王子の苦悩

忍野木しか

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第二章

彷徨う男

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 緩やかな山の斜面に沿うようにして建てられた本殿の二階にはちょうど学校の教室ほどの大きさの部屋が並んでいた。元々は、私立学校設立を目的としていたのだという。七階にまで広がる琥珀色の本殿は隅々まで手入れが行き届いており、いつでも生徒を受け入れる準備は出来ているのだと、八田英一は陽気に微笑んだ。
「何で学校なんて建てようと思ったのよ」
 階段に敷かれた白い絨毯の上を音が跳ねる。蛍光灯の明かりが夏の西日よりも眩しい。そんな白い光が睦月花子の声を包み込んだ。
「富士峰高校に代わる新たな学校を父が望んでね」
「だから何でよ? 富士峰高校になんか不満でもあったの?」
「不満じゃない、憂いさ」
「憂い?」
「ヤナギの霊の存在が危険なんだ」
「ヤナギの幽霊ってそんなに有名だったかしら? 危険だなんて話聞いたことないのだけれど」
「いや、まさか、君たち"1年D組の悲劇"を知らないなんて事はないよね?」
「何それ?」
「嘘でしょ、貴方……」
 花子から英一を守るようにして階段を上っていた大野木詩織の眉が、火に飛び込む愚かな虫を嫌悪する淑女のように露骨に歪められた。英一はといえばポカンと口を開けたまま呆然としている。
「いやはや、これがジェネレーションギャップというやつなのか……」
「英一様、違います、あり得ません。日本史上類を見ない大事件ですよ? 此奴らとそれほど違わぬ私どもの世代においても大変有名な事件です。ただ単に此奴が史上類を見ない無知蒙昧なのでしょう」
「また首締め上げられたいよーね、アンタ!」
「なぁぶっちょ、暴力は美しくねーぜ?」
「だーれが、ぷっちょよ!」
 花子に首を締め上げられた鴨川新九郎の細い眉毛がへの字に曲がる。腕で作った薄い影の下で田中太郎はやれやれと息を吐いた。
 本殿の六階は真紅の絨毯に覆われていた。ガラス張りの壁に掛かった薄いカーテン。明るさが抑えられているのか、蛍光灯の光も控えめである。
「で、その悲劇って何よ?」
 新九郎の首を掴んだまま花子は真紅の絨毯の上を歩いた。ズルズルと引き摺られる大男を尻目に英一は青い警備キャップを被り直す。
「失踪事件だよ」
「失踪?」
「生徒が失踪したんだ」
「ふーん、よくある話じゃないの」
「教師を含めた1年D組の生徒全員がね」
「……は?」
「35年前の話だ。さ、ここだよ」
 目を丸めた花子に英一は微笑む。六階の中央は半円状のホールとなっていた。白い壁には巨大なスクリーンが設置されており、ホールの絨毯の上にはパイプ椅子が並べられている。
「その辺に腰掛けていてくれ、今、父と繋ぐから」
「ちょ、ちょ、ちょ、待ちなさい! 生徒全員って、三十人以上が居なくなったってこと?」
「いや、正確には発見された一人の生徒を除いた三十六人だよ」
「そんな大事件聞いた事ないわよ!」
「だから貴様は史上類を見ない阿呆なのだ」
 目にも止まらぬ速さで伸ばされた花子の指が大野木詩織の細い首に絡まる。新九郎と同じように眉をへの字に曲げた詩織の意識がスゥと夢の中へと落ちていった。詩織の端正な顔から正気が薄れると、飛び上がった太郎はズレたメガネをそのままに花子の肩に腕を伸ばした。
「おい部長! 女だぞ!」
「私だって女だっつーの!」
 新九郎と詩織の体を絨毯の上に投げ捨てた花子の腕が蛇のように太郎の首元に迫る。太郎のメガネがズレ落ちそうになったその時、明かりの灯ったスクリーンから声が響いた。
「変わらず、騒がしいな」
 しわがれた声だった。ガラスを石で磨り潰したような掠れ声。太郎を離した花子がスクリーンを振り返ると、はっと意識を取り戻した詩織は慌てて姿勢を正した。
「……アンタが、八田弘ですって?」
「そうだ」
 スクリーンに映し出された老人の顎が縦に動くと、花子と太郎は唖然として目を見合わせた。白髪を腰の辺りまで伸ばした老人の乾いた唇から異様に白い歯が覗く。ギョロリと見開かれた瞳のみが黒く陰鬱である。ヘソの辺りまで伸ばされた白い顎髭。でっぷりと盛り上がった腹。ベットの端に腰掛けた八田弘は上半身が裸だった。老人の両隣では容姿の整った女性が二人、両手を前に添えて俯いている。
「おい女、オマエは若き日のワタシと、もう既に会っておるのか?」
 老人の唇が動く。その弛んだ腹も、垂れ下がった肩も、陰鬱な瞳も、長く白い髪も髭も、両隣に佇む女も動かない。スクリーンの上では老人の唇だけが動いていた。
「……多分ね」
 目を細めた花子は画面上の老人に昨夜出会った筈の青年の特徴を探した。だが、見当たらない。老人はもはや青年とは別の生き物のようであった。
「ならば何故、腕がある?」
「……腕? ああ、腕ね。目が覚めたらニョキニョキ生えてきたのよ」
「ふはっ、聞いたかオマエたち。トカゲ女、いや、鬼か。やはりこの女は妖怪の類だ」
 八田弘の上半身が左右に動く。横に開かれる唇。だが、表情筋が固まってしまっているのか、唇以外は動かない。その瞳は相変わらず陰鬱なままである。
「おい女」
「部長と呼びなさい」
「ふはっ、何でもいい。おい部長、若き日のワタシとはいつ会った?」
「昨日の夜よ」
「ほおぉ、それはそれは面白い。若き日のワタシはハンサムであったろう?」
「髪型はね」
「ふはっ、ふはっ、そうかそうか、ふははっ」
 陰鬱な瞳は動かない。両隣の女は俯いたままである。ただ、画面上の老人が耳障りな声を上げるたびに、花子の隣で直立姿勢に視線を下げる大野木詩織の肩がビクリと震えた。その詩織の怯えたような表情を横目に睨んだ花子の額に血管が浮かび上がる。
「八田弘……」
「ちょっといいか?」
 スクエアメガネの縁に指を当てた太郎がパイプ椅子に座ったまま片手を上げる。教師に質問する学生のような姿勢である。そんな緊張の面持ちの太郎に、思わず怒りを忘れた花子は吹き出してしまった。
「ぶはは、だから憂炎、アンタは受験生かっつの!」
「ちょ、うるせぇって!」
「オマエは誰だ?」
 鼓膜を撫でる掠れ声。慌てて姿勢を正した憂炎こと田中太郎はゴクリと唾を飲み込んだ。
「あ、俺……ほら、アンタに逃げろって言った、あの男……です。その……あっ、ほら、あの時はメガネ掛けてなくって、髪ももっと長かった……です」
 立ち上がった太郎はメガネを外した。中肉中背の八田英一と比べるとかなり背の高い男である。その端正な顔に八田弘は暗い視線を送った。
「昨夜と言ったな、ふむ……。おかっぱの少年、それともう一人、背の高い、真面目そうな顔をした男が居た筈だが?」
「真面目そうな男って、新九郎のこと? はん、お望みの太眉男なら、さっきからそこに居るわ」
 花子の差し示した先で金髪の男が欠伸をする。新九郎は細い眉をへの字に曲げたまま退屈そうに絨毯の上で胡座をかいていた。それを見た八田英一は何かを思案するように長い顎髭に指を掛けた。
「あ、あの、八田弘……さん」
「なんだ」
「戸田清源という男をご存知ありませんか?」
「知らんな」
「その、多分ですけど、戸田清源はアナタの後輩にあたる人です」
「ワタシの後輩? 高校のか?」
「はい、多分、アナタの知り合いです」
「戸田清源……後輩か……。戸田清源……戸田……清源……戸田……戸田……。いや、まさか、戸田和夫のことか?」
「戸田和夫……。そ、そうです。確かそんな名前でした」
 八田弘の陰鬱な瞳が斜め上に向けられる。前傾姿勢になった太郎は食い入るように画面上の老人の口元を見つめた。
「八田弘さん! 戸田……和夫さんの行方をご存知ありませんか?」
「知らんな」
「その、和夫さんは道教という教えを広めておりまして……」
「知っておるよ」
「え?」
「アレは夢見がちな男だった。宇宙に夢を見ていたアレは、あのワタシの体験の後に、超常現象を語るようになった」
「超常現象……」
「確かにアレは道教とかいう訳の分からん教えを広めようと模索しておった。そして、まだ教師だったワタシの元によく訪ねて来おった。ヤナギの幽霊はどうだった、と。英子と一郎の行方を、探す気は無いのか、と」
 八田弘の陰鬱な瞳の奥に蠢めく微かな動揺を花子は見逃さなかった。顎髭を撫でたまま老人は唇を動かし続ける。
「あの……あの悲劇の後、ワタシは教職を降りた。逃れられんと思ったからだ。ワタシはワタシの……いや、全ての子どもたちが怨霊の祟りから逃れられる場所を、早急に作る必要があった」
「パパ……」
 胸を打たれたように口元を押さえた英一が声を絞り出した。画面上の女たちの唇は動かない。花子の瞳がゆっくりと細められていく。
「だが、金がない。いや、金などワタシには必要無かったのだが、こんな世だ、金が無ければ始められぬことばかりだろう。そんな時だ、またアレがワタシの元にやってきた。またあの話を聞きたいと、新たな悲劇についての話を聞きたいと、このワタシに擦り寄って来たのだ。不快な男だった。だが、金は持っていた」
 ほんの一瞬、イヤらしく横に開かれた老人の唇はすぐにまた固く引き締められる。ポカンと目を見開いていた太郎の瞳に激しい動揺の色が浮かんだ。
「こ、こ、殺したのか……?」
「バカもん! だ、だ、誰が! 誰が、何を、したと! そんな、そんな事を、このワタシがするものか! バカもんが! その口を二度と開くな、穢らわしい!」
 老人の耳を劈くような絶叫にスクリーン上の女たちがやっと表情を動かした。嫌悪と恐怖に震える女たちの唇。花子の額に再び血管が浮かび上がる。父親の怒鳴り声に動揺したのか、英一は泣き笑いのような困惑の表情を浮かべたまま額の汗を拭った。
「パ、パパ……?」
「ふん……誰が何をしたと……バカめ……大バカモノめ……」
「じゃ、じゃあ……和夫さんはどうなったんだ?」
「ふん、アレは消えおったよ、借金にまみれてな。おおよそ、どっかでのたれ死んでいることだろう」
「な……」
「ヘタクソだったんだ。初めはアレが持っていたここで一緒に心霊現象の研究をしていた。だが、アレは本当にヘタクソでヘタクソで、何もかもにセンスが無い。だから、すぐに追い出したよ。ふはっ、まぁアレが残した資産は世の為人の為に有効活用させて貰ったがね」
「……なーにが伝説の男よ。乗っ取られてんじゃないのよ、たく」
 花子の呆れたようなため息が真紅の絨毯を撫でる。呆然と下を向いた太郎はグッと手を握ると奥歯を噛み締めた。
「ふん、アレの話などどうでも良かろう。そんな事より、おい部長、今すぐこの学会に入れ。幹部待遇で迎えてやろう」
「な、何を……?」
 驚いた詩織は視線を上げた。老人はそんな詩織の困惑を無視する。
「オマエの力はよーく知っている。ふはっ、先ほど幹部候補生たちを投げ飛ばすのも見ていたぞ。筋繊維と骨密度の異常発達か。ふははっ、何でもいい、とにかくワタシの下に来い。悪いようにせん」
 老人の耳障りな声が花子のうなじに絡みつく。花子を囲む視線。英一と詩織は言葉を失ったまま立ち竦んだ。
「どうした。金なら幾らでもくれてやるぞ」
「……ふぅ、アンタねぇ、色々と言いたいことはあるけれど、その前に一ついいかしら?」
「なんだ」
「アンタの友達、一郎っていうのね」
「はあ?」
 血管の浮かんだ腕。血管の浮かんだ額。腕を組んだ花子の唇が怒りに歪む。
「八田弘、アンタまさか……あの時、一郎を……友達を、見捨てたの……?」
「……何の話だ?」
「友達を見殺しにしたのかって聞いてんのよ!」
 シン、と本殿の空気が凍り付いた。老人が息を止めたのだ。誰の心臓の鼓動も空気を揺らさない。動くものの無くなった空間で、花子はジッと八田弘の次の言葉を待った。

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