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第二章
魔女の使命
しおりを挟む1年B組は騒めいていた。それは単に空が澄み切った青色だったからだとか、夏休みが近いからだという理由からではない。非日常感が彼らを興奮させたのだ。怒りに狂った上級生たちの声。特に、アッシュブラウンを靡かせる三原麗奈の叫びが教室の空気を白熱させた。それだけ三原麗奈の存在は有名だったのだ。上級生たちの姿が見えなくなると一年生たちの熱気に拍車がかかる。つまるところ1年B組は平和だった。
田川明彦は肩をすくめた。一人の男子生徒の興奮が中々冷めやらないのである。最近やっと高校デビューを始めたような彼の髪は大量のワックスにベタついていた。短い髪を後ろに撫で付けた田川明彦はそんな彼の興奮を諌めようと広いおでこに皺を寄せてみせた。
「おい吉田、三原麗奈は止めとけって、あの人はお前が思ってるような人じゃねーよ」
声を静かに田川明彦は首を横に振る。吉田障子はといえば、前髪を弄ったりボタンを弄ったりと、落ち着きがない様子である。
「マジ可愛過ぎだって。なぁ田川、本当に麗奈ちゃんってフリーなんだよな?」
「聞いてんの? 三原麗奈はヤバいっつってんだよ」
「それ最高じゃん。俺、危ない女も大好物だぜ」
「たくよ、あの人は触れちゃいけない三人の内の一人だぞ」
「触れちゃいけない三人?」
「そ、三原麗奈、睦月花子、大場亜香里には絶対触れちゃなんねーって暗黙の了解があんだよ」
「ふーん」
「ふーんじゃねーって、つーか、早く"情報料"払えよな」
明彦は声のトーンを落とした。へらっと目を細めた吉田障子はポケットからクシャクシャの一万円札を二枚取り出すと、それを明彦に手渡す。
「いやぁ、役に立つ情報をありがとう」
「まいど。つーかマジで、三原麗奈だけは狙うんじゃねーぞ」
明彦の声が更に低くなる。そんな情報屋の睨みに吉田障子はただへらへらとニヤけるばかりである。
「だいじょーぶだって、麗奈ちゃんは俺の手で落とすからさ」
「だから狙うなっつってんだろ。親切心で言ってんだぞ?」
「おっけーおっけー。つーか田川クン、マジでありがとな、やっぱ頼りになるぜ」
「俺の名前だけは出すんじゃねーぞ」
盗撮を趣味としているような生徒はいないかという吉田障子の依頼に、明彦は二万円で新聞部の倉山仁という男の名前を売ったのだった。当然、名前を売ったのみであり、盗撮の証拠などは揃えていない。そんな倉山仁を吉田障子がどうするのかは明彦の知るところではなかった。ただ、ろくなことはしないだろうと安易に想像がついた為に明彦は一応忠告しておいたのだ。
「つーかさ、お前、なんで俺が情報屋だって事知ってたんだ?」
今やほんの僅かしか空気を揺らさなくなった明彦の低い声に吉田障子はニッと白い歯を見せた。
「田川クンって結構有名だぜ?」
「え、マジか。一年で俺のことを知ってる奴なんていたかな」
「一部では有名なんだよ。まぁ上級生の間だけどな」
「嬉しくねぇ情報だな」
明彦は眉を顰めた。そんな明彦の瞳の奥に吉田障子は視線を伸ばす。
「……なぁ、もう一つ仕事を頼まれてはくれないか?」
「嫌だよ」
にべもない。明彦が片手を前に振ると、吉田障子はニヤニヤとイヤらしい笑みを浮かべながら両手の指を開いてみせた。
「五倍出すからさ」
「ご、五倍だって……?」
十万円である。いち高校生が出す依頼金としては異例の大金であった。スッと明後日の方向に視線を送った明彦は一瞬考え込むようにして下唇を噛んだ。
「い、いや、依頼によるぞ。危ない仕事はぜってぇ受けねぇからな」
「大丈夫だって、ちょっと面倒臭いだけだからさ」
「何の依頼だよ」
「──」
「はあ?」
突拍子もない依頼だった。意図を掴みかねた明彦は訝しげに舌を鳴らすと、その依頼によって起こり得るであろう自分への不利益を想像してみた。
「田川クンなら簡単に調べられるだろ?」
「簡単って、うちの学校にいったい何人の生徒がいると思ってんだよ。……いや、やっぱ簡単な依頼じゃねーぞ、これ」
「だから五倍出すって言ってんじゃん」
「いやいや、それにちょっと危ねぇ依頼じゃねーか」
「調べるだけじゃん、何も危なくねーって」
「相手が相手だぞ」
「別にヤーさん調べてくれって言ってるわけじゃないんだぜ。なぁ田川クン、本当にそれが危ないかどうか、冷静になって考えてみてくれよ。プロの田川クンがそんな情報に疎い弱者みたいなこと言うなって」
吉田障子の呆れ顔に明彦はムッと眉を顰めた。確かに彼の言う通り別段の危険はないかも知れない。だが、やはり面倒ではあった。そして何より不気味だった。いったいこの吉田障子という男はその情報を使って何をするつもりなのであろうか。意図が掴めない状況で田川明彦は警戒せざるをえなかったのだ。
「なぁ、お前はそれを知ってどうするつもりなんだ?」
「別に、ただの好奇心だよ」
「好奇心で十万も出すのかよ」
「ああ、出すよ。なぁ、もっと深く調べ上げてくれたらさ、更に五万上乗せしてあげてもいいぜ?」
「……マジか?」
明彦は言葉を失った。同時に、吉田障子という男に対して得体の知れない恐怖を覚えた。もしかしたらコイツは関わってはいけない奴なのかもしれない。そう思った明彦の足が一歩後ろに下がった。
「ああ、マジさ」
「わ、分かった、引き受けよう」
「おお! やっぱ頼りになるのはダチだけだぜ!」
「情報は取り敢えず、来週まで待ってくれ。正直どのくらい掛かるかは分かんねーが」
「なるべく急いでくれよな」
「ああ」
「それとさ、他の情報屋と知り合いたいんだけど」
「他の情報屋?」
「そ、田川クンと違って、金さえ払えば何でも調べてくれるような情報屋を知りたいんだ」
「まさかお前、俺がビビりだって言いたいのか?」
「心霊学会について調べたいことがあるんだ。でも田川クンは忙しいし、やりたくないだろ?」
「……あ、ああ、そうだな、分かった。色々と情報屋繋がりで適任を探してみるよ……」
「さっすが田川クン。頼りにしてるぜ」
ニッコリと口を横に広げた吉田障子は軽くウィンクをすると「麗奈ちゃーん」という奇声を発しながら教室の外へと出ていった。その後ろ姿を呆然と見送りながら、やはりアイツは関わっちゃいけない部類の男だ、と明彦は唾を飲み込んだ。
放課後の理科室では静寂と喧騒が交差している。西日が黒い実験台を照らすと姫宮玲華の白い肌が夕陽の赤に輝いた。
「王子を守らなきゃいけない。その為に私はまたこの学校を訪れたの」
玲華は話を続けた。スクエアメガネを赤い陽に反射させた田中太郎が口を挟む。
「死ぬっていうのは、その、ヤナギの幽霊に殺されてしまうってことだよな?」
「そうだよ」
「逃げないのか?」
「逃げられないの。逃げようとしても夢の中で殺されるから。だから、千代子をなんとかするしかないの」
「なんとかって……」
「んなことよりアンタ、ヤナギの幽霊たちについて詳しく説明なさいよ! 全部知ってんでしょ!」
花子の興奮が静寂を喧騒へと変える。玲華が喋れば静寂に、花子が喋れば喧騒に、と理科室の空気は忙しい。
「うーん、それがまだ分かんないことが多くってさ」
「なーんで分かんないことが多いのよ! 全部アンタだったってんなら知ってなきゃおかしいでしょーが!」
「あたしさ、生まれがこの街じゃないんだよ」
「はあん?」
「そこがもう変なんだよね」
「何が変なのよ?」
「あたしって王子と千代子の業に縛られてるの。だからこの街で生まれるのが普通なの。それなのにあたし、別の街で生まれちゃったんだよ。しかも子供の頃は王子に関する記憶がなくってね、それが小学校の高学年くらいから徐々に蘇ってきて、やっと中学の途中くらいで自分の使命を思い出したの」
「使命?」
「だからあたしは慌ててこの高校を受験したの。まぁ簡単に入れたから良かったけどさ、記憶戻るのが遅れてたらヤバかったなぁ。それにまだ問題が山積みでね、千代子以前の記憶は思い出せたんだけど、千代子以後の記憶がほとんど思い出せなかったの」
「どういうことよ?」
「分かんない。分かんなかったから調べようと思ったの。だから入学してから数ヶ月は一人で色々と調べてたんだよ。夜の学校に忍び込んだりしてさ。途中で変なのが付いて来たりすることもあったけどね」
玲華の視線が太郎に向けられる。その赤い唇を見つめた太郎は何処か情けないような、申し訳ないような気持ちになって視線を落とした。はん、と太郎の横顔を睨んだ花子はまた玲華の瞳を見つめると目を細めた。
「なーんで一人で調べてたのよ。吉田何某がアンタの目的じゃなかったの?」
「ある可能性があったから、王子との直接的な接触を我慢してたんだよ」
「ある可能性?」
「あたしがもう一人いる可能性。もしもこの街で同じ時に別のあたしが生まれていたのだとすれば、あたしが別の街で産まれてしまった理由に説明がつくの」
「……たく、アンタらはアメーバかっての」
玲華の視線が窓の外に向けられる。少し離れた位置から玲華の話に耳を傾けていた徳山吾郎は何かを考え込むようにして顎に手を当てた。
「この学校に来てから予想が確信に変わったんだよ。だって変なんだもん。意図的に千代子の存在が王子から遠ざけられてたの。だから王子は高校入学してから数ヶ月間はアレに巻き込まれずに済んでたの」
「なにそれ、遠ざける? てか、そんなことが出来るんだったら、別に吉田何某を守る必要なんてないじゃないのよ」
「ううん、それが出来るのはたぶん一年生の内だけだと思う。千代子としょう子が死んだのは十八歳の時だったから、その年齢に近づくにつれて業が深まっていくの」
「ふーん」
「あたし以外にも王子を守る存在がいるってことが分かった。それはたぶんもう一人のあたしで、あたしはそいつが誰かを見極めてやろうと思って王子との接触を我慢してた。それと千代子以後の記憶も探っておこうと思って、何度も何度も夜の学校に忍び込んでは、かつてのあたしを見て回ってたの。そうしてやっと、千代子、英子、みどりまで記憶の一部を取り戻せたんだよね。でも……」
「でも?」
「王子との接触は我慢してたんだよ。同じ教室だったけど会話どころか目を合わせるのも避けて、本当は抱き締めたかったのにさ、頑張って頑張って我慢してたの……。でも、でもさ……。だって、だって王子ったら、いっつも一人なんだもん! 一人で誰とも喋らずいつも寂しそうで、お昼も校舎裏で一人で弁当食べてて、もう可哀想で可哀想で見てらんなくって……」
「ああ……」
「なんか授業中にね、臼田先生が田川くんのこと怒って、そしたら王子がね、自分が怒られたかと思って、すいません、って謝ったの。一人で頭下げて、皆んな一瞬だけ王子の方を振り返ったんだけど誰も反応しなくって、その後、王子一人で顔真っ赤にしてキョロキョロと恥ずかしそうで……もう見てらんなかったの!」
「やめてよ!」
いつの間に目を覚ましていたのか、三原麗奈の頰は既に夏の夕陽よりも真っ赤だった。哀れむような皆んな視線が麗奈の元に集まると、フルフルと肩を震わせた麗奈の目に涙が滲んだ。
「ごめんね、王子、本当にごめんね」
「姫宮さんのばかぁ!」
「まあまあ、いいじゃないのアンタそのくらい。つーか、一人ぼっちだったのってアンタ自身の性格の問題でしょうが」
「もういい!」
一人床にしゃがみ込んだ麗奈に向けられた視線は哀れみのみである。やれやれと花子は腰に手を当てた。
「で、アンタはそのもう一人の自分とやらを見つけたいわけね」
「うん。何故だか王子ね、王子ってあだ名を付けられたことがあるらしくって、あたしさ、そのあだ名をつけた人が怪しいんじゃないかって睨んでるんだよ」
「ふーん」
「だからね、王子ってあだ名を付けた人を探すのと、王子の名前をみんなに広めることが、この王子様研究部の当面の活動内容ね!」
玲華の満面の笑みが西日を受けて煌めく。「はあん?」と花子が眉を顰めたちょうどその時、理科室の扉が勢い良く叩き開けられた。
「愛しの麗奈ちゃーん! 王子が来たよー!」
吉田障子の喧騒が理科室の喧騒とぶつかって相殺される。ほんの一瞬、理科室を静寂が包み込んだ。
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