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第一章
旧校舎の邂逅
しおりを挟む睦月花子は忍び足で暗い廊下を進んだ。夜の旧校舎の空気は乾いている。
一階の廊下の端に並べられた段ボールの箱。文化祭の為の小道具。一歩進むごとにきしむ古い校舎に苦戦しながら、花子は当てもなく旧校舎を歩き回った。二階へと続く螺旋状の階段を上がった花子の耳に、微かな声が響く。
女の声?
静寂に交わる囁き。二階に上がった花子は暗闇に耳を澄ました。
どうやら三階のようね。
声の正体はヤナギの幽霊かもしれない。期待に胸を膨らませた花子は、忍び足で三階に向かった。
「のぶくん、待って」
鴨川新九郎は、恐怖と熱意に揺れる後輩の腕を掴んだ。
「待っていられません! このままでは、姫宮さんが大変な目に……!」
小柄な体を躍動させるように暗い廊下を急いだ小田信長は、ダンボール箱に躓いた。悲鳴をあげて転がる信長。慌てて駆け寄った新九郎は、痛みに呻く後輩に手を伸ばす。
「大丈夫かい?」
「だ、大丈夫です。て、敵襲ですか?」
「いや……うん、トラップだね」
信長はキョロキョロと周囲の闇を見渡す。その頭をポンポンと叩いた新九郎は、彼を立ち上がらせる。
「のぶくん、先ずは部長を探さないと」
「え? 部長、いなくなったんですか?」
「うん、あの人、先走って旧校舎の奥に行っちゃったんだ」
「ええっ?」
信長の恐怖心が強まる。魑魅魍魎の渦巻くであろう夜の校舎において、武闘派の部長の存在は大きかった。廊下にへたり込むおかっぱ頭の一年生。慌てて新九郎がその体を支える。目を瞑った信長の瞼の裏に姫宮玲華の黒い髪が浮かび上がった。
座り込んでいる場合じゃないぞ!
待ち合わせ場所にいなかった玲華の行方。彼女を想う信長の心に灯る勇気。
「せ、先輩、行きましょう!」
震える足で立ち上がった信長は、暗闇に一歩足を踏み出した。力強く微笑む新九郎。きしむ廊下を闊歩した二人は、暗い階段を駆け上がった。
三階の暗闇に灯る微かな明かり。興奮と緊張に高鳴る鼓動を抑えようと、花子は深く息を吐いた。
三年C組と書かれた木製の札。薄明かりの漏れる窓。微かな声はその中から聞こえてくる。
サッと腰を落とした花子は、使われていない教室のドアに耳を当てた。囁くような男の息遣い。耳障りな女の笑い声。花子は首を傾げた。
どうやら、幽霊ではなさそうね。
落胆した花子は肩の力を抜くと、そっと引き戸に隙間を作って中を覗き込んだ。小さな懐中電灯を持つ男。男にもたれ掛かる女。キザな黒縁メガネの男の顔を凝視した花子は、力一杯、引き戸を押し開ける。
「御用じゃ御用!」
静かな教室に響き渡った花子の声に、徳山吾郎と三原麗奈は飛び上がって驚いた。
「な、何奴!」
「吾郎、生徒会書記、徳山吾郎。お主、こんな所でこんな時間に、何をやっている?」
「お、お前は! ……お前は、誰だ?」
「超自然現象研究部部長の睦月花子よ! 吾郎と、それと……アンタは誰よ? まあ、いいわ……成敗!」
「くっ」
「ぶ、部長、大丈夫ですか!」
騒ぎを聞きつけて教室に飛び込む新九郎と信長。花子と吾郎を交互に見つめた二人は掴めない状況に首を捻った。
「いったい、どういう事で?」
「新九郎、聞いて驚きなさい! あの二人、徳山吾郎とモブ女。ここで相引きしてやがったのよ!」
「ええっ!?」
「ち、違う! 誤解だ!」
「誤解なもんですかい! 吾郎、神妙にお縄につきなさい!」
「ちょっとぉ、勝手にストーリー作らないでくださります? さっきからプンプンして、もしかして貴方、喪女?」
「モブ女は黙ってなさい!」
「部長、声を抑えて」
白熱する旧校舎の教室。睨み合う花子と吾郎の間に新九郎が立つ。信長は不安そうに暗い廊下を振り返る。
「取り敢えず、アナタは誰ですか?」
新九郎は、生徒会書記徳山吾郎の隣に座る茶髪の女生徒の顔を見つめた。
「貴方こそ、誰です?」
「ああ失敬、僕は、超自然現象研究部副部長の鴨川新九郎」
「へぇ、新九郎クンって言うんだぁ。私、演劇部新女子部長の三原麗奈です。新九郎クン、カッコいいね?」
背の高い新九郎の精悍な太い眉を、麗奈は上目遣いに見上げた。タレ目に伸びる長いまつ毛。少し厚い唇に光るルージュ。新九郎はドギマギと視線を逸らした。
「えっと、麗奈さんは、吾郎くんとここで何をしていたのかな?」
「えー、もしかして新九郎クン、すっごくイヤラしいこと妄想しちゃってますぅ?」
「い、いや……」
「ゴロちゃんとはぁ、文化祭の準備をしていただけですけど?」
「嘘おっしゃい!」
花子は人差し指の先を麗奈の額に向けた。麗奈はギロリと花子の細い目を睨み上げる。全てを失う妄想に震えていた吾郎は乾いた咳払いをすると、汗ばんだ指でクイッとメガネの縁を押し上げた。
「そ、そうだよ、僕たちは文化祭の準備をしていたわけさ! 君達こそ、こんな夜遅くに、旧校舎で何をしているんだ? ば、場合によっては、ただでは済まないぞ!」
「見苦しい! 徳山吾郎、諦めて容疑を認めなさい。田舎のお母さんも泣いてるわよ?」
「マ、ママは関係ないだろ!」
「ねぇ、皆さん、ちょっと」
暗い廊下を見つめていた信長は、階段を踏みしめる誰かの足音を耳にした。慌てて花子と新九郎の元に駆け寄るも、白熱した空気に彼の声は響かない。
「お前ら、何やっとるんだあああ!」
旧校舎全体を震わせる轟音。恐怖に固まる教室の五人。世界史の教師、福山茂雄は、四角い顔を真っ赤に染めてドアの前に仁王立ちした。
重苦しい沈黙が訪れる。絶望に足の力が抜ける新九郎と信長。嘘泣きを始める麗奈。観念して覚悟を決めた花子と吾郎は、サッと視線を交わすとコクリと頷き合った。
「あー、福山先生、ちょうど良かったです」
「何がじゃあ!」
「実は僕たち、文化祭の為の準備をしてたんですけど、機材が足りなくて困ってたんです」
「ぶ、文化祭だとぉ? こんな夜遅くまで、文化祭の準備をしとったと言うんか?」
「はい、あれ、もうそんな時間なんですか? 参ったな、見たい番組があったんだけど」
「もう、困ったものね、吾郎くん。アナタ、文化祭に対する想いが強過ぎるわ」
やれやれと花子が肩をすくめる演技をする。吾郎は悔しそうなふりをして教室の床を軽く叩いた。徐々に怒りの鎮まる世界史の教員。坊主頭を掻いた茂雄は、花子たちに向かってため息をついた。
「まったく、お前らなぁ。頑張るのもいいが、ほどほどにしておけよ?」
「すいませーん。ですが、文化祭は絶対に成功させたいのでーす」
オペラ歌手のような花子の声。
「分かった分かった。ああ、あと、文化祭の準備もいいが、夜遅くに一年を呼び出すのはやめにしろよ。補導される事だってあるし、この辺は割と物騒なんだ。お前ら、誘拐でもされたらどうする?」
「ああ、すいません、秀吉くんがどうしても来たいって大騒ぎするから」
「ええ、僕、来たいなんて……」
花子の貫き手が信長の脇腹に突き刺さる。呼吸の止まった信長の体が新九郎の腕に倒れ込んだ。
「おほほ、ほんと、今年の一年って元気ね」
「いや、小田もだが、姫宮と吉田の話をしてるんだ」
「……姫宮と吉田?」
「姫宮と吉田がな、さっき校庭でイチャついとったから、怒鳴りつけたんだわ。そうしたら姫宮が、旧校舎に呼び出されたって怯えたように言うもんだから、てっきりお前ら、何か悪さでもしとるんじゃないか、とよ……」
姫宮という単語に信長はフラフラと顔を上げる。虚をつかれたのように目を見開く女。ゆっくりと目を細めていった花子は微かに唇を歪めると暗い窓の向こうを見つめた。
「あー、はいはい、なるほど、そうですか。あの子、文化祭でやりたい事があるらしくて、頼まれてたから呼んであげたんですけど、何か勘違いしちゃったのかな?」
「呼ぶな呼ぶな。それに準備もいいが、暗くなるまでにしろよ」
「はい、以後気をつけます」
サッと花子は敬礼のポーズをする。その頬は激しい怒りでヒクヒクと痙攣していた。
姫宮玲華、あの女、彼氏と相引きする為に夜の学校に忍び込んだってわけ。アタシたちを隠れ蓑に使うなんて、いい根性してるじゃないの……。
握り締められた花子の拳に血管が浮かぶ。部長の怒りを感じ取った信長は、慌てて立ち上がると同じように敬礼のポーズを取った。
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