志の姿に唖然とした花子は太郎の首根っこを掴んでいた手を離してしまう。花子の後ろで肩を丸めていた三原麗奈は慌てた様子で意識のない太郎の元へと駆け寄った。
「アンタの方こそどうしちゃったのよ。ちゃんとご飯は食べてるの?」
「ご飯? ああ、いや、最近忙しくてね。まぁそれでも、必要最低限の栄養は摂ってるよ」
「いや、絶対摂れてないでしょ。ペラッペラよ、アンタ」
「そうかい?」
「朝は何食べたのよ」
「食べてないよ」
「じゃあ昼は」
「カロリーメイトがあるんだ」
「このドアホ! ダイエット中の乙女でもアンタより良いもん食べとるわ! たく、しゃーないわね。私がなんか奢ってやるから、昼は外になさい」
そう花子が腰に手を当てると、太志は梅の枝のように痩せ細った指を強く横に振り始めた。
「いやいや、俺は忙しいんだ。仕事が山のように残ってるし、期末テストだって明日だ。本当に寝る間もないくらい忙しいんだよ。だから断らせて貰うよ。気を遣ってもらって悪いな、睦月さん」
「んな体でテストが受けられるか! つーか、他の二人は何処よ?」
「二人?」
「徳山吾郎と宮田なんちゃらよ」
「ああ、あの二人は最近忙しいらしくて、ぜんぜん顔を見せてくれないんだ。はは、困った奴らさ」
そんな疲れ切った彼の苦笑が痛々しい。はぁと額に手を当てた花子は肩を落とした。
「とにかくアンタ、昼は外よ。勉強も仕事も今日は止めになさい」
「いや、だからね」
「なんなら姫宮玲華も誘ってやるけど?」
「ひ、姫宮さんも!?」
「アンタそれ、どーせ恋煩いも入ってるんでしょ? なんならもう想い伝えちゃいなさいよ」
「な、な、なんの話だよ!」
初夏の薔薇よりも真っ赤な女生徒の唇が再び太志の脳裏を掠める。飛び上がるようにして腰を上げた太志の慌てふためいた様子に、花子はフッと笑みを零した。
「ねぇ足田太志、恋をするって悪い事なのかしら?」
「はあ?」
花子は上目遣いに太志の瞳を覗き込んだ。額に浮かんだ汗を拭った太志は首を傾げる。
「例えば恋に焦がれた奴がいたとして、アンタはそれを悪い事だと思うの?」
「な、なにを藪から棒に……」
「例えば姫宮玲華が誰かに恋してたとして、アンタは彼女が悪人だと思うの?」
「ええっ?」
「例えば姫宮玲華が徳山吾郎に惚れちゃってたとして、アンタは彼女の淡い恋を否定出来るの?」
「ひ、姫宮さんが徳山くんを!?」
ガタガタと建付け悪い机に大きく身を乗り出した太志の体が絨毯の上に崩れ落ちる。そんな太志の瞳は激しい動揺に揺らいでいた。
「姫宮玲華は処女よ」
花子の呟いた言葉に、赤茶けた絨毯の上で這いつくばっていた太志は「はぁ?」と裏返った声を上げた。
「姫宮玲華は処女なの。ピュアな彼女はね、プレイボーイな徳山吾郎の甘い囁きに惑わされちゃってんのよ。ねぇ足田太志、アンタはそんな彼女の恋心をはっきりと否定出来るのかしら?」
「いや、それはダメだろ!」
立ち上がった太志ははっきりと否定した。そんな彼を上目遣いに見つめ続ける花子の唇が横に広がる。
「なんで?」
「な、なんでって……。それは、その、姫宮さんが騙されてるからで……」
「はん、騙されてるなんて大袈裟ね。単にあの子が恋愛経験に乏しい処女ってだけでしょ。そんな乙女心を転がすくらい、遊び人の徳山吾郎には朝飯前なのよ」
「それを騙されてるって言うんだ!」
くわっと太志の乾いた唇が縦に開く。絨毯の上に伸びていた太郎の目がパチリと開くと、その端正な顔に見惚れていた麗奈は軽い悲鳴を上げた。
「へぇ、姫宮玲華って騙されてたんだ」
「今の話を聞く限りはな。それに彼が異性に対してだらしないというのも事実だよ」
「ふーん」
「そのせいか宮田さんともよく衝突してね。まぁ俺は気にした事もなかったんだが、もし彼が姫宮さんのような淑やかで純粋無垢な女性を喰いものにしようとしてるのならば話は別さ!」
「淑やかで純粋無垢ねぇ」
カッと太志の落ち窪んだ目が見開かれる。花子はやれやれとため息をついた。
「俺はてっきり彼の好みは三原さんのような華やかな女性だと思っていたよ。だけどまさか彼が姫宮さんのような慎ましやかな女性を狙っていたなんて……。許せないよ! 許すまじだ! 徳山書記めぇ!」
「……大丈夫?」
恋は人を盲目にする。さらに極度の栄養失調と睡眠不足が相まって精神状態が不安定となっていた太志には、もはや生徒会長としての威厳など残されていなかった。
「今から俺は徳山くんを断罪する! どうか止めないでおくれ!」
そうフラフラと歩き始めた太志の体を抱き止めた花子は、彼を無理やり丸椅子に座らせた。生徒会室の前に立っていた八田英一と大野木詩織が顔を見合わせる。錯乱した太志に向けられた視線は憐れみのみだった。
「ちょっと落ち着きなさいよ。いきなり断罪ってアンタね、皆んなが悲しむ最悪の選択じゃないの」
「うるさぁい! 俺は彼が許せないんだ!」
「姫宮玲華が泣くわよ?」
「な、泣く……?」
「そうよ、きっと大泣きするわ。アンタはあの子を悲しませたいの?」
「な、なんで泣くんだ……? 俺は姫宮さんを助けようとしてるんだぞ……?」
「姫宮玲華は徳山吾郎の事が好きなのよ。大好きな人が急に断罪されちゃったら普通は泣いちゃうわよ。まぁ何をどう断罪すんのかは知んないけど、先ずは話し合いでしょ、話し合い」
「話し合いだって?」
「そうよ、話し合って姫宮玲華の目を覚まさせてやんのが一番の解決方法でしょ」
「そ、そうか……! それなら姫宮さんも悲しまずに済むのか……!」
「時間は今日の昼、場所は近くのファミレスでいいわね。それまでアンタは保健室で寝てなさい」
「いや、今からに……」
「今のアンタに何が出来るってのよ! 本当に姫宮玲華を助けたいってんなら、先ずは睡眠とって体力を回復させなさい!」
「そ、そうだね、分かったよ……」
花子の言葉にコクリと頷いた太志の体が後ろに倒れていった。その体を支え起こした花子は扉の前に立っていた八田英一に顎をしゃくると、フラフラと目の焦点が定まらない太志の体を彼に預けた。
「コイツを保健室まで連れていきなさい。教師のアンタが状況説明すれば、睡眠の許可ぐらいとれんでしょ?」
「ああ、分かった。部活申請の方はいいのかい?」
「それはまた今度ね。たく、こっちも忙しいってのに余計な手間取らせんじゃないっつの」
太志の背中を叩いた花子は舌を打ち鳴らした。その衝撃ではっと目を開いた太志は自分を支える英一に驚いた表情をした。
「や、八田先生じゃないですか? 何故ここに?」
「いや、まぁ色々とね。足田会長、取り敢えず君は保健室で休んだ方がいい」
「はぁ……」
英一の低い声に太志はおずおずと頷いた。そうしてキョロキョロと辺りを見渡した太志は生徒会室の中にいた大野木紗夜の頬に怪訝そうな表情をした。
「大野木さん、その頬はどうしたんだ?」
「何でもないよ」
澄ましたような顔をした紗夜の首が横に倒れると、紗夜の隣にしゃがみ込んでいた麗奈は不安げに下唇を噛み締めた。先ほどから誰が何を尋ねても同じ返答を繰り返すばかりだったのだ。いったい何故殴られた事を隠そうとするのか、麗奈には紗夜の態度がまったく理解出来なかった。
「おい! テメェら何やってんだ!」
聞き覚えのある声に花子の視線が動く。ワックスで固められた猫っ毛の天パを視界に入れた花子はやれやれと腰に手を当てた。
「まーたアンタか。今度はいったい何の用よ?」
「何の用じゃねーよ! なんでテメェがソイツらと一緒に居んだ!」
「ソイツら?」
「心霊学会だよ! ソイツらが俺らに何したと……」
「止めて!」
紗夜の絶叫に吉田障子の声がピタリと止まる。生徒会室の中に視線を送った吉田障子はゆっくりと首を横に倒した。
「紗夜っち、それに麗奈ちゃん。二人とも無事か?」
「私たちは大丈夫よ! だからお願い、何も言わないで!」
紗夜の悲痛な叫びが廊下を走る。吉田障子は半開きにした歯の奥でチロチロと舌を動かし始めた。
「いったいどうしたのよ?」
紫色に変色した紗夜の頬を横目に見た花子の声が低くなる。その痣が殴られた跡だということに花子は気が付いていた。本人が口を紡ぐ為に無理に聞き出そうとはしなかったが、やはり彼女の身に何かあったのだろうと察した花子の腕に青々とした血管が浮かび上がった。
緊迫した空気が生徒会室の前を流れる。大野木詩織の目の動きばかりが忙しない。妹をチラリと見ては視線を落とす詩織の瞳には激しい動揺と溢れんばかりの恐怖が揺れ動いていた。そんな姉の存在を完全に無視した紗夜がまた声を張り上げる。
「何でもないの! だからもう放っといてよ!」
ニイッとほんの一瞬、吉田障子の唇が横に大きく裂けた。それに気がついたのは自分の姿が気になっていた三原麗奈のみであり、その吉田障子のあまりの瞳の暗さにゾッと背筋が凍り付いた麗奈は息を止めてしまった。
「何でもなくねーって。紗夜ちゃんさ、殴られてたじゃん。用務員のおっさんに襲われてたじゃん」
シンッと廊下の空気が動きを止める。唖然として目を見開いた八田英一が口を開こうとした刹那、ぐしゃりと顔を歪めた紗夜の声がリノリウムの廊下を低く振動させた。
「違う」
老婆のような声だった。そのしわがれた低い音に英一がうっと息を詰まらせると、紗夜の姉である詩織はあまりの恐怖に視線を上げられなくなってしまった。既に満身創痍の足田太志は言わずもがな、詩織と同じように恐怖に震えていた麗奈も動くことが出来ず、チラリと視線を交わした太郎と花子の二人のみがこの場の状況を冷静に見極めようとしていた。
「違わねーって」
「違う」
「俺たち、ぶん殴られた仲じゃん」
「違う」
「なぁ紗夜っち、このままじゃ良くねーだろ?」
「違う」
冷たい視線がぶつかり合う。暫く紗夜と押し問答を続けていた吉田障子は、ふぅと息を吐くと、口を開いたまま固まっていた八田英一を振り返った。
「アンタ、八田英一だろ」
「あ、ああ」
「手綱はしっかり握っとけよ」
「手綱?」
「アンタの部下に危険な奴がいるぞ。分かってんのか、お前」
「……まさか新平さんの事か?」
「名前は知んねーけど、新しい用務員のおっさんの事だよ。あの野郎、頭イカれてんぞ」
「ま、まさか新平さんが紗夜さんを……?」
「違う!」
大野木紗夜の声が廊下を振動させる。英一が言葉を止めると吉田障子はガックリと肩を落とす動作をした。
「なんで殴られた本人が否定すんだよ。いや、そもそもあの野郎を追い出した所で問題は解決しねぇか。アイツの目的は麗奈ちゃんだ。もし外で襲われでもしたら対処出来ねーよ」
苦悩に満ちたような声だった。そんな彼を憐れむかのように額の血管を消した花子が静かな声を出した。
「私が懲らしめてあげてもいいわよ」
「へ、そいつはありがたいぜ。でもダメだ、根本を押さえねぇと問題は解決しねぇ」
「根本?」
「学会さ。下っ端をいくら懲らしめた所でキリがねぇんだよ」
「じゃあ、どーすんのよ?」
再び額に血管を浮かばせた花子は奥歯を噛み締める。すると吉田障子の冬の夜空のように冷え切った瞳がスッと細くなった。
「そうだ、話し合いをしよう」
「はあ?」
「話し合いで解決すればいいんだ」
「いや、話し合いって……」
的外れだという程でもない。だが、その場の雰囲気にそぐわないような平和的解決案に花子は素っ頓狂な声を上げた。
「ここにやって来た心霊学会の奴らと、紗夜っち、麗奈ちゃん、そしてアンタと俺で会合を開くんだよ。新平とかいう男をその場でキツく断罪してやんだ。なぁアンタの力ならどんな男でも屈服出来んだろ?」
「まぁ出来るけど……」
「そうだ、玲華ちゃんも呼ばねーと! ほら、玲華ちゃんも中々圧があるしさ。アンタと玲華ちゃんがいれば最強だって! なぁ八田さん、いいだろ? こっちはアンタの部下の大失態を話し合いで解決してやろうって提案してんだ。断る理由なんてねーよな?」
「あ、ああ、そうだね。先ずは話し合いをしよう」
ゴクリと唾を飲み込んだ英一はコクコクと顎を縦に動かした。紗夜と詩織は言葉を発しない。花子と太郎が視線を交わし合う刹那、吉田障子の唇にまた不気味な笑みが浮かんだ。それに気が付いた者は三原麗奈一人だった。
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