王子の苦悩

忍野木しか

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第一章

鬼の躍進

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 生徒会室の倉庫から飛び出した八田弘は呆然と丸メガネの縁に中指を当てた。天文部部長の肩越しから生徒会室の惨状を目にした松本一郎も息を止めたまま固まってしまう。倒されたロッカーや破壊された扉は惨状のほんの一部でしかない。剥がされた紅い絨毯から覗く灰色の床。そこかしこに撒き散らされた備品と割れた照明のガラス。壁際で力無く横たわる髪の長い男の太ももに刺さった鉛筆が痛々しい。だが、それらを総括しても届かないほどに苛烈な存在が赤い陽を背景に悠然と佇んでいた。
 赤く染まった体。黒く焦げた右足。額と左腕に浮かび上がった青い血管。
 片腕の無い女の苦痛と怒りに歪んだ頰。ただ、その横に裂けた唇は恐れを知らない鬼のように不敵だった。


「行くわよ」
 花子の声に鴨川新九郎は口をポカンと開けたまま視線を上げた。絨毯に散らばったガラスの破片が夕暮れの赤い陽に煌めく。破壊された扉の向こうに転がる足の取れた黒いデスク。上半身が押し潰された女生徒の白い足がビクンと動くと、デスクの残骸がゆっくりと横に動いていった。
「ほら、アンタらも早くしなさい」
 まるで爆撃にでもあったかのように荒廃した生徒会室。トロフィーの並ぶ棚の横で立ち竦む八田弘と松本一郎は、呆然としたままに視線を縦横に動かす事しか出来ない。彼らの向かいの壁際では気を失った田中太郎が白目を剥いて横たわっていた。
 チッと舌を打ち鳴らした花子は、目の前で座り込む新九郎と信長の尻を蹴り上げた。
「眠りの森の新九郎、アンタは憂炎を運びなさい。秀吉はあのもっさりヘアの二人組を何とかするのよ」
「は、運ぶって、何処へ?」
「下よ! 副会長を連れ戻すのが私たちの目的でしょーが!」
「で、ですが、宮田さんは……」
 新九郎の視線が廊下に向けられる。黒いデスクはまだ惨状を覆い隠したままである。
「……まぁ、死んじゃってたとして、せめて死体ぐらいは親御さんの元に届けてやろーじゃないの」
「ええっ!?」
「なっちゃったもんはしょーがないでしょ! なっちゃったもんは! 元々両目潰れてたんだし……つーか、刺されたんだから正当防衛でしょーが!」
「で、ですが……」
「御託はいいからっ……動きなさい! 秀吉……はっ……アンタもよ!」
 花子の呼吸は浅かった。その額に浮かぶ汗が苦痛を物語っている。慌てて立ち上がった新九郎が意識の無い太郎の側に駆け寄ると、勢いよく駆け出した信長はめくれた絨毯に躓いてバランスを崩し、未だ呆然と視線だけを動かし続けている天文部員たちの体にぶつかって転んだ。
「なっ……な、な、なんなんだ、いったい!」
 ガラス棚に背中をぶつけた八田弘が怒鳴り声を上げる。
「に、逃げますよ!」
「逃げるだって?」
「外に逃げるんです!」
「ちょっと待て、英子は何処だ!」
 信長の体当たりで尻もちをついていた松本一郎は、飛び起きると共に「英子ぉ」と声を張り上げた。同時に、黒いデスクの下から這い出た鈴木英子の体が、紐に吊り上げられる人形が如くゆっくりと起き上がる。その潰れた鼻からは血が滴り落ち、細い首は不自然に折れ曲がっていた。
 信長の悲鳴。松本一郎の絶叫。矢田弘は激しい恐怖に体を硬直させた。
 鈴木英子が左腕を上げる。だが、花子の方が一歩速かった。躊躇無く間合いを詰めた花子の前蹴りが英子の胸に突き刺さると、後ろに吹っ飛んだ英子の体が黒いデスクの残骸に衝突した。腹部に走る激痛など花子はおくびにも出さない。
「行くわよ」
 花子の声に太郎を背負った新九郎が立ち上がった。立ち竦む八田弘の腕を引っ張るおかっぱ頭の男子生徒。怒りに顔を赤くした松本一郎が花子に掴みかかる。
「オメェ! このクソがっ!」
「行くわよ」
 一郎の顎を殴って気絶させた花子は、矢田弘と信長に一郎の体を任せると、廊下に横たわる宮田風花の元に駆け寄った。
「生きてるわね」
 両目が潰れている為に意識の有無は分からない。だが、その胸は上下に動いている。
 風花の体を左腕で抱き上げた花子はもう一度「行くわよ」と後ろを振り返った。横たわるヤナギの幽霊。新九郎の顎が大きく縦に動く。信長と共に意識のない一郎を肩に抱いていた矢田弘は、首の折れ曲がった鈴木英子には一瞥くれず、視線を窓の外に向けたまま生徒会室を後にした。
 意識の無い三人を抱き抱えた四人の背後。ヤナギの幽霊の叫びが夕陽に染まった校舎を震わせた。


 姫宮玲華は暗い廊下の先を見つめた。視線の先に動く影は無い。背後の暗闇に音は無い。
 何方から来るか分からない亡霊から空き教室を守ろうと、玲華は意識だけを闇の奥に集中させていた。
「……おお、さすが私」
 玲華は関心したように笑った。黒いの女生徒の顔が隣の教室の窓に浮かんでいたのだ。既に玲華の両腕は黒い女生徒に囚われている。
 腕を捻じ曲げられた玲華の絶叫が暗い校舎に響き渡ると、空き教室で身を伏せていた三原麗奈と徳山吾郎はビクリと体を硬直させた。二人は恐る恐る顔を見合わせる。
「何かあったのか?」
「えっと、分かりません……」
 絶叫は止まない。「逃げて」という声が悲鳴に交じると、吾郎は麗奈の腕を掴んで立ち上がった。
「麗奈さん、窓から逃げよう」
「で、でも……」
「さぁ、早く!」
 吾郎は焦ったように麗奈の腕を引っ張った。止まない悲鳴。バンッという鋭い音が、隣の教室から暗闇を抜けて麗奈の鼓膜を貫いた。
「た、助けなきゃ……!」
 麗奈は震えた。夢の中だと思ってはいても感情が抑えられない。玲華の悲痛な叫びを、三原麗奈もとい吉田障子は、放っておくことが出来なかった。
 吾郎の手を振り払った麗奈が廊下に向かって走り出す。その後を追うように吾郎も慌てて廊下に飛び出した。
「ひっ、姫……」
 悲鳴に近い声を上げた麗奈の意識が遠のいた。絶叫する姫宮玲華の両腕が強く絞られた雑巾のように空中で捻じ曲げられていたのだ。玲華の前に立つ黒い手足の女生徒。ヤナギの幽霊は何かを警戒するかのようにキョロキョロと左右の暗闇を見渡していた。
 倒れそうになった麗奈を慌てて支えた吾郎は、目の前の光景にサッと青ざめると、麗奈を放って暗い廊下の向こうに駆け出した。はっと意識を取り戻した麗奈は顔を上げる。徐々に途絶えていく声。捻られた腕に吊られるようにして玲華の視線が落ちた。
 怒りで消える恐怖。叫び声を上げた麗奈は黒い女生徒に向かって飛び掛かった。


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