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【第四部:神の記憶】第六章
母ナキア
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草の丈が胸まである草原で、三人はいつものようにかくれんぼを始めた。今日の鬼はジュノレスだ。ジュノレスは目を閉じて大きく十数えた。
「行くぞー!」
ジュノレスは草をかき分け走り出した。
葉と葉の擦れる音を遠くに聞きながら、リキュスは息を殺してうずくまっていた。少しでも動くと、丈の長い草が揺れて居所をばらしてしまう。ジュノレスの気配が遠ざかっていくのがわかり、リキュスは一安心した。しばらくして、ジュノレスの声が聞こえた。
「エルシャ見ーつけた! 次はリキュスだ! 見つけてやるぞ!」
リキュスは体を縮めて歯を食いしばっていた。リキュスの近づいてくる音が聞こえる。リキュスはきつく目を閉じた。そのとき、遠くのほうで、誰かがリキュスを呼ぶ声がした。ジュノレスのいる方向とは反対側だ。
「……リキュス様! リキュス様!」
聞き覚えがある。乳母のミニヤの声だ。リキュスは一瞬迷ったが、返事をしないことにした。すれば、ジュノレスに見つかってしまう。
「リキュス様! どちらですか! 出ていらしてください、お母様が……!」
途端に、リキュスの心臓が早鐘を打ち始めた。何か良くないことが起きたのだ。それでもリキュスは、固く両こぶしを握り締めて縮こまったまま動かなかった。すると、今度はジュノレスの声が聞こえた。
「リキュス! 出て来いよ! ナキアおばさまが大変なんだ!」
リキュスは耳を塞いで頭を振った。
「……嫌だ!」
「リキュス、どこだ!?」
エルシャの声もする。リキュスはいっそう強く耳を塞いだ。
「嫌だ、嫌だ!」
突然、目の前の草が動いてエルシャが現れた。エルシャはうずくまっている弟の肩をゆすった。
「リキュス! 聞こえただろう? おまえのお母様が危篤なんだ。今行かないと、後悔するかもしれないぞ!」
それでもリキュスは首を振った。
「嫌だ! 行きたくない! 母上は大丈夫だよ、僕を置いてなんかいかない!」
エルシャはリキュスの二の腕をぐいと引っ張った。
「逃げるな、リキュス! どうしても行かないというのなら、殴ってでも連れて行くぞ」
「リキュス、ナキアおばさまはおまえに会いたがっているんだ」
ジュノレスがいう。
「リキュス様、お急ぎください!」
ミニヤの声は切迫している。
「さあ、行くぞ!」
エルシャに手を引かれ、リキュスは震える足で立ち上がった。そして、黄昏宮に向かって走り出す。
母親であるナキアは、一年前から原因不明の病で寝たきりだった。数日おきの高熱が繰り返し、日に日に頬がこけていき、今では食事をしてもすべて戻してしまうほどだった。毎日のように母親を見舞っていたリキュスも、ここ数日は黄昏宮を訪れていなかった。見るたびにやつれていく母親に会うのが嫌だったのだ。母上はいつか元気になる。そういい聞かせて、リキュスはあえて足を運ばなかった。そして気を紛らわせるため、エルシャやジュノレスとよく遊ぶようになった。本当は、宮殿の中にとどまっていると、どうしても嫌な噂が耳に入るからという理由もあった。宮殿の者は、みな話していた――ナキアは身分が低い上に不道徳な女だから、天罰が下ったのだ、と。ミニヤはいつもそれを否定していた。ナキア様ほど心優しく謙虚な方はいないと、ことあるごとにリキュスに話して聞かせていた。リキュスにも、それはよくわかっていた。しかし、自分がその不道徳な女の息子だという周囲の目から逃れることは、いつだってできなかった。
黄昏宮に入ると、広い廊下を行き来する父のアルクスがいた。アルクスはリキュスの姿を見つけると駆け寄ってきた。
「リキュス! よかった、こちらへ来なさい。ナキアがおまえを呼んでいる」
リキュスは重い足取りでナキアの寝室へ入った。寝台に横たわったナキアは、リキュスが数日前に見たときよりもいっそう痩せこけていた。リキュスを目にして、ナキアは少しだけ微笑んだ。しかし、実際には頬が少しひきつっただけだった。
「……リキュス。来てくれたのね、うれしいわ」
ナキアはそこまでいうと、ため息をついた。話し続ける体力も、もう残ってはいなかった。
「ナキア様、薬湯をお飲みください」
ひとりの医師が温かい湯を持ってきた。しかし、ナキアは静かに首を振る。
「もう、結構です。このまま、神の御遺志のままに……」
「母上……」
リキュスはひざまずいて母の手を握った。その手は冷たく、指は折れてしまうかと思うほど細っている。
「リキュス……あなたが大人になった姿は、見られそうもないわ」
「母上……!」
リキュスの目に涙が浮かぶ。
「男の子は、けして泣いてはいけません。いいですね?」
母の言葉に、リキュスは漏れ出そうな嗚咽を懸命に堪えた。
「辛いことがあっても耐え抜くだけの力を、あなたは持っている。そうでしょう?」
リキュスはきつく瞼を閉じてうなずいた。
「……はい、母上」
すると、ナキアは口元を緩めた。
「……私が、そう育てたものね」
「……はい」
ナキアはリキュスの茶色の髪をそっと撫で、大きくひとつ息をついた。そして医師に向かっていった。
「……しばらく、二人にしていただけるかしら」
医師がうなずいて、部屋の者を促す。リキュスとふたりきりになると、ナキアはそっと息子の頬に触れた。
「リキュス……あなたとも、もうお別れね」
「まだです母上、まだ……!」
「……私にはわかるのよ。神が、呼んでいらっしゃるの」
ナキアはそういうと、リキュスの両手を握りしめた。
「愛しているわ、リキュス。……最後に、お母さんのいうことを聞いてちょうだい」
「行くぞー!」
ジュノレスは草をかき分け走り出した。
葉と葉の擦れる音を遠くに聞きながら、リキュスは息を殺してうずくまっていた。少しでも動くと、丈の長い草が揺れて居所をばらしてしまう。ジュノレスの気配が遠ざかっていくのがわかり、リキュスは一安心した。しばらくして、ジュノレスの声が聞こえた。
「エルシャ見ーつけた! 次はリキュスだ! 見つけてやるぞ!」
リキュスは体を縮めて歯を食いしばっていた。リキュスの近づいてくる音が聞こえる。リキュスはきつく目を閉じた。そのとき、遠くのほうで、誰かがリキュスを呼ぶ声がした。ジュノレスのいる方向とは反対側だ。
「……リキュス様! リキュス様!」
聞き覚えがある。乳母のミニヤの声だ。リキュスは一瞬迷ったが、返事をしないことにした。すれば、ジュノレスに見つかってしまう。
「リキュス様! どちらですか! 出ていらしてください、お母様が……!」
途端に、リキュスの心臓が早鐘を打ち始めた。何か良くないことが起きたのだ。それでもリキュスは、固く両こぶしを握り締めて縮こまったまま動かなかった。すると、今度はジュノレスの声が聞こえた。
「リキュス! 出て来いよ! ナキアおばさまが大変なんだ!」
リキュスは耳を塞いで頭を振った。
「……嫌だ!」
「リキュス、どこだ!?」
エルシャの声もする。リキュスはいっそう強く耳を塞いだ。
「嫌だ、嫌だ!」
突然、目の前の草が動いてエルシャが現れた。エルシャはうずくまっている弟の肩をゆすった。
「リキュス! 聞こえただろう? おまえのお母様が危篤なんだ。今行かないと、後悔するかもしれないぞ!」
それでもリキュスは首を振った。
「嫌だ! 行きたくない! 母上は大丈夫だよ、僕を置いてなんかいかない!」
エルシャはリキュスの二の腕をぐいと引っ張った。
「逃げるな、リキュス! どうしても行かないというのなら、殴ってでも連れて行くぞ」
「リキュス、ナキアおばさまはおまえに会いたがっているんだ」
ジュノレスがいう。
「リキュス様、お急ぎください!」
ミニヤの声は切迫している。
「さあ、行くぞ!」
エルシャに手を引かれ、リキュスは震える足で立ち上がった。そして、黄昏宮に向かって走り出す。
母親であるナキアは、一年前から原因不明の病で寝たきりだった。数日おきの高熱が繰り返し、日に日に頬がこけていき、今では食事をしてもすべて戻してしまうほどだった。毎日のように母親を見舞っていたリキュスも、ここ数日は黄昏宮を訪れていなかった。見るたびにやつれていく母親に会うのが嫌だったのだ。母上はいつか元気になる。そういい聞かせて、リキュスはあえて足を運ばなかった。そして気を紛らわせるため、エルシャやジュノレスとよく遊ぶようになった。本当は、宮殿の中にとどまっていると、どうしても嫌な噂が耳に入るからという理由もあった。宮殿の者は、みな話していた――ナキアは身分が低い上に不道徳な女だから、天罰が下ったのだ、と。ミニヤはいつもそれを否定していた。ナキア様ほど心優しく謙虚な方はいないと、ことあるごとにリキュスに話して聞かせていた。リキュスにも、それはよくわかっていた。しかし、自分がその不道徳な女の息子だという周囲の目から逃れることは、いつだってできなかった。
黄昏宮に入ると、広い廊下を行き来する父のアルクスがいた。アルクスはリキュスの姿を見つけると駆け寄ってきた。
「リキュス! よかった、こちらへ来なさい。ナキアがおまえを呼んでいる」
リキュスは重い足取りでナキアの寝室へ入った。寝台に横たわったナキアは、リキュスが数日前に見たときよりもいっそう痩せこけていた。リキュスを目にして、ナキアは少しだけ微笑んだ。しかし、実際には頬が少しひきつっただけだった。
「……リキュス。来てくれたのね、うれしいわ」
ナキアはそこまでいうと、ため息をついた。話し続ける体力も、もう残ってはいなかった。
「ナキア様、薬湯をお飲みください」
ひとりの医師が温かい湯を持ってきた。しかし、ナキアは静かに首を振る。
「もう、結構です。このまま、神の御遺志のままに……」
「母上……」
リキュスはひざまずいて母の手を握った。その手は冷たく、指は折れてしまうかと思うほど細っている。
「リキュス……あなたが大人になった姿は、見られそうもないわ」
「母上……!」
リキュスの目に涙が浮かぶ。
「男の子は、けして泣いてはいけません。いいですね?」
母の言葉に、リキュスは漏れ出そうな嗚咽を懸命に堪えた。
「辛いことがあっても耐え抜くだけの力を、あなたは持っている。そうでしょう?」
リキュスはきつく瞼を閉じてうなずいた。
「……はい、母上」
すると、ナキアは口元を緩めた。
「……私が、そう育てたものね」
「……はい」
ナキアはリキュスの茶色の髪をそっと撫で、大きくひとつ息をついた。そして医師に向かっていった。
「……しばらく、二人にしていただけるかしら」
医師がうなずいて、部屋の者を促す。リキュスとふたりきりになると、ナキアはそっと息子の頬に触れた。
「リキュス……あなたとも、もうお別れね」
「まだです母上、まだ……!」
「……私にはわかるのよ。神が、呼んでいらっしゃるの」
ナキアはそういうと、リキュスの両手を握りしめた。
「愛しているわ、リキュス。……最後に、お母さんのいうことを聞いてちょうだい」
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