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第二章
会いたかった
しおりを挟む「ね、ねぇ、二人とも、保健室行こうよ……」
「ありがと、でも私は大丈夫だから」
「俺も大丈夫」
風に揺れるヤナギの枝。花壇前の喧騒から逃げ出した四人の影が旧校舎の影に隠れる。
状況は悲惨だった。麗奈の前を歩く吉田障子は苦痛に足をフラつかせており、彼の隣を歩く大野木紗夜の唇には血が滲んでいる。先ほどのショックからか三原千夏は会話が出来なくなっており、そんな三人の有様に、自分が何とかしなければと麗奈は決意を固めていた。だが、具体的に何をすればいいのか麗奈には分からなかった。
「じゃ、じゃあさ、警察に通報しようよ……」
「喧嘩に負けて警察頼るなんて恥の上塗りだっつの」
「ええ……? でも大野木さんは女の子だし、大人の男が女の子を殴ったんだから、やっぱり警察に通報しないと……」
「私は大丈夫だってば。ねぇ麗奈、お願いだから気にしないで、こっちの問題だから」
「で、でも……」
何故か意固地な二人に麗奈の視線が下がる。血が流れるほどの激しい暴力を目にしたのはあれが初めてだった。その為麗奈は激しいショックを受けており、またそういった現場で果たしてどう動くのが正解なのかが分からなかった麗奈はとにかく不安だった。取り敢えず警察か教師に連絡すべきだとは思うのだが、暴力の被害者である筈のとうの二人が何故かそれを拒否してくる。もしかしたら自分は暴力が当たり前となった世界に迷い込んでいるのかもしれないと、麗奈は数週間前からの異様の連続に心が麻痺し始めていた。
「麗奈ちゃんは大丈夫なの?」
ポケットに手を突っ込んだまま吉田障子は後ろを振り返った。その細められた瞳は冬の夜空のように冷え切っている。ゾッと顔から血の気が引いた麗奈は慌てて視線を地面に落とした。
「僕は大丈夫だけど……」
「ほんとかよ?」
「ほ、ほんとだよ……!」
「ふーん」
立ち止まった吉田障子の冷たい視線が麗奈の瞳を追い掛ける。もじもじと手を前に組んだ麗奈の視線は地面からヤナギの木の枝へ、そして空の彼方へと泳いでいった。
「あー、麗奈ちゃん、あのさぁ」
「う、うん……」
「うーん、とよぉ」
「う、うん……?」
「そのよぉ」
「ど、どうしたの……?」
ジロジロと舐め回すような視線を送り続ける吉田障子に恐怖を覚えた麗奈は、その視線からなんとか逃れようと背筋を伸ばして目を瞑った。もはや麗奈にはかつての自分が別人としか思えなくなっていた。
「うっ、いてて」
「だ、大丈夫!」
急に胸を押さえて蹲った吉田障子に驚いた麗奈の体が飛び上がった。そんな障子の様子に千夏の視線は訝しげである。
「いってぇ。あー、やっぱこれダメだわ」
「きゅ、救急車! 救急車呼ばないと!」
「おいおい、そりゃ大袈裟だっての。あー、でもダメだ。これは一人じゃ帰れそうにねぇな」
「ど、どうしよう……」
「誰かの手を借りれば帰れるかも。あ、そうだ。麗奈ちゃん、俺を家まで送ってよ」
「え?」
「麗奈ちゃんに送って貰えればさ、俺も無事に家まで帰れるよ。な、麗奈ちゃん、いいだろ?」
「え、あ……え?」
「だめ!」
沈黙を続けていた千夏が大声を上げる。そんな千夏に首を傾げた麗奈は「うーん」と空を見上げた。
見慣れた小道を抜けると神社の石段が見えた。山の裾から伸びる木々の青葉が静かな歩道に淡い影を落としている。
三原麗奈は高鳴る鼓動を抑えようと胸に手を当てた。麗奈の前方では何やら気が合うらしい吉田障子と大野木紗夜が談笑しており、麗奈の隣ではふくれっ面の三原千夏がリュックのショルダーに指を掛けている。四人は現在、吉田障子の家に向かう最中にあった。
涼しい木陰を抜けて青々とした田んぼを目にした麗奈の心臓がまたドクンと高鳴る。それほど久しぶりではない景色だ。およそ一週間ぶりの風景だろうか。だが、心が疲弊し切った麗奈にとってそれは数十年ぶりの故郷を思わせるほどに切なく、そして眩しい風景だった。
「それにしても障子くん、この状況を利用して麗奈を家に誘うなんて、アンタ中々やるね」
「利用なんてしてねーってば。愛しの女を家に誘うくらい俺にとっては日常だっての」
「ふふ、そうなんだ。麗奈を狙ってるのも伊達じゃないんだね」
「俺は狙った獲物は逃さねーからよ」
「あはは、まるで麗奈みたい。アンタらって意外とお似合いなんじゃない?」
「お、マジ?」
紗夜の笑い声が蒼い稲の生い茂った水面に反射する。田んぼの向こうに並んだ家々を眺めていた障子はそんな二人の楽しげで不快な会話に眉を顰めた。だが、特に反論しようという気は起きなかった。それ程までに麗奈の中で吉田障子という名の男への評価が変わっていたのだ。
麗奈はかつての自分の体が大嫌いだった。平凡な容姿に平凡な体格。気が弱く臆病で友達のいなかった自分。それらは決して変えることの出来ない事象なのだと麗奈こと障子は信じて疑わなかった。自分なんかが、と卑屈になっていた麗奈は何もしてこなかったのだ。
だが、今実際に目の前を歩いている男の姿はどうであろうか。吉田障子のその自信に満ち溢れた表情に翳りはない。容姿、体格は大嫌いな自分のままなのに、ただその人格が変わっただけで、弱々しさなど全く見えないような堂々たる男の姿へと吉田障子は変貌を遂げてしまっていたのだ。
麗奈は感嘆していた。心底凄いと、かつての自分の中の誰かに尊敬の念を抱いていた。自分には絶対にあんな事は出来ない。女の子を助ける為に体を張るなど自分に出来る筈がない。だが、それを彼は大嫌いな自分の体でやってのけたのだ。本当に凄い事だった。もしかしたら自分も変わることが出来るのかもしれないと、麗奈は目の前を歩く男から果てしない勇気を与えられていた。
「もうすぐ俺ん家だ」
ビクッと麗奈の背筋が伸びる。自分の家の場所くらい麗奈には分かっていた。だが、改めてその場所が近いと聞かされると、麗奈の体は激しい緊張と焦燥に強張ってしまった。
自分の家はどんな雰囲気だっただろうか。自分は母と毎日どんな会話をしていただろうか。吉田障子だった頃の記憶が所々曖昧となっていた麗奈は、どうか昔のままでありますように、と祈るような気持ちで一歩一歩足を前に進めていった。
「ここが俺ん家」
道の広い住宅街の一画に立つ平凡な家。微細な記憶が戻ってきた麗奈はその記憶のままの我が家に安堵のため息を溢した。
「さ、入って入って」
「おいおい障子くん、怪我はどうした?」
飛び跳ねるようにして家の中に飛び込んでいった吉田障子に大野木紗夜はやれやれと肩をすくめた。そんな紗夜の左頰はほんのり赤黒く変色しており、縦に切れた唇の動きが痛々しい。本当に大丈夫なのかと心配になった麗奈は、ギュッと目を瞑って深く息を吐くと、恐る恐る自分の家に足を踏み入れた。
紗夜の身が心配ではあった。だが、今の麗奈はそれどころではなかった。他人の体で自分の家に足を踏み入れるという恐怖。当然、受け入れられる筈などないだろう。不審な目で見られるかもしれない。出ていけと叫ばれるかもしれない。そんな恐ろしい想像が麗奈の胸を締め付ける。でも、会いたかった。母の声が聞きたかった。
土間を抜けて短い廊下を歩く。居間への引き戸は開け放たれていた。その中から声が聞こえてくる。声変わりを終えていない男の子の声。透き通るように高い女の声。こんな声だったかなと、麗奈の足が止まる。こんな声だったなと、麗奈の足が動き出す。
「あら?」
「あ……」
ピタリと麗奈の体が動きを止めた。台所に繋がる扉が急に開いたのだ。廊下を覗いた吉田真智子の視線と麗奈の視線が重なる。麗奈と同じように目を丸めた真智子もまた何かに驚愕しているようだった。
「うふふ、いらっしゃい」
ゆっくりと目を細めていった真智子の唇に優しい笑みが浮かび上がる。懐かしい笑顔だった。懐かしい声だった。ただその表情は記憶のものよりもずっと若々しい。
「あ、おか……お……」
「ん?」
「お、お……お、お邪魔、します……」
声が上手く出てこなかった。助かったと麗奈は安堵する。間違えてお母さんなどと呼んでしまっていたら、大変な事になっていただろう。今の自分は吉田障子ではなく三原麗奈なのだ。本当に危なかった。
そんな安堵感に胸を撫で下ろした麗奈の頬を涙が熱く濡らしていった。
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