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第二章
尊師の祈り
しおりを挟む心道霊法学会の本殿は琥珀色の大理石に覆われていた。滑らかなレンガ畳の正門を越え、ガラス張りの通路を進んだ先には大広間が広がっている。ドーム型の内部は一面がガラス張りの窓から差し込む日で鮮やかな琥珀の光に煌めいていた。
「なんだよ、これ……」
田中太郎の声が大理石を撫でる。目を細めた睦月花子は、エントランス横のソファーに鴨川新九郎の体を投げ捨てると、興味深げに辺りを見渡した。オフィスに座る白い服の女性。三人を案内していた警備員らしき男が「祓え給え」と手を合わせると、オフィスの女性も「祓え給え」と静かに手を合わせた。整った顔立ちの女性である。その涼やかな目元を睨んだ花子は窓辺に並べられたパンフレットを一つ手に取った。
「心道霊法学会ねぇ」
青空の下の本殿。最初と最後に記された行書体の唱え言葉以外は観光パンフレットのような内容である。パラパラと中を流し見た花子は、酸素を求める金魚のような顔をした太郎の唇にそれを叩き付けると、広間奥の階段に向かって足を踏み出した。
「憂炎、行くわよ」
唇を押さえた太郎が顔を上げる。両手を下ろした警備員の男は一人奥へと進んでいく花子の背中を慌てて追いかけると、その前に立ち塞がるようにして右腕を広げた。
「そんなに急がずとも。本殿の説明を軽くしたいんだ、君達はその辺にでも掛けていてくれないかい?」
「説明なんて要らないっつの。んな事よりアンタ、怨霊は何処よ」
「怨霊?」
「怨霊を封印してる場所よ。こんな巨大な施設で幽霊研究してるってんなら、怨霊の一匹や二匹は封印してんでしょ。たく、地下深くにでも封印してんの?」
「……えっとね、君の言う通り、ここでは幽霊の研究がされているよ。でもね、残念ながらここに怨霊はいないんだ」
「はあん? じゃあ何でこんな仰々しい見た目してんのよ!」
「んー、まぁ何というか、幽霊を遠ざける為に作られた施設という言い方が正しいのかも知れない」
「遠ざける為ですって?」
「そ、だからこんなに煌びやかなんだ」
「はん、つまらない所ね。憂炎、さっさと帰るわよ」
「いや、待てって……」
高天井を見上げていた太郎の腕を花子が引っ張る。その時、広間奥の階段上から白いフードの男女が姿を現した。見覚えのある服装に花子の動きが止まる。階段を照らす日差し。白いローブは異様な光を帯びている。
階段を降りる男女に訝しげな視線を送っていた太郎の背後で大理石を叩くような軽い音が響いた。慌てて振り返った太郎はエントランス前に立つ黒いスーツの女を見る。人形のように整った顔の女。女の背後では白いスウェットを着た人々が両手を合わせて立っている。既にガラス張りの通路は心道霊法学会の信者で埋め尽くされていた。
「祓え給え」
警備員の男の声が大理石の壁を反響する。その声に呼応するように俯いた信者たちの声が大広間の空気を震わせた。はっと目を覚ました新九郎がソファの上から転がり落ちる。
「何よ、アンタら」
花子の首の骨がゴキリと音を立てる。警備員の男は両手を額の前に合わせたまま花子を振り返った。
「そう警戒しないでくれたまえ。警戒しているのは我々の方なんだ」
「英一様、早くその者たちからお離れください。穢れてしまいます」
黒いスーツの女がスッと革の靴を前に出す。大理石を叩く高音。青い警備キャップを被り直した八田英一は腕を後ろに組むと、心道霊法学会幹部の大野木詩織に向かって優しげな視線を送った。
「詩織さん、失礼な物言いは止めなさい」
「ですが……」
「彼らは大切な後輩ですよ」
「……はい」
視線を下げた詩織の両手が額の前で合わせられる。床の上で新九郎が呻き声を上げると、突然現れた異様な集団に固まっていた太郎は慌てて親友の元に駆け寄った。
「で、いったい何なのよ?」
腰に手を当てた花子は首を捻った。そんな花子に八田英一は両手を合わせてみせる。
「祓え給え」
「はあ?」
「祓え給え」
「だから何なのよ、それ?」
「救いの言葉だよ。さぁ君たちも我々と共に唱えなさい。祓え給え」
「嫌よ、気持ち悪い」
嫌悪感を隠さない花子の瞳が細められる。ニッコリと唇を横に広げた英一がまた「祓え給え」と唱えると、花子の言葉に奥歯を噛み締めた詩織の革靴が大理石の床を踏み鳴らした。
「貴様!」
「止めなさい」
「で、ですが……!」
「彼らはまだ何も知らない。先輩として我々がそれを諭してやらねばならぬのです」
「……はい」
「おい! アンタら、戸田清源という男を知らないか!」
新九郎を助け起こした太郎は声を張り上げた。状況が掴めないのか、新九郎の視点は明るい空間を彷徨ったまま定まっていない。
「知らないよ」
「そ、そうかよ。なら、もう用はねぇ。おい部長、帰るぞ!」
太郎は焦ったように花子に向かって手招きをした。柔和な笑みを浮かべたまま英一は両手を額の前に合わせる。
「祓え給え」
「お、おい、さっさと道を開けてくれ」
「祓え給え」
「ふ、ふざけんなって! 俺たちはもうここに用はねーんだ!」
「祓え給え」
太郎の怒鳴り声が信者たちの祈りの波に呑まれ消えていく。額に汗を浮かべた太郎は焦ったようにスクエアメガネの位置を直し続けた。止まない祈り。未だ状況が掴めない花子と新九郎は目を見合わせるとやれやれと肩をすくめた。
「つまり、私たちが何かに取り憑かれてるって言いたいわけ?」
「いいや」
「じゃあ何だっつーのよ!」
「君たちが憑かれないようにと、我々は祈っているんだ」
「憑かれるって何によ?」
「ヤナギの霊に、だよ」
「ええっ!?」
大理石を叩き割るような花子の絶叫に「祓え給え」の声が止まる。シン、と静まり返った空間で、恐る恐る顔を上げた信者たちの視線が一人の女生徒の元に集まった。
「ヤ、ヤ、ヤナギの霊ですって!?」
鼻息荒く踏み出しされた花子の一歩が本殿を震わせた。頬を引き攣らせた英一の体がよろけるようにして後ろに下がると、その背中を抱きしめた詩織は鋭い声を上げた。
「お前たち何をしている! 英一様をお守りしろ!」
「ま、待ちたまえ」
詩織の声に白いフードの男女が動き出すと、姿勢を正した英一は手のひらを前に出して彼らの動きを静止させた。
「ふぅ、まぁ富士峰高校の生徒であれば、ヤナギの霊の存在くらいは知っているか」
「知ってるも何も、私たちは長年ヤナギの霊を追い続けてんのよ!」
「んん?」
「私たちは心霊現象のエキスパートよ! ついこの前だってね、ヤナギの霊を後ちょっとの所まで追い詰めたんだから!」
「いったい何を……?」
「私たちはこの目でヤナギの霊を見たのよ! ねぇ憂炎?」
「あ、いや、まぁ……」
花子のギラつく瞳に太郎の視線が泳ぐ。失笑が信者たちの間を縫って流れた。
「あー、何だ、もしや君たちはその、心霊現象研究部の部員なのかね?」
「違うっつの! 私たちは歴史ある超自然現象研究部の部員よ!」
「超……?」
「たく、まさか私たち以外にもヤナギの霊を追い求める存在が居たとはね。ふふ、アンタらって、ここでヤナギの霊の研究してんの?」
一人腕を組んだ花子の表情は満足げである。信者たちの失笑が徐々に広がっていくと、口元を抑えた英一の嘲るような笑い声が厚い窓の向こうに飛んでいった。英一の声に同調するようにして信者たちの嘲笑が大広間を埋め尽くしていく。
「くくっ、はっはっは、そうかそうか、ヤナギの霊を見てきたか」
「……なんか文句あんの?」
「いやいや、はっはっは」
「チッ……」
表情を曇らせた花子の舌打ちが笑い声に飲まれた。腕に浮かんだ血管。太郎と新九郎は不安げに顔を見合わせる。
ふぅと息を吐いた花子は振り上げかけた拳を下した。いつもの花子ならば鉄拳で黙らせていたであろう。だが、実際にヤナギの霊を見たという自負心を持つ花子には少なからず余裕があった。
「帰るわよ」
「あ、ああ」
「済まない、はっはっは、ちょっと待ちたまえ」
花子たちの前に英一が立ち塞がる。信者たちの嘲るような視線が花子の細い目に集まった。
「……何よ、アンタらヤナギの霊信じてないんでしょ」
「もちろん信じているとも」
「信じてんなら、何で笑うのよ」
「いやはや、本当に済まないね、別に君を馬鹿にしているわけじゃ無いんだ。ただ、ヤナギの霊を実際に見たという人が数える程もいなくってね」
「他に見た奴がいるの?」
「ああ、二人いる。僕の父と、荻野新平というここの幹部の一人だ」
「ふーん、だったら何で笑うのよ?」
「そのだね、はは、君たちが随分と可愛らしく思えてね。僕も学生時代にヤナギの霊を見たと騒いだことがあったんだ」
「……もしかして、私たちが見たっていう話を信じてないの?」
「実際に見たのであれば、君たちはもう幽霊だということになるからね」
再び嘲笑が大きくなる。花子の額に血管が浮かび上がると、傍観していた太郎と新九郎は花子の暴走に備えて腰を低くした。
「何でよ、二人見た奴が居んでしょ?」
「彼らは特別だよ。特別な条件下で何とか一命を取り留めただけなんだ」
「じゃあ私たちも特別ね。つーか、ヤナギの霊なんて実際は大した事なかったつの」
「はぃ?」
「アンタら、まさかヤナギの霊如きにビビってるわけ? はん、ここも大した事ないわね」
「……笑えない冗談だよ、それは」
「親父さんと酒飲みながらでも聞いてみなさいよ。そしたらきっと、ヤナギの霊なんてただの女生徒だったって親父さんも鼻で笑うわ。あ、それともなに、もしかしてアンタの親父さんがガクブルビビっちゃって、こんな家建てたってわけなのかしら?」
「……何だと?」
「貴様ぁ!」
詩織の怒号が大広間に轟いた。呆然と目を丸めていた信者たちの頬が怒りに赤く歪んでいく。
「許さない!」
詩織が歩み寄ると同時に、白いフードの幹部候補生たちが背後から花子に飛び掛かった。グッと幹部候補生の一人が花子の首に腕を回すと、別の幹部候補生が花子の足を捕らえる。「祓え給え!」という信者たちの絶叫。怒りに震える詩織の指が花子の短い髪を掴んだ。
「部長!」
花子を助けようと声を上げた新九郎と太郎に幹部候補生たちがしがみ付く。二、三人では止められないだろうと、信者たちの一部が大柄な男達に飛び掛かった。
「貴様……貴様……! 絶対に許さないから!」
憤怒の形相で唾を飛ばした詩織は花子の頭を揺さぶろうと腕を左右に振った。止まらない怒号。怒りにヒクつく頰。だが、花子の首は地蔵のように固まったまま動かない。呆れたように目を細めた花子が軽く首を振ると、バランスを崩した詩織の体が床に投げ出された。
「何よ?」
花子が一歩踏み出すと足にしがみ付いていた幹部候補生の体が宙を舞う。
「何よ?」
花子の手が二人の幹部候補生の首ねっこを掴む。白いフードが二つ、信者たちの元に舞い降りた。
「何よ?」
虫けらのように投げ飛ばされていく幹部候補生たち。花子の腕が呆然と立ち竦む英一の首に伸ばされると、転がるようにして立ち上がった詩織が英一と花子の間に割って入った。
「だから、何よ?」
血管の浮かび上がった花子の片腕が詩織の体を宙に持ち上げる。首を締め上げられた詩織の紅い唇から泡が吹き出した。唖然としたまま眺め続けることしか出来ない信者たち。新九郎と太郎の怒鳴り声が大広間に響き渡る。
「ぶ、部長様! お待ちください!」
オフィスに座っていた白い服の女が慌てて花子の足元に倒れ込んだ。手には無線のようなものを握り締めている。
「何よ?」
「そ、尊師が、部長様とお話しをしたいと言っておられます!」
「パパが!?」
目を見開いたまま固まっていた英一の肩が跳ね上がる。詩織を持ち上げたまま花子は足元の女を見下ろした。
「尊師って誰よ?」
「私共の会長にございます!」
「だーかーら、誰よそれ! 名前を言いなさい、名前を!」
「お、お名前など、とても……」
「八田弘だ」
シンと静まり返る大広間。無線からの声に信者たちは息を呑む。
「八田弘ですって?」
聞き覚えのある名前だった。太郎の口がポカンと縦に開かれる。詩織の体を投げ捨てた花子は新九郎と目を合わせると首を傾げた。
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