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【第五部:聖なる村】第六章

失われていく命

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 ルイに連れられて階段を上がってきた医師は、その惨状に最初の言葉が見つからなかった。
 ハーレルの眠っている寝台のある部屋の床に、仰向けに横たわる青年。その衣服は腹を中心に真っ赤に染まり、床に広がる血だまりはディオネが拭き取ろうとしているところだった。しかしその光景は、拭き取るというより雑巾をいたずらに血の海に浸しているようにしか見えず、瞬時に赤に染まる布は、何枚あっても足りないようだった。部屋の外、エルシャの様子が見えない隅のほうで、ナイシェがラミを抱きかかえるようにしてうずくまっていた。ラミは肩を震わせて泣いており、ナイシェが絶えず何かを囁きかけている。

「……これはいったい、どういうことだね……」

 部屋に一歩足を踏み入れた医師は、むっとする血の臭いに思わず鼻を覆った。フェランが事情を話す間にも、医師は無駄のない動きで鞄から何やら取り出し、エルシャの目に光を当てたり胸の音を聞いたりしている。続いてハサミを取り出し、服を切り裂いて傷口を診ようとしたところで、フェランが口を挟んだ。

「あの背中の左側を刺されたのですが、傷は、今は塞がっているはずです」
「塞がっている? 馬鹿をいわないでくれ、刺されたのはこの夜中といっただろう。これだけの出血を、素人に止められるはずがない。……ああ、君たちは白魔術が使えるんだったな」

 医師はエルシャの体を少し持ち上げて傷口を確認した。指一本分ほどの長さの線状の傷跡が見える。

「……ふむ、確かに塞がっている。これは、左の腎臓を刺されたな。君たちに魔術が使えなかったら、彼は今ごろ死んでいただろうよ」

 医師はこともなげにいいながら、手早く点滴の袋を用意した。エルシャの腕に針を刺しながら、続けていった。

「とはいえ、彼はまだ助かるかわからない。出血量が多すぎる。私にできるのは、失われた分を水分として与えることだけだ。失われた血液を補充することはできない。極度に薄まった血で、彼の体が耐えられるかどうか……」
「僕の……僕の血を代わりに与えることはできないんですか」

 フェランの震える声に、医師は首を横に振った。

「残念だが、そう簡単なことではないんだ。彼の体が自分の力で血を造り出すまで、私たちは注意深く見守るしかない。彼の、体力次第というところだな。しばらくはこの点滴と、あとは体を温めてあげることだ。運がよければ、意識が戻るだろう」
「運が……よければ……」

 ディオネが呟くように繰り返した。気づかないうちに、床を拭く手の甲に涙が一粒零れ落ちる。
 運が悪ければ、死ぬということだ。それに、医師は白魔術だと勘違いしているが、本当は違う。破片に宿された神の記憶が、これからエルシャに想像もできないほどの苦痛と試練を与えるだろう。生死をさまようこの体が、その重圧に果たして耐えられるのだろうか。

 一通りの処置を終え、医師は腰を上げた。

「まったく。面倒はごめんだといっただろう。次から次へと、君たちは……」

 そして寝台に横たわるハーレルのほうへ歩み寄った。

「どうだね、こちらはだいぶ回復してきたかね」
「あ……はい、もう少しで食べられそうなくらいで……昨夜の騒ぎからは、まだ眠ったままですが」

 何とか気を取り直してそう伝えたフェランだったが、ほどなくして医師の様子がおかしいことに気づいた。

「ハーレルくん。聞こえるかね? ハーレルくん!」

 ハーレルは反応しない。医師は何度もハルの目に光を当て、続いて診察のため衣服を脱がせようとして手を止めた。

「これは、どういうことかね」

 フェランとディオネが立ち上がる。医師に促され見たものは、ハーレルの首元にくっきりと残る、赤黒いあざのような痕だった。いわれなくても、その形が人間の指のそれであることは明らかだ。事態を飲み込むと同時に、放心しかけていた心が再び強い緊張に襲われる。

「生きてるんですよね……?」

 ディオネの問いに、医師は険しい表情で答えた。

「息はあるが、これでは……。襲われたのは、エルシャくんだけではなかったのかね」
「それが……そのとき部屋にいたのはエルシャとラミだけで……あたしたちは、何があったのか見ていないんです。たぶん犯人は、ハーレルを狙って……それを防ごうとして、エルシャが怪我をしたんだと……」

 部屋の外で、ラミのすすり泣く声が大きくなった。

「ラミの……ラミのせいなの? ラミが遊びに来たから……」
「違うわよ、ラミ。悪いのは全部、こんなことをした犯人よ。あなたは何も悪くないの」

 ナイシェがいっそう強く抱きしめていい聞かせている。医師はため息をつくと、隣の部屋に聞こえないように声を落としていった。

「強く、首を絞められたようだ。息はあるが……残念だが、脳のほうが機能している様子がない。犯人は逃げたといっていたが……ハーレルくんに関しては……わずかばかり、手遅れだったようだ」
「……どういう意味ですか」

 フェランの問いに、医師は再び、先ほどより深いため息をついた。

「……時間の問題だな。あと数日か……。回復の兆しがあっただけに、残念だよ」

 適当な言葉が、見つからなかった。息苦しくなるほど重く真っ暗な空気に、押し潰されそうになる。それを遠くのほうから現実に繋ぎとめるのは、ラミのすすり泣く声だけだった。
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